第五十八話
冬守りの日々は均一である。
寝起きし、食べ、労働に明け暮れる。二人きりの社会では会話も通り一遍なものとなり、来訪者もなく、大きな天災もない、されど安穏たる日はない。
そんな日々のなかで、ガノーは雪を歩き回る。
わずかな起伏から建物の検討をつけ、スコップで雪をかき分け建物を探す。それは海の水を掘るような、終わりのない仕事である。
「おおよそだが全部の家は把握できた」
木の板に木炭で描かれるのは村の地図。この村には人が住んでいたと思われる建物が35あり、他に集会所や炭焼き小屋、貯蔵庫などがある。共通しているのは、どの家もとても頑丈に作られていること、一階に鍵がかかっていることぐらいだ。
「まだ手を付けてない貯蔵庫が一つある。かなり大きい。食い物は数年はもつだろう」
「そうだねえ、温室も維持できてるし、食っていくぶんには何とかなるかねえ」
「問題はゴーだ、だいぶ年を取ってる」
「もうあまり重労働はさせられないね。近くに野生のゴーでもいればいいんだけどねえ。今度、二人でゴーを探しに行くかい?」
そのような試みが何度か行われる。食料と野営の道具を背負い、盆地を出て、西へ東へと歩き回る。雪は柔らかくそれでいて深い。大きなかんじきを履かねばとても歩けず、距離を稼ぐことができない。足を棒にして探してもゴーは見つからない。それを数年、繰り返す。
ゴーを譲り受けられないかと思い、マシュナとガノーが元々いた村まで出向いたこともある。そして、その村が消えていることを知った。
何もかもすべて燃え尽きていた。建物は完全に炭化し、崩れ去り、貯蔵庫だった場所にはほとんど何も残っていない。家畜もいない。家具やカーペットは燃えたのだろうか。それとも誰かが持ち去ったのか。
「ひどいね……何があったんだい?」
「わからねえ、火事を起こして村を捨てたのか、悪党の襲撃を受けたのか」
「そういうの……狼とか言うんだっけね。魔法の本に入らなかったって人間……」
この村に起きたことについて、ガノーとマシュナが詳細を知ることは生涯なかった。そして二人は知るすべもないが、このように突然、消えてしまう村はけして少なくなかった。
人が消え、村が焼け落ち、土地が雪に埋まる。それは櫛の歯がいつかは欠け、増えることが二度とないように、必然という言葉と結び付いていた。
百年を生きることの難しさ。冬守りであるガノーとマシュナも、真にそれを理解してはいない。ただ、初めて人の死に触れた子供のように、寒気にも似た畏れが、じわじわと認識されてくる。
「……この場を離れたほうがいい。もう、このあたりに来るのはやめよう」
「ああ、そうだねえ。そういやあ、ここは何て名前の村だっけねえ……」
焼け跡を離れ、三日三晩を歩いて、自分たちの村へと帰る。
また雪が深くなっている。窓や壁には濡れ布巾のように雪が張り付き、屋根にも分厚く積もっている。
「無事だったな」
「何だいガノー、村を心配してたのかい。狼だってこんなところに来やしないよ」
「ああ、いや……」
ガノーは、自分が深い安堵の中にいると感じた。
白一色の風景にすら懐かしさを覚えた。安らぎがあった。
この盆地は雪深く、暮らすことに困難はあるが、少なくとも自分たちしかいない。誰かが深い雪を歩いてここまで来るとは到底思えない。不安という、詳しくは思考されない概念から、ともかく遠ざかったことに胸をなでおろす。
あるいはそれは冬守りが共有する感覚。厳しく困難な日々であっても、ごく狭い社会には確かに安心がある。
他者という不安。
数多くの人間が生み出す、冬守りたちの経験したことのない憂いが、ここにはない。それをわずかに意識する。
屋根の雪を下ろし、人力の荷車で雪を運びながら思う。仕事による疲労も、同じような日々も、食料や住居についての不安も自分だけのものだ。生まれてから冬の時代しか知らず、10年あまりをマシュナとのみ過ごした彼には、他の人間というものが遠いものに感じられる。
だがガノーのそんな考えが、この世の真理というわけではない。
ガノーはいつしか、自己と他者の考え方の違い、という概念を見失っていた。その時が来るまでは。
「ねえガノー、このまんまじゃあいけないよ」
そのような話を切り出されたのは、ゴーを探すのをやめてだいぶ経ったころ。
「何の話だ?」
「分かってんだろう? この盆地は、ここより低い道が一つもないんだ。水の逃げ場がないんだよ」
「水……」
「私らはこの盆地からすべての雪をどけなきゃあいけない。そうしなけりゃ、春が来たら村は水に沈んじまうよ」
春。という言葉は井戸の底にあるような気がした。時間をかけてその意味をたぐり寄せる。
「春……だって」
「そうだよ、長い冬だっていつかは終わるんだ。あたしらはこの村の冬守りなんだから、村を守らないと。この村にだって住人が戻ってくるだろうし」
ガノーは、マシュナの言っていることがひどい絵空事に思われた。端的に言えば何かの冗談のように感じられた。だからガノーの受け答えも、冗談の話に冗談で返すような、単に調子を合わせただけのものだった。
「だが……どかしたってまた積もっちまうだろう」
「いいや、たまに大雪はあるけどね。通年でそこまで降るわけじゃないよ。雪を峠の向こうに捨てる量を増やせばいいんだ、そうすりゃあ川の跡だって見つかる」
「川の跡……」
「あの雪惑いが言ってただろう。きっと、水が地下に抜ける穴があるはずなんだよ。それを探さないと。埋まってるなら土をどけて、水の出口を作らなきゃいけないよ」
雪惑い。
その言葉はさらに遠くにあった。思い出そうともしていなかった。病の記憶にも似て、思い出すことに億劫さを覚える。
「捨てる量は……増やせない。ゴーは年寄りで雪を運べないし、川なんか本当にあるのかどうか」
「だからさ、ゴーを探しに行くんだよ」
「ゴーは……見つからなかったじゃないか。何度も探した」
「もっと遠くまで行きゃあいいさ。早く歩けるスキーとか、中継用の基地を作ってもいい。何年か村を放っておいてゴー探しに費やしてもいいじゃないか」
「それは……難しいだろう」
何がどう難しいのかうまく言葉にできない。だがその言葉にはそれなりに重みが生まれたようで、マシュナはじっと考える。
「それは分かるさ。ガノーは本当によく村を守ってるよ。数年も村を空けたら、建物がどうなるかも分かんないしねえ」
でも、とマシュナは食い下がる。
「いつか冬は明けるだろうし、そしたら魔法の本から人が出てくるんだよ。今のままじゃ雪が溶けたらどうなると思うんだい。村が丸ごと沈むんだよ」
「そんなことには……ならないだろう。村があったんだ。冬の前にも、人が住んでいたはずだ」
「そうだね、どこかに水のはける場所があるかも知れない。そうでなきゃあ、そもそも村ができてないはずだからね」
マシュナは、そのぐらいの議論は当然共有されてるものとして話している。ガノーは不安を覚えながら言う。
「それに魔法の本は……どの家にもなかった」
「どこかに隠してあるかも知れないさ。それに、仮になくったって、別の場所にあるとしたって、本から出てきた人はこの村を目指すだろう? それに、春が明けたらこの土地に住みたいって人らがやってくるかも」
「そんなことは……ないだろう」
「ない? ないって?」
「だから、冬はまだ明けないだろう」
長い冬があと何年続くのか、ガノーとマシュナも知らなかった。
「明けるとしても、俺が死んだ後だ」
「なんだよ! そりゃあんまり無責任だろう!」
その言葉はマシュナの機嫌を損ねたらしい。だがガノーには何が良くなかったのかも分からない。
「事実じゃないか……。俺だってもう……何歳だったか、とにかく春が来るってんなら、その時に生きてる人間が何とかすりゃいい」
「あたしらは冬守りだろう? 村を守る義務が」
「ゴーを探すかどうかだろう……。ゴーを探すのは危険なんだ。命の危険があるんだ。俺は命を危険にさらせない」
それほど争ったことは初めてだった。自分がなぜそんなに反発したのか分からない。
そしてまったく見当違いなことを言っていたわけでもない。言葉の一つ一つは確かにマシュナに届いていた。ガノー自身が日々に埋没するような人物であっても、何も考えていないという自覚があっても、体のどこかに言葉の霊が住み着いており、それがガノーの口を使って喋らせていた。ガノーという人格のさらに外側に、冬守りとしての自己が薄く膜を張るかのようだった。
手紙を残し、マシュナが消えたのは翌日のこと。
「ゴーを探しに行く」とだけ記された手紙。マシュナの足跡は峠の向こうに消えていた。
10数回、旅をした身でありながら、今のガノーには外界が遠く思われた。ガノーはいつの間にか、あらゆる他者を忌避していた。
マシュナは二度と戻ってこないような気がした。それが勝手な思い込みであることも自覚していた。どちらかと言えば、戻ってこないで欲しいというのが正確だが、それを意識として言語化できるほど腹は据わっていない。
マシュナは戻ってこなかった。10日が経ち、一ヶ月が経ち、三年が経っても。
ガノーは、スコップで雪を掘る。
その体は大岩のようだった。体中の筋肉が膨れ上がり、熱を持ち、その熱は仕事にのみ向けられる。
発酵した肉と豆を喰らい、その豆で作った汁物を飲み、わずかな野菜を喰らう。
ゴーは年を取り、働けなくなった。連れ合いをなくしてからずっと気が弱っていたようにも思う。
掘る、運ぶ、雪を捨てる。
喰らい、眠り、また働く。
そんな日々が繰り返される。ガノーの肉体は老いるとも成長するともつかない。ただ毎日少しずつ筋肉が硬くなり、太くなり、スコップもそれに合わせて大きくなるような気がした。スコップを軽く感じることは1日とてない。スコップを何度か作り直して大きくしているからか、一度にすくう雪が増え続けているからか。
雪は減っているのかどうか分からない。冬はいつ明けるのか考えることもない。
その果てしない日々。
数え切れない昼と夜と、その中で身体に詰め込まれる労働の果てに。
「橋」
言葉を発する。
ガノーは、己の声が枯れていることに気づいた。何年も声を出していなかったためか。
この橋はなぜここにあるのだろう。
川は本当にあるのだろうか。
川がないとすれば、この橋はどのような言葉で説明されるのだろう。
橋の発掘は、少しずつ続いていた。
発掘に何の意味があるのかガノーには説明できない。これもやはり人格の外側にあるもの。冬守りとしての自分が腕を動かす、そのようにしか言えない。
ガノーは自分自身が均一なものになるのを感じた。昨日と今日に差はなく、今日と明日は同じようなものだ。
橋の発掘は遅々として進まない。本当に進んでいるのかガノーにも分からない。身の丈ほどのスコップで雪を掘り起こし、荷車に乗せて峠を越える。朝から夕まで、時には夜にも繰り返す。
雪に埋もれた頑丈な木材、触れれば皮膚が張り付く鉄の鎖。その下は砂利と土が見えるのみ。掘り進める間に左右から雪が崩れてきたこともあり、指先が紫に染まって数日動かなかったこともある。
ガノーの日々は続き、暦は足音を立てない。
橋はとてつもなく大きなものだった。民家を掘り起こすのとはわけが違う。運び出した雪で山が作れそうなほど。そして作業の間にも少しずつ雪が積もる。
「ああ、やはり」
長い長い労働の日々の中で、ふと意識が浮上する。自分がどのぐらい喋っていなかったのか、ものを考えていなかったのか分からない。不死の呪いを受けたものが埋葬され、永遠の時間の中で断続的に、己が棺のなかにいると感じるような時間。
「やはりこの橋は、何処かへの橋か」
この橋をすべて掘り起こしたなら、己が橋を渡ったなら、自分は此処ではない何処かへと渡る気がする。
そこにはきっと、何の憂いもない。
ノーフォーの村、そんな名前を思い出したのも数年ぶりのことだが、この村はあまりにも厳しすぎると感じる。
食料があっても、燃料があっても、この雪がすべてを拒む。人の努力ではどうにもならない、圧倒的なまでの質量。
そして、他者を必要とせず、労働を苦とせず、冬守りとしての生涯を受け入れていたはずのガノーでさえ。
やはり、耐えがたい何かがある。
何処かへ行きたいと願っている。
言語化されることのない、限りなく大きな渇望。
この橋を作った何者かは、橋を渡って何処かへ行こうとしたのだ。ガノーにとってその着想は真理に思えた。
この村に冬守りがいなかったことも、蓄えだけが残されていたことも、魔法の本がどの家にもなかったことも、それで説明がつくような気がした。橋を渡って、何処かへ行くのだと。
「俺も、そこへ」
声が。
丸太のような腕が熱を持ち、鉄塊のようなスコップを握る。ある一瞬。すさまじい叫びが口からとどろく。
俺もそこへ、連れて行ってくれ、と。
空気を震わせる。己の耳すら破壊するような大声。喉も裂けよと叫ぶ声。それが何度も、何度も――。
どん、と。
スコップの先端が、雪を突き抜ける感覚があった。
「……?」
周囲は五メートルに達するほどの雪の壁。雪の下の状況など分かりはしない。そして雪の壁の向こうには、天を突くような剣ヶ峰がある。
周りを崩せば、雪の向こうに空間があると分かる。
どうやら岩の屋根があるようだ。そして足元には板材が並べてあり、簡易的な床となっている。
「洞窟……なのか」
果てしない橋の向こうにあったのは、果てしない窟。
板材の床が貼られた、暗黒の隧道であった。




