第五十七話
ノーフォーという村はかつては異なる名前であったが、けして深山幽谷の秘境ではなく、数百人が住まう大きな村と推察された。
此度の冬、百年の長い冬が始まる以前、数年から十数年という冬を何度も経験した村なことは間違いなかった、その証拠は建物である。
四隅の柱は太く頑健で、壁もとても厚く造られている。ガノーは壁を小突きつつ説明する。
「中に金網みたいなもんが入ってるんだ。だから頑丈なんだろうな。柱も太いし、屋根は雪が落ちやすいように高く造られてる」
家の内部は手狭な印象がある。ある程度の大きさの部屋では丸柱が部屋の真ん中にあるのだ。壁には斜めの板材が渡して補強されている。雪どころか岩が振り注いでも耐えそうだ、とはマシュナの言葉である。
「どの家もこうなんだよ。雪の重みに耐えるように作ってあるんだろうねえ」
マシュナは10年間の天気を記録していたが、くるぶしが埋まる程度に降ることは月に一度。膝まで埋まるほど降るのは年に一度というところか。雪の逃げ場がないために、長い年月をかけて積もるのだろうか。
「雪はどうやって捨てておられますか」
「荷車で運ぶしかないのさ。ゴーに曳かせてね。向こうの峠を越えたあたりに雪捨て場があるんだよ」
ゴーに荷車を曳かせれば往復で2時間の道のり。ガノーはそれを朝晩の二度行う。
「なに、慣れた仕事さ。そのうち野良のゴーを捕まえてきて繁殖させようと思ってる。そうすりゃもっと雪が捨てられるし、雪をどかすのにも使える」
「立派な仕事にございます」
シャルロットはノーフォーの村に滞在し、冬守りの仕事を手伝いながら2人の仕事を観察した。
ガノーは早朝から大きなスコップを持ち出し、村全体の雪を荷車に集める。週に一度はすべての家の屋根から雪を降ろす。
そして雪の壁に登り、露天掘りのように雪をすくっては下に降ろす。ゴーの荷車に雪を積み上げると、2時間かけてそれを捨てに行く。それが終われば貯蔵庫まで物資を取りに行き、午後には建物の補修なども行う。
マシュナは温室と家畜の世話をする。温室はもともと村にあったもので、煙突管がストーブから横方向に伸びて温室の外周を回っている。熱を効率よく使うための配管である。
「この炭は良い炭なんだよ。ほとんど煙も出ないし、一昼夜燃え続けるんだ」
銅よりも硬いと言われる黒槍樹の炭である。かなり高温で焼き締められており、貯蔵庫に大量に保管されていた。
「貯蔵庫は他にもあるみたいだからね、燃料の心配はいらなそうだよ」
「素晴らしきことでございます。このあたりには黒槍樹が生えておりませんので心配しておりました」
「あれはなんで生えてないんだろうねえ。割とあちこちにあると聞いたけど」
長き冬を耐える黒槍樹であっても、育たない環境というものはある。栄養が乏しい石灰岩質の土壌であるとか、海に近く潮風が吹く環境、そして、すべての枝葉を飲み込むほど雪が降る環境である。
シャルロットはそういう話をする。マシュナは頷きながら聞いていた。
「雪が深すぎて日があたらないのかねえ。いちおう苗木は温室に植えてんだけど、黒槍樹ってのはほんとに育ちが遅いねえ。十年経ってもあたしの背丈より少し高いぐらいだよ」
「そうですね。環境によるようですが、15メートル育つのに40年かかったという記録もございます」
「まあいいさ、炭は山ほどあるんだ。使い切るまでにはそこそこ育つだろうさ」
シャルロットは冬守りの仕事を手伝いつつ、肉納豆を作る準備をする。教えることができたのは村に来てから10日目のことだ。
「よろしいですか、藁にはさまざまな菌が付着しております。それを利用するのが肉納豆です」
シャルロットが取り出すのは麦の藁である。温室で育てていたものだ。
「東の方では稲の藁を使いますが、麦の藁でも可能です。用意するのは豆と麦藁と、蒸し器に鍋、それだけにございます」
まず豆を蒸す。温室で育てられていたレンズ豆である。
そして麦藁を熱湯で茹でる。ガノーが腕を組んで疑問の顔になる。
「おいおい、発酵ってのは黴菌の働きなんだろう? そんなことしたら死んじまうんじゃないか?」
「納豆の菌はとても熱に強いので心配ありません。茹でることで納豆菌以外の雑菌が減少するのでございます」
藁を編んで藁苞と呼ばれる容器を作る。その中に蒸した豆を詰めて、さらに藁で覆う。
「これを40度の環境に数日置けば完成です。わたくしも慣れない材料なので何度か失敗いたしましたが、このようなものができあがります」
取り出すのは完成した納豆である。藁苞を開けば独特の匂いが立ち登り、白っぽいぬめりに覆われている。
「へえ、確かにあの匂いだけど、これは豆の形が残ってるんだな」
「はい、これからが本番なのですが、この菌は腐敗菌を寄せ付けないため、豆以外の食材も保存できるのでございます」
どさ、とまな板に置くのはマダラグマの肉である。数ヶ月前に村の近くに出たのをガノーが仕留めたものだ。雪を詰めた樽に保管されていたが、今は解凍されている。
「納豆はとても腐敗に強いのですが、それでも肉と混ぜると腐ってしまいます。まず肉はひき肉にして、かりかりになるまで炒めて水分を飛ばさなくてはなりません。その処理が終わったら納豆を詰めた樽の中に入れます。基本的にはこれで終わりでございます」
「そうなのか? 貯蔵庫にあったやつは土みたいだったが」
「年月が経つとそう変化するのでございます。貯蔵庫の温度は氷点下前後。菌がゆっくりと豆と肉を分解し、粘土状になり、やがて水分も抜けて土のような質感になるのでございます」
実際には、納豆それ自体は氷点下の保存であっても半年程度が限界である。だが村の貯蔵庫にあるものはもっと長い、樽の様子から見て10年以上は経っていた。
「今は麦藁から作ってごらんに入れましたが、おそらくこれでは無理でしょう。菌には樽ぐせとか、蔵ぐせと言うものがございます。この村の蔵に住み着いている、長期の保存に耐える菌を使わなければ」
「どうやって作りゃいいんだ?」
「貯蔵庫にある肉納豆を蒸した豆に混ぜればよろしいのです。それでこの村の納豆を増やすことができます」
「なるほど、やってみよう」
実のところ、納豆を長き冬のための保存食にしている例はシャルロットも初めて知った。この村で生まれた新しい技術と言えるだろう。
「……素晴らしいことでございます。ささやかなれどこれもまた魔法のごとき御業。人々が冬を生き抜くための偉大なる技術にございます」
「そうだな、味もいいし、滋養もある気がするよ」
「なんだいガノー、最初は臭くて食えないって言ってたくせに」
「なっ……そ、そんなことバラさなくていいだろ!」
二人のやりとりに、シャルロットも口元をほころばせる。
(……ここは良い村でございますね。優れた技術に支えられてございます)
建物は積雪に耐え、炭はふんだんにあり、唯一無二ともいえる優れた保存食の技術がある。
――では。
(ではなぜ、この村に冬守りがいなかったのでしょう……)
※
シャルロットが野生のゴーを見つけてきたのはひと月後のことだった。野生のゴーは雪の少ない場所に住むため、見つけられたのは幸運としか言いようがない。
「これはメスだな、うちのはオスだからちょうどいい、子供が期待できるぞ」
「はい、おそらく群れからはぐれた個体でございましょう。怪我もなく性格も温順そうです」
マシュナとシャルロットは協力して、ゴーに引かせるための荷車を新たにこしらえる。車輪は大きく、車軸は雪の重さに耐えられるように。シャルロットは雪を運ぶための道をつき固めていく。
「ちょっとした窪みや小石が荷車を傷めるのでございます。峠の坂道はなだらかではありますが、横木を埋めて荷車が登りやすくいたしましょう」
「助かるよ。こういう仕事にはなかなか時間を掛けられなかったからなあ」
ゴーが二匹になり、雪を捨てる効率はめざましく上昇する。
だがそれでも、村の発掘は遅々として進まなかった。
「もし、川があるなら、そこに雪を捨てられるのですが」
シャルロットは例の橋に来ていた。
また少し掘り進められ、雪洞も伸びている。鋼鉄の鎖がいくらか露出し、等間隔で板材に向かって垂直に枝分かれしている。これは吊り橋のようだ。
「周囲の山を歩いてみましたが、川の跡はないのでございます。川の流れがあるとして、おそらくは地下に潜っていく川ではないでしょうか」
「そんな川があるのかい?」
「ごく小さい窪地ならそのような例もありますが、村ができるほど広い盆地では珍しいことです。それに、降雪量に見られるように、在りし日にはかなり雨も振っていたはず。このような窪地に降った雨は、盆地の全体が湖になるか、そうでなければ低い場所から流れ出し、峠を削り三角州となり、川の流れを下方へと届けるはずなのです」
奇妙なことだった。この土地を囲む山は、この村より低い場所が一箇所もない。これでは雨が溜まってしまう。雨が溜まってしまう、という実感はシャルロットにもない。雪惑いとしての知識があるだけだ。
「水がはける場所があるはずなのです。おそらくは地下水脈に通じる穴のようなものが」
「ふうん、そんなのがあるなら雪を捨てるのも楽になるんだけどな」
穴が塞がったのだろうか。雪が降り、自らの重みで氷となって地下水脈への穴を閉ざしてしまった。
だが燃料は豊富にある。溶かすことは不可能ではないだろう。
その穴がどこにあるのか。探す方法は二つある。
「一つはこの村の記録を調べること。もう一つは、この橋でございます」
ガノーのものほど大きくはないが、スコップで雪を掘りつつ言う。
「この橋の下に川があったのなら、その流れをたどれば水のはける場所が分かるはずにございます。まずは、橋の周りの雪をすべてかき出しましょう」
「そうだな、かなりの仕事になりそうだが、やろう」
その夜、ゴーが倒れた。
倒れたのはもともと村にいた方のゴーである。原因はよく分からなかった。丈夫であまり病気をしないゴーではあるが、生き物なことには違いない。釘でも飲み込んで消化管に刺さったか、内臓の病だったのか。血の泡を吹いたものの暴れもせず、静かに弱りながら息を引き取った。
シャルロットの連れてきたほうのゴーも飼い葉の食いが悪くなった。何らかの伝染病なのか、それとも伴侶となるはずだったゴーの死を悲しんでいるのか。マシュナが付きっきりで世話を続けている。
折り悪しく雪が降りだした。
湿った大粒の雪はひとつひとつが小鳥のように大きく思える。窓の外で土は見えなくなり、窓にも雪が張り付く。綿毛の振り注ぐごとく柔らかに、それでいて木材をきしませる重さもある。まだ掘り起こしていない家は、この莫大な雪の下で悲鳴を上げるだろうか。
大雪は数日続き、そして黒雲がわずかに灰色に傾いたころ、あの大橋はすっかり雪に埋もれていた。
「これほどの雪が……」
「こんなに降ったのは初めてだよ。やれやれだな」
ガノーも巨大なスコップをかついでため息をつく。周囲の雪の壁は少し高くなっており、一部が崩れて雪洞が埋まっていた。
「橋はどうされますか」
「しばらくは村に積もった雪を何とかしないとな、橋は後回しにするしかない」
「……そうでございますね」
シャルロットは雪の壁を見上げる。土砂のように重そうで水気を含んだ雪。村のすべてを埋め尽くすかに思える。
(この雪はどこへ行くのでございましょう)
(もし冬守りがいなければ、この盆地があふれるまで積もり続ける? そんなことがあるのでしょうか)
「シャルロット、あんたはもう村を出たほうがいい」
「……何か、私がご迷惑でございましたか」
「いいや、そういう話じゃない」
ガノーは頬をかきながら言う。
「俺とマシュナには子供がいなかったからなあ。俺ももう40を超えてるし、一生を冬守りとして過ごすことに不満はないんだ。だからシャルロットさん、あんたみたいな若いのが村にいると良くないんだよ」
「……」
シャルロットは目を伏せる。このようなことを言われたのは初めてではない。むしろガノーは善良で、模範的なことを言ったのだろう。
雪惑いは自分の容姿をあまり気にせず、年齢を意識することもない。雪惑いの自己認識は曖昧である。金盞花の館を出たばかりの子供のようでもあるし、何十年も旅に生きた老人のようでもある。
だがそれでも、己が女であることまで見失うわけではない。
――血の。
「……」
――血の交わりに、あこがれもある。
それはシャルロットの記憶だろうか。
あの赤い鎧の越冬官、ニールとわずかに肌を重ねた記憶。あれは自分の記憶なのだろうか。それとも雪惑いの日記を通して知る記憶なのだろうか。
「この村にいた連中は、橋を渡ってどっかに行ったんだろうな」
はっと、その言葉に意識が浮上する。ガノーは雪から露出した支柱を見ている。
「そんなふうに思えるんだよ。この橋はここではない何処かへ通じてる橋なんだ。そこじゃあこんな大雪は降らない。ゴーもたくさんいて、たっぷり育った黒槍樹の森もある。豊かな土地だよ。そこに渡っちまったんだ」
豊か、という言葉に悲しみがある。
冬守りの想像できる最も豊かな情景とはその程度なのだ。彼らは生涯を通して春を知らず、夏を知らず、秋も知らない。厳しい冬を生き続ける。
それは幸福なことかも知れない。知識として、記憶として春を知っているシャルロットのほうが、よほど悲劇的かも知れないのだ。
「なあ、あんたもそう思わないか。この橋はどこか遠くへ連れ去ってくれる橋だよ。雪惑いなら、そういう不思議なものに詳しいんだろ?」
この橋が何らかの神秘である。
その可能性はわずかにあった。だからこの村に逗留していた。
だが、違う。
雪惑いは長き冬を渉猟し、長き物語に耽溺するもの。
この橋は確かに奇妙で、不可思議で、説明不能な部分はあるけれど、神秘でも魔法でもない、雪惑いとしての感覚がそう告げている。
そして理解する。もはやこの村にとどまる理由はないと。
「ガノーさま、どうかお達者で」
「ああ」
きびすを返してその場を去る。きっと、もう二度とこの地には来ないと思われた。少なくともガノーとマシュナの寿命が尽き、そしてシャルロットの寿命が尽きるまでは。
また雪が降りはじめる。
すべてを白く塗り込めようと。




