第六話
はっと、ネルハンシェラが周囲を見れば景色が一変している。
シェズ村ではない。銀無垢に輝く霊峰に囲まれた世界。どれ一つとっても見たこともない高峰。剣山のごとく山に囲まれた世界。太陽が見えないにも関わらず風景の果てまで見通せる。この場所は昼とも夜ともつかない。
遠吠えが飛び回っている。こだまとなって山から山へ、魂を縮こませる恐ろしい声。そして煙のように湧き立つ狼の群れ。
人間など一呑みにできそうな大狼が雪の斜面を駆け下りてくる。白い雪崩となって四方八方から。
さきがけを駆ける一頭がニールに襲い掛かり、その腕に食らいつき、ハガネのような牙で腕を一瞬でもぎ取らんとする。
「あ――!」
だが次の瞬間。狼の胴が両断されている。
ニールの手にあるのは輝きの白刃。口腔に突き入れた剣で瞬時に斬り裂いたのか。
光を固めて作ったかのような、白よりもなお白い刀身。
狼が殺到する。
濁流が襲い掛かるように一気に、ニールの体を押し倒し、鎧を踏みしだき噛みちぎり、首を、足を、眼球を噛み砕かんとする。
光が走る。
乱戦の中にひらめく白い直線。狼が空気のように裂かれる。断ち切られたその体は白い霧となって消えていく。
二撃、六撃、十三撃。直線的な斬線が連続して狼を散らしていく。
「す、すごい……」
「ニールはね、あれで強いのよ」
背後にギンワタネコがいる。何度か聞いたように女性らしい口調で語る。
「それにあの剣もある。あれは化け物にはよく効くのよ。斬るものが分かっていれば必ず斬ることができる」
「え……しゃ、喋ってる。あれは腹話術だったはず」
「私も夢と現の境目にいるのよ。ニールが勝手に腹話術やってるだけなのか、私が彼の口を使って喋らせてるのか、それも曖昧なの。どちらかではなく、どちらもなのよ、重なり合っているの」
朱色が散る。
ネルハンシェラがまた目を向ければ、狼の群れに混ざって赤い花が散る。ニールも無傷ではいられないのか、赤い鎧はさらに紅く、地吹雪に混ざって血煙の舞うかに思える。その向こうから白刃が伸びて狼の首を突く。幽鬼のような影が、一頭ずつ狼を仕留めていく。
「だ、大丈夫なのでしょうか、あんなに血が」
「さあね」
ギンワタネコは雪の上にうずくまる。すべての事象から離れた位置にあるように、首を己の胴に埋めて目を閉じる。
「化け物の強さは斬るものの困難さで変わる。ニールが斬ろうとしているのは世界への怒り。誰にも触れられたくない井戸の底の泥。世界を喰らい尽くす怒り」
「怒り、を、斬る……。それは、それはあまりにも、おとぎ話のような」
「ニールから聞いたでしょう? 越冬官の剣は形のないものを斬る。ものが腐る事象、いつか怪我をするという事象、あるいは心の中に抱えた暗澹たる感情すらも斬る」
「それって……そんなこと、あまりにも、異常な」
「そうよ。人の直面する困難を、正しいやり方ではない方法で消してしまう。それはやはり禁忌なの。禁じ手なのよ。だから命がけで怪物と戦わねばならない。それだけではなく、概念を斬るものは自然の摂理からはじき出される。おとぎの国の住人になってしまうの」
「おとぎの……国の」
越冬官。
永い冬の間、冬守りの助けにならんと旅をする人。
おとぎ話の住人。
伝わっている昔話。
童話集にあった話。
700年前の永い冬にも。
「来るわ、本体よ」
雪原は血で染まっている。地獄のような混沌の眺め。
ひときわ大きな、見上げるほどの狼が降り立つ。
その胴は長く白蛇のよう。銀に近い体毛と、たくましい脚を無数に生やした異形。
疾走る。白い影を曳いて、地吹雪を巻き上げながら。
人間の目では絶対に追えないほどの速度。すれ違いざまにニールの脇腹をえぐらんとする。
だがニールの反応が早い。足を組み替えてかわすと同時に狼の胴に赤が咲く。
蛇のごとき狼は高音で叫び、大きく躍り上がって遥か上空まで体を伸ばす。天にわだかまる質量のかたまりとなって、この小さな騎士にのしかからんとする。
「剣の輝きより――」
剣が、その光を増す。
手の中から噴き上がるような光。世界の果てまで届くような光の直刃。腰だめに構えたそれを、一気に。
「逃れること能わず」
円弧の光。
輝きが山にまで、空の高みにまで届き、大地も、吹雪も、雲もすべて薙ぎ散らす一瞬。
視界が開ける。
幻想がどこかへ遠ざかり、静かな夜の闇がふいに降りる。
明かりがカンテラのみになっていることに、数秒遅れて気づく。
どさり、とその場に倒れる少年の姿が。
「ケルトゥ!」
ネルハンシェラが駆け寄る。
ケルトゥは薄く眼を開けている。眠りから覚めたばかりのように目をしばたたく。
「ネルハンシェラ……あれ、ここどこ? 何やってたんだっけ……」
「ケルトゥ……大丈夫なの? どこか、体は」
「大丈夫……変だな。何だかすごく気分がいいんだ。枝で一杯の背負いカゴを下ろしたときみたいな。頭の中がすっきりしてて……」
「ケルトゥ……」
「あ、いけない、炭焼き小屋にカゴ取りに行くんだった。急がないと」
ケルトゥはすっくと立って、不思議そうに周りを見る。
「ここって村の外れだよね? なんでこんなとこに。道を間違えて頭でも打ったかな」
「ケルトゥ大丈夫なの、あなた」
「ネルハンシェラ、手をつないどこう」
と、手を掴まれる。
「え?」
「僕の方が道のデコボコに詳しいから、手を引くよ。といっても転んだばかりだったら恥ずかしいけど」
不思議と、彼に感じていたか細い、脆弱な印象が遠ざかっている。手は若々しい熱に溢れて、ネルハンシェラはなぜか緊張を覚えた。
「ちょっと待って、越冬官さまが……」
振り向く、しかし誰もいない。
「あ、れ……」
「越冬官さまも来てたの? 村に降りたのかな」
一瞬、越冬官などすべて幻であり、夢だったのではないか、という誘惑のような思考が浮かぶ。
だが幻ではない。ケルトゥは気づいていないが、地面には血の跡が残っている。ケルトゥが噛んだとおぼしき人物と、越冬官の血が、2カ所に。
「……」
この血の跡は、明日の朝一番に消してしまおう、そう考える。
「越冬官さまは……また旅に出たのかも知れない。他の村へ、ほんの数人で村を守っている、どこかの冬守りのために」
「そうなんだ、残念だなあ、まだいろいろ教えてもらいたいのに」
「そうだね……」
村へと戻る。これから百年を過ごす小さな村。
二人きりで。
そのことが、以前ほどは恐ろしくない気がした。
「ねえケルトゥ、文字を教えるから、あなたも本を読むといいよ」
「うええ、面倒だなあ」
「でも必要なことだよ。二人で頑張っていこう。食べ物を集めて、熱のこもりがいい家に作り変えて、罠を使って鳥なんかも捕まえて……」
そして。
そこから先のことは、まだ考えずともいいだろう。ネルハンシェラはそう理解する。
百年を生きる心構えは、百年かけて身につけるべきなのだ。
山は静かに二人を見下ろし、太古の時代から変わらず、そこにあった。
※
旅人が、山裾の道を歩いている。
鎧と布飾りは血で汚れ、それは乾いて固まり、紅く鮮やかだった鎧は少し黒ずんで見える。旅人はしゅるしゅると音を立てて、巻いていた包帯を捨てる。
「狼はケルトゥ自身だったのね」
後ろからギンワタネコがついてくる。ニールを見上げてみいと鳴き、丸い目玉をくるくると光らせる。
「あの子は怒りを抱えていた。自分の境遇を、自分たちに接してきた人間を、自分たちに冬守りを押しつけた村を憎んでいた。怒りは山にぶつけられ、その反響が狼の遠吠えに感じられた。それは世界を怒りで満たすという概念」
ギンワタネコは黒い岩に飛び乗ると、そこでうずくまる。どうやらその岩には陽がよく当たり、他の場所より暖かいようだ。ニールはつと足を止める。
「強い怒りでした。命を危ぶんだのは久しぶりのことです」
「そうね。あの子は自分では気づいてないけど、とても強い子だった。シェズ村だけじゃない。手の届く世界のすべてを壊しかねない。その強さと怒りにケルトゥ自身も怯えていた。それが狼の正体」
「そうですね」
「あの村はうまくやっていけるかしら。ケルトゥに巣食っていた怒りを斬ったとしても、まだまだ問題は山積みよ。食料もまるで足りないし、家の改良も伝えきれなかった。燃料が大量にあるなら温室を作れたでしょうに、それも手伝えなかったわね」
「ケルトゥはたくましく、ネルハンシェラは賢い子です。試行錯誤を繰り返して成長していくでしょう」
ニールはまた歩き出す。ギンワタネコはついて行ったりはせず、そのまま岩の上で日向ぼっこを続けるようだ。
永い冬の訪れ。
それは確かに予感されていたが、今、このときは。
猫の眠る岩の上だけは、ささやかな春が残っていた。