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次の冬ごもりは百年  作者: MUMU
第十章 命なる紅
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第五十五話



歳月は雪の積もるごとく。


円楼の暮らしは忙しくもあれば単調でもある。吹雪の日も、地震も、落雷で屋根の一部が焼けた事もあったが、それは日々の仕事のなかで忘れられていく。


シェットとハルニアは歳を重ね、肉体にも変化が起きていた。


変わり続けるものは、もう一つ。


「苗木をね、何度も何度も植え替えるんだ」


円楼の中庭。ガラス天井の温室には膝丈ほどの苗木が植えられている。多少、生臭い匂いがするのは肥料を変えたためだ。鶏の血を混ぜたり、発酵させた豆を使ったり、何十種類も試している。


「苗木は植えた直後が一番活発に根を伸ばすんだ。肥料をすき込んだ土は軟らかくしておいて、根を張りやすくする。すると寒さの中でも根を伸ばす」

「そう……なの? でもこの温室は7、8度はあるよ。外よりずっと暖かい」

「うん、西側の温室はもっと温度を下げよう。だんだん厳しい環境で育てるんだ」


シェットはノートに何かを書き込み続けている。その様子は雪惑いの女を思い出したが、口に出しては何も言わない。


覗き込む。とても小さい字で、数式や図表も見える。昔に比べると字が乱れている気がする。シェットしか読まないノートであるから、字の癖が矯正されないのだろう。


いつかは実現するのだろうか。5年、10年のうちに。


(できるはず、ない)


その確信もまるで揺らがない。シェットがどれほど努力しても、奇跡のような偶然が起きたとしても。


冬の厳しさを知る、冬守りの当たり前の認識。





円楼は少しずつ作り替えられる。


数年で一棟分を新しく作るが、そのためにはたくさんの資材が必要となる。


ある程度は冬守りたちのために用意されていたが、長い日々の中で不足したり、質の落ちるものもあった。ハルニアは周囲に足を伸ばす。


主に集めるのは顔料である。小さなハンマーで石を割って顔料を探す。枯死している木の表面をそぎ落としたり、雪の下にある苔を集めたり。


温水の湧き出ている場所からは硫黄なども採取する。温水と言っても生ぬるく、入浴には適さない鉱泉である。雪の多いこの土地で遠出をするのはたいへん危険な行為であり、ハルニアは天候をよく見極め、入念な準備をしてから採集に出かけた。


円楼の壁を剥がし、屋根を剥がし、新しいものに変えていく。


ときどきは絨毯を別の部屋のものと入れ替える。絨毯は踏まれることで色が安定してくるため、無人の部屋のものを自分の部屋のそれと取り替えるのだ。回廊にも絨毯を敷き、動線に沿って自然に踏まれるように配置する。


シェットの研究はずっと続いていた。


たてさぶりの樹皮をくろがねかなごのハンマーで絞嚥こうえんして、維管束いかんそく揚水ようすいを促す。巻きわらはヒンジ金具の結紮けっさつを、カギ目に細かく編んで胴部をしっかりと守って……」


シェットは研究に没頭すると数日も温室を出ないことがあった。ハルニアはなるべく食堂で食事を取るように言ったが、温室を離れたがらない事もあるため、あちこちに簡易的な保存食を用意した。硬めに焼いたビスケットと干し野菜。そして水。


シェットは温室の中で絶えず歩き続けていた。空気の取り入れ具合で気温を調節しているため、水銀温度計を何度も確認し、こまめに換気窓を操作した。


かすみ施肥せひ静安じょうあんに三段目、セパの眼球が摘果てきかさまたげない。土は腐って豪滓ごうさだらけに、それでいいのかな、そうかこれが温願おんがんだい。マイナス1度でのきん作楽ならくに……」


だんだんと、シェットだけの言葉が生まれているようだった。ハルニアに懇切丁寧に説明してくれた事もあったが、聞けば聞くほど、林檎の栽培とは無関係な事象に思えてならない。鶏を血が出ないように屠殺する方法であるとか、ヘビに水銀を注射した時の経過だとかを語っているとしか聞こえない。

だがシェットの中では確信が深まっていくようだった。温室にいる時間はどんどん長くなり、林檎以外への関心が薄らいでいった。


「とても難しかった。難しすぎて僕の考えでは及ばなかった。起きていることについていけない。でもそれでいいんだ。林檎がなぜ実るのか、なぜ種が育って花をつけるのか、そんなことを理解するのは無理なんだ。だから、林檎というものに没入しなくてはいけないんだ」


林檎は、育っている。


温室の温度を0度まで下げる。ほとんど吹きさらしの外気と変わらない。だが林檎の木は枯れていない。


それはなんと奇妙な木だったろう。樹皮は漆を塗ったように黒ずみ、表面に粘土のような樹液のようなものが付着している。細かい枝の先は常に震えており、それでいて葉擦はずれの音がしない。


「何だか……息苦しいみたいな」

「この樹は酸素を多く吸うんだ」 


シェットの肌はかさかさに乾燥して、目の周りに濃いクマがある。長めの髪は毛質が荒れていて、盆の窪あたりで縛っている。ノートに思い切り目を近づけているのは、目が悪くなってきたからだ。


黒槍樹ジンガルは寒さに耐えるために代謝が穏やかだ。成長に長い時間をかけてる。材木や木炭として利用するならそれでもいいけど、林檎はそういうわけにもいかないからね。この木は酸素をたくさん吸って、内部で熱を生み出してるんだ。植物というより動物に近いのかもしれない」


ハルニアは胡乱げな目で林檎を見る。


「こ、怖いよそんなの」

「おかしな事じゃないよ。僕は見たことないけど、世の中には虫を捕らえて食べる植物もあるらしいし、ほら、触ってみて」


腕を引かれる。林檎とはこんなに曲がりくねった幹であったろうか。表面は粘液でぬらぬらと光り、花は花弁が長く、布のように垂れ下がっている。泡のように小さなコブがあちこちにある。


触れてみる。粘液が手に付着して不快だったが、その奥に熱を感じてはっとなる。


「なんだか……暖かい」

「この温室は寒いからそう感じるんだと思う。実際には発熱はほんのわずかだよ」


地面はといえば泥のようにぬかるんでいる。通常よりもずっと深く植えてあり、土の表面は富栄養の泥で覆っているという。


「ひ」


手を離す。生まれかけた悲鳴を噛み殺す。


「い、いま、脈を打ったような」

「揚水が断続的なんだ。どういう理屈なのか分からないけど、そのほうが効率がいいんだと思う。常に動くことで組織の硬化を防いでるのかも」


シェットはずっとノートを見ている。がりがりと鉛筆を走らせて、時おり髪をかきむしる。


「シェット……こんなの育てるのやめようよ」

「どうして?」

「だって……ぶ、不気味だし。肥料だってたくさん使うし」

「グロテスクだけど有用な植物はたくさんあるよ。施肥せひについてもだいぶ少なくなってる。今は普通の林檎の2倍ぐらいだよ。温室が必要ないことを考えれば問題ない量だ」


問題はない。


それはそうなのだろう。姿や形が不気味であることは反対の理由にはならない。


この林檎は、円楼の外でも生きていける。葉をつけて花をつけて、実をつける。それがどれほど素晴らしいことか、ハルニアも理解せざるを得ない。


(でも、完成したら)


完成したら、きっと何もかもが変わるだろう。


シェットは林檎を広める旅に出て、ハルニアは村に残される。それは必然であり不可避のこと。個人の意思で逆らえることではない。


世界を変えるほどの林檎の木。


なぜ、そんなものが生まれるのか。

ユウエンの村でつつましく生きていたのに、円楼を大事に守っていたのに。


円楼の灯は落ちている。


葛藤は数日だったようにも思うし、数年だったようにも思う。


凍えるほどに温度を落とされた温室、赤黒い木が枝を広げている。冬の寒さに身悶えるのか、それとも生まれてくる歓喜に両腕を伸ばすのか。


ハルニアは斧を握っている。指が赤くなるほど強く握りしめる。


心臓が鼓動を速めている。白い息は闇の中で立ちのぼる。


――無駄なこと。


そんな言葉が去来する。聞こえたわけではない。心に浮かぶ言葉が意識される。自分の声でもあるし、全方位から叩きつけられるような声でもある。


――私は新しいもの。


――法則として世界に生まれた新しいものなの。


「だからって、私からシェットを奪うのは許さない」


自問自答のような声。その声はどこにも反響せず消える。闇の落ちた温室の中で、すさまじく広大な場所にいるような感覚にとらわれる。


――人間の意志なんか問題じゃない。


――私は冬に実る林檎、その価値を誰も無視できない。あなたでも。


「この!」


斧を振り上げ、渾身の力を込めて打ち付けようとする。ぬらぬらとした粘液に覆われた、赤黒い腰に。


時間が、停滞するような感覚。


雪明りの中で樹皮のひだがはっきりと見える。通常の樹木とは違う入り組んだ襞。血管の走行にも似た生物的な。


斧が、空振る。

勢いのままにつんのめり、冷たい地面に転がる。粘性の施肥をされた土で、体が泥とも血ともつかないものにまみれる。


斧が地面に触れた衝撃で手がしびれている。指がもぎ取られるような痛み。その痛みに寒さが浸潤してくる。


「う、うう」


打てない。

心では打とうとしているのに、斧を当てることができない。無意識に避けてしまう。


それは赤子を打つようなためらい。世に二つとない魔術的な林檎への畏怖。矮小なる人間が、あの林檎を傷つけることなど許されない、そんな恐れを覚えている。


「ま、まだ」


ハルニアは冷たい土に手をつき、必死に立ち上がりながら言う。不可視のプレッシャーに押しつぶされそうだ。


「まだ完成してない。シェットが世話をしなければ枯れてしまう」


――そうよ。でもそれがどうしたの。


――シェットはけして私を育てるのをやめない。必ず卵をかえしてくれる。


――あなたに止めることはできない。


――それとも、シェットを殺すとでも言うの? 


――それはあまりにも、わけがわからない。


「どうして、どうしてあなたなんかが生まれるの」


歯噛みして言う。涙が流れていたかもしれない。


「円楼は、円楼は完成された場所なのに。ずっと幸せに生きていけるのに。円楼は、すべて与えてくれるのに」


この村にあるものは、すべて自分のためにあったのに。


冬を生きるための蓄えも、円楼の美しさも、シェットも。黒槍樹も。鉱石や鉱泉も、雪すらも。


資源のみならず、知性も。


円楼とは1個の生物であり、ハルニア自身でもある。円楼という生物を見て、ハルニアは生き方を学んだのに。


「あなたは、私に何も与えてくれない、奪う、だけ……」


林檎を見つめる。

赤黒くて粘液に覆われている。布切れのような花と黒ずんだ実。


「……」


不気味ではある。


しかし、まだ林檎・・・・だ。


「あなたは……」


天啓。


脳にひらめくものがある。あるいは地の底から突き上げるような思いつき。


「私はシェットを手放さない」


よろめきながら温室を出る。落とした斧を拾うことも忘れていた。


ハルニアは大股で作業場に行く。そこにあったのは色とりどりの顔料と岩絵の具、それを溶かす溶き油、カンバスと絵筆。また衣服を補修するための針も。


ハルニアは針を手に取る。ランプに灯をともして。


そして、無限のような時間が。


時間というものが粘性を帯びる。


ただならぬ事が進行しているという不可視の気配。円楼の暖気がぬめりを帯びる。


「? あれ、ハルニア……?」


客観的には、10日ほど経過していた。


シェットは研究に没頭していたため、ハルニアの姿が見えないことに気づかなかった。そのあたりにある保存食を食べて、水を飲むだけの1日を繰り返していた。温室に落ちていた斧のことは、特にどうとも考えなかった。


「ハルニア、どこだい」


何かが。


言いようのない気配がある。臭気か、風のよどみか、あるいは物音か。


暖炉の火が尽きていた。シェットは黒槍樹ジンガルの薪を追加して火をつけ直していく。円楼に暖気が循環していく。その風の流れに乗って、溶き油の匂いが。


「ハルニア……どこだい。火は見ておいてくれ。温室の温度が下がると作物に良くないから」


気温が上がる。


円楼の奥へ進むと暖かくなっている。暖気の壁は柔らかな固体のようで、顔がそれにぶつかった感触がある。進むほどに温度が上がる。


同時に色彩のような匂いがある。果物の匂い、スパイスの匂い、酒の匂い、そしてお香の匂い。


火はいつもより強く焚かれている。うっすらと汗をかくのを感じる。


ある一室。


そこに気配がある。押し開ければ、中は暗い。


「ハルニア」


シェットは闇に目を凝らす。二歩、三歩と進む。中にいる誰かを見つめる。


裸体、のように見える。


膨らんだ胸、くびれた腰、手足には肉がついている。暖かな闇の中で片足で立ち、上げている足は膝を胸につけるような姿。両手は斜め上に広げられ、天を示すかに思える。


その体に、樹皮が。


赤い円も。林檎のような。あちこちに。


(……タトゥーが)


「シェット」


声が響く。シェットにはその声がどこから発せられたのか分からなかった。


林檎の木から目が離せない。


その赤い実りが。優美なる曲線が。


魔力的なほどの美しさ。ごくりと唾を飲む。匂いと視覚、そして温度。無意識に腕を伸ばす。その熱を掴む。灼熱が体を満たす。涙とも血ともつかないものが噴き出す。


「命は」


その樹皮を流れる、赤いぬめり、生命のしずく、が――。


「ここに、あるから」











旅人は、永遠の疲れの中を歩いている。


雪を押さえつけるように一歩を刻み、一歩ごとに疲れを意識する。そうやって果てしない距離を歩いてきた。


数え切れない丘を越えて、凍った川を越えて、雪崩を回避して、冬枯れの森を抜けて。


やがて、雪原にて円楼を見つける。


複数の円が連なった建造物、円楼は変わらずそこにある。


色付きの木材がモザイク状に組まれた外周。丁寧に雪の落とされた屋根。外へ通じるドアには彫刻もある。


旅人はその円楼の手前で足を止める。


それは大きな生き物に出くわしたような感覚だった。円楼は変わらず生き続けている。代謝を繰り返し、暖気と寒気を呼吸し、内部に生き物を住まわせている。腹のなかに人が住むという、おとぎ話の怪物のように。


「……この円楼は、ユウエンの村に間違いございませんね。どなたかが、いるのでしょうか」


旅人は緑のフードつきコートを着て、口元には濃緑の布を巻いていた。それは人目をはばかる姿のように見えた。このあたりを歩くことすら恥ずかしく、肩身の狭い思いであるかのようだ。


ざく、と雪を踏む音がした。

その方向を見れば、背負子しょいこに薪を積んだ男がいる。


「ああ、あなたは」


快活に笑いかける男は雪焼けの浅黒い肌をしていて、中肉中背だが腕が細く筋張っている。余分な肉がざっくりと落ちており、視線はふらふらとさまよっている。背負子がとても重そうに見えるが、男の顔に苦悩はない。このぐらいの仕事は当たり前の日常なのだろう。


「雪惑いの方ですね、お久しぶりです。10年ぶりにもなりますか」

「あなたは……シェットさま」


その名がすぐに出てこなかった。忘れていたわけではない。まるで印象が違っていたためだ。だいぶ痩せたこともあるし、その目に不安定な、長いこと眠っていない人間のような暗い熱がある。そして以前あったような、知性の輝きが、どこかに。


「シェットさま、なぜまだユウエンの村に……」

「え? だってここは、僕の村ですから」

「林檎は完成したのですか」


林檎、という言葉にシェットは笑ってみせる。気力の伴わない笑い。若気の至りを笑い飛ばすような、にやついた笑いだ。


「林檎ですか、あれはまあ、もういいんですよ」

「……なぜ」

「不自然でしょう。冬に実る林檎なんて、気持ち悪いですよ。少数の冬守りが生きていくぐらいの蓄えはある。温室もある。それでいいじゃないですか」


ぞっとする。


その感覚は耐えがたかった。大してものを食べているわけでもないのに、吐き気が胃の底からせり上がってくる。


「失われてしまった」

「どうしました?」

「いいえ、急ぐ旅でございます。これで失礼いたします」


きびすを返し、そこから離れようとする。シェットが見送りもせずに視線を外したのが分かった。シャルロットも振り返りはしない。


「生まれかけていた魔法が、失われてしまった」


それは悲しいことだろうか。雪惑いシャルロットは自問する。


冬守りの主観で見れば、恐るべき変革をしりぞけたのかもしれない。安寧と不変の日々を手に入れたのかもしれない。


「冬守りとは、おそるべき人々です。人知の及ばざるものこそが魔法。人に生み出せるはずもなく、また生まれることを拒むこともできないはず。しかし、長き冬の時代にのみ、わずかな例外がある……」


山を越えるころ、一度だけユウエンの村を振り返る。


雪原に落ちた宝石のような、円楼のたたずまい。


そこには確かに永遠があった。


変わらず、滅びず、そして何も生み出さない。



その美しさと恐ろしさに、シャルロットは一度、身震いをした。



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