第五十六話
「ああ、村としての体裁がつくまで10年かかったのさ」
婦人はそう言う。名はマシュナといった。
40がらみの壮年の女性であるが、冬守りによく見られるように骨格ががっしりとしていて筋肉に張りが見られる。皮膚は細かなシワが寄っていて、よく目を凝らせばひび割れてるようにも見える。雪の照り返しと乾燥が肌に表れる。
背は高めで肌は浅黒い。刺繍のある三角巾で髪を押さえ、赤を基調とした前掛けにもやはり細かい刺繍があった。冬にあってその姿は力強く、たくましさが服の色にも表れるかのようだ。
「うちら夫婦のいた村は人が増えてきてね、旦那と一緒に村を出たのさ。どこかに棄てられた村でもないかと思ったけど、すぐには見つかりやしない。元いた村から東に三日歩いて引き返す。次は北に三日歩いて引き返す。そんなことを何度も何度も、一年ばかり続けてやっとこの村を見つけたのさ」
窪地である。
王冠の中にいるような感覚。周囲はいくつかの山に囲まれている。広大な土地ではあるが、遠景のすべては白に染まっている。薄曇りの灰色と山並みの銀白が極限の領域で混ざり合う。山のシルエットがどこか丸みを帯びているのは、雪が厚いためだろうか。
「古地図だと村があったんだけどね、最初に来たときは一面の銀世界ってやつだよ。屋根の形に雪が盛り上がってたんで、掘ってみたら家が出てきたのさ。村が丸ごと埋まってたんだよ」
村の周辺には木もない。岩の一つも見えない。白い地獄というものがあるならこのような場所だろうか。そんな中で雪が掘り下げられた一角があり、10棟ほどの建物が露出していた。
「とても興味深き話にございます」
マシュナの話を記録するのは緑のフード付きコート。脇にいつくかの金属缶を吊るし、旅装をコートの中に格納した人物。首には色ガラスのはまったゴーグルを下げている。このあたりは雪の照り返しが激しいため、ゴーグル焼けの跡が顔に残っている。
「今じゃあ冬守りの守る村さ。ノーフォーの村と名付けたんだよ。忘れてやらねえって意味さ」
「素晴らしきことです。長い年月の中で冬守りを失う村は多いのですが、このように廃村を復興させることは王都も歓迎することでございましょう」
雪惑いシャルロットは、村の周りをぐるりと見る。
高さ3メートルにも達する雪の壁。この村を封印していた積雪である。どれほどの時間をかければこれだけの雪を運び出し、建物を掘り起こすことができるのか。仕事というものの神秘性に口元がほころぶ。
「夫婦で移住とのことでございますが、ご主人もおられるのですか」
「ああ、ガノーってのがいるよ。そろそろ仕事から戻ってくる頃さ、ほら」
その声が示すように、白い風景のなかに一つの点を見つける。大ぶりなスコップを背負った人物である。
近づくにつれてそのシルエットは大きくなり、スコップも規格外に大きなものだと分かった。先端は鉄塊を高温で焼いて叩き伸ばしたものであり、全長はシャルロットの背丈ほどもある。
「マシュナ、客人か」
ガノーという人物は太い手足と骨太の体つき、嗄れた声であり体毛は濃く、長き冬だというのに白い襯衣と膝丈の腰履きだけを着ていた。その丸太のような手足は赤らんで熱を持ち、息づかいは荒く、白い息がもうもうと天に昇っていく。
「お初にお目にかかります、雪惑いシャルロットと申します」
「雪惑いか、へえ、ほんとにいたんだな。あれだろう? 旅をして不思議な話を売り買いするってやつ」
「そのように噂される方もございますが、今はただ旅に身をやつす日々でございます」
「よくわかんねえな、まあゆっくりしてってくれ」
「はい、ありがとうございます」
シャルロットは、ガノーという人物の口調がだいぶ若いと感じた。大きな目はまるまると開かれて好奇心に輝き、髭面でなければ愛らしいと言える笑顔を見せている。
冬守りにはそのような人物がままある。端的に言うなら心がとても若い。とても悪く言うなら社会性が育っていない。冬守りたちの社会はごく数人で完結するため、壮年とか老境という概念が希薄である。
「ガノー、飯にするだろ、鶏鍋にするけど肉ダレがいいかい、塩がいいかい」
「ああ、それなら肉ダレだな、あとでまた一つ掘り出してくるよ」
ガノーという人物は40か50か、マシュナも似たようなものだと思われたが、マシュナのほうが少し大人びて見える。2人の関係は夫婦のようでもあり、親子のようにも見える。
マシュナはシャルロットの背中をばんと叩く。
「シャルロットさん、よその村の話とか聞かせておくれよ」
「はい、よければしばらく村に置いていただきたく思います。冬守りの仕事も手伝わせていただきたいです」
「そうかい? じゃあガノー、シャルロットさん連れてってやんな。一樽掘りに行くんだろ」
「ああ、じゃあ行くか、すぐそこだよ」
マシュナとガノー、二人は豪快な人物に思えた。この雪に埋もれた村にあって、果敢に抵抗を続けるかのようだった。それは雪に落ちた二つの焼け炭に似ていた。
「ほら、これがいま掘ってる煉瓦蔵だ」
雪の上を歩くことしばし。
たどり着いたのは貯蔵庫だという。高温で焼き固めた煉瓦で建物を作り、外側が漆喰で固められている。漆喰が剥がれた部分からは赤黒い煉瓦がのぞいていた。
「地面まで三メートルぐらいあるけど、天井に換気口があるからな、今はそこからものを取り出してる」
雪がすり鉢状にのけられ、ぽっかりと空いた換気口からは梯子が下ろされている。掘り出した当初は板で塞がれていたという。
「ガノーさま、お気をつけください、このような地下空間には酸素が乏しいことがございます。腰より下に角灯を提げて降りると安全でしょう」
「へえ、そうなのか、そいつは気にしたことなかったよ、次からそうしよう」
ガノーは梯子を降り、子豚が入れる程度の樽を二つ、荒縄でくくってから戻ってくる。たくましい背筋と腕の力でそれを引き上げる。
「ガノーさま、樽の一つ二つでそのような労働は大変でしょう? 蔵の入り口まで掘ったほうがよろしいのでは」
「いや、入り口は分厚い扉が錠前で閉じられてる。全体もやたら頑丈でな。鍵も見つかってないからこうするしかないんだ」
「なるほど、出入りできる窓があって幸運でございましたね」
「そのうち周りの雪を全部どかして、扉も壊したいんだけどな、今はとりあえず天井から失敬してる」
樽の蓋を釘抜きでこじ開けると、中に詰まっていたのは茶色い土のようなものだ。繊維質のものが混ぜられており、ガノーが手で握るとダマになってこぼれる。
独特な臭気がする。鼻を突くような腐敗臭だが、肉の風味もある。
「この村に独特の食いもんだったらしい。肉をそぼろにしてわらと一緒に樽に入れてるみたいだ。俺たちも作ろうとしてるが、なかなか上手く行かなくてな」
「これは存じております。クードルとかアクアドルと呼ばれる肉納豆でございます」
「へえ、そんな名前なのか。作り方は分かるかい?」
「はい、よろしければお教えいたします」
「助かるよ、マダラグマの肉が蓄えてあるんだが、保存食にするのも大変でな」
ガノーは樽を麻袋で包んで、そういえばと手を叩く。
「見てほしいものがあるんだ、何が何だかよく分からないものが見つかってな」
「はい、雪惑いがお役に立てるのでしたら」
※
「これなんだ」
3メートルほどもある白い壁。雪が世界を鎖すような威圧感。閉塞感。
その中に、木の構造物。
樹齢50年は超えていそうな丸太。まっすぐにそびえて雪の壁の上にまで届いている。その頭頂部からは鉄の鎖が伸びる。
シャルロットの手が入りそうなほどの鎖の輪、それが連なって雪の壁に吸い込まれているのだ。地面には分厚い板材が敷き詰められ、これもまた鎖で連結されていた。
「これは……橋、でございますね」
しかもかなり立派な橋に見えた。鎖は上等な鉄がふんだんに使われており、支柱となる丸太は雪の下、凍りついた地面のかなり奥に埋められているようだ。
「このあたりには川があったのでございますね」
「いや、それがなあ、地面がへこんでねえんだ」
板材が並ぶ方向に雪洞が掘られている。見た目としては雪のトンネルに板張りの床という眺めである。ガノーが20メートルほど掘ってみたものだという。
「見てくれ、どの板のすき間も土が詰まってる」
確かに。板の隙間からは土が見えており、どの板も土に乗っている塩梅になる。
「この橋の全長はまだ分からねえけど、20メートルも土の上ってのは変だろ? そろそろ宙ぶらりんになってなきゃおかしい。宙に浮いてるか、せめて板の下に雪がないと」
「それは……そうでございますね」
橋とはいえ足場全体が宙に浮いているとは限らない。だが全長が数キロにもなるような巨大な橋でもない限り、土の上にある部分はさほど長くならないはずだ。そして雪惑いたちの知識でも、そこまで巨大な橋は知られていない。
「なあ、橋って水の上以外にもかかることあるのかな? そういう話を知らないかい?」
「……そうですね。いくつか思い浮かぶことはございます」
シャルロットは背負っていた日記を抜き出す。非常に大きな判型であり、装丁は黒革張り、金と銀の糸で飾られ、独特の速記文字が雨のように振り注ぐ紙面。
「まず、不要となった橋、という可能性にございます。川の流れが変わった、または暗渠になった」
「暗渠って何だい?」
「地下に隧道を作り、そこに川を流すことにございます。こうすると川の流れていた土地に建物を建てたり、畑を作るなどして利用することができます」
「そんなもんが作られたのか?」
「いいえ、可能性として述べたまででございます。これほど立派な橋があるなら、川幅は広大であったはず、そうそう流れが変わるとも思えませんし、暗渠という可能性もないでしょう。暗渠とは公共事業であり、とても大きな都市でたまに見られるものでございます」
では何があるだろうか。シャルロットは日記をめくる。
その速記文字は深淵であり膨大。シャルロットが一度も訪れていない遠い土地のことや、さまざまな賢者たちから聞いた昔話、都市に生まれた新しい技術、そんなことが連想のように浮かぶ。
だが、見つからない。
「残念ながら……雪惑いの知識にはこのような橋を説明する言葉がありません。申し訳ないことにございます」
「そうなのか……まあ別に困ってるわけでもないけどよ」
ガノーはシャルロットを促して雪洞を出る。
「とにかく肉納豆だっけ。それの作り方を教えてくれよ」
「はい、他にもいろいろとお伝えできると良いのですが」
シャルロットは村へと帰る前に、一度だけ背後を振り返る。
大半は雪に埋もれているが、確かに橋があった。歳月を経ても傾いていない支柱。鉄の鎖。杉板の足場。
橋はその一部だけでも全体の巨大さを感じさせた。かつては川が流れていたのだろうか。豊かな水量と流れの速さ。玉砂利が陽光を受けてきらめき、魚や沢蟹が生きていたのだろうか。川の周りには森が生い茂り、釣りに興じる人間や、洗濯をする者もいただろうか。それは橋から始まる絵画であった。連想がもたらす想念の遊び、そこに魂が遊離しかける。
(……おかしな想像です)
緑の山と川の流れ。自然の美とそこに息づく人々。どっかりと風景の中央に収まる橋。
シャルロットはその時代を知らない。
季節が巡り、木々が生い茂っていた時代など見たこともない。
だが、雪惑いの日記が覚えている。
見たこともない夏の景色を夢想させる。
雪惑いは個であり全であるもの。不死であり不滅であるもの。あらゆるものを見て、あらゆるものを記録する世界の収集者。であると。金盞花の館で教わった。
橋はまだ、そこにある。
幻ではない。それは恐ろしいことに思えた。




