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次の冬ごもりは百年  作者: MUMU
第九章 仄白き虚ろ
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第五十話




東西を山に閉ざされたリハットの村は、温暖であるとか平穏であるという前に、まず奇妙なほどに静かな村であった。


上空を吹きすさぶ風がなく、黒槍樹ジンガルの葉がすり合う音もない。


シャルロットの記憶では、空も森も、建物も地面も、太陽や星すらも、もっとひそひそと言葉を交わしていた気がする。


この村には、無意識の領域で捕らえるような音がない。ここは静寂を貯めた器であり、自分は水槽に沈んだ小石なのか、そんな比喩が浮かぶ。


その静けさのため、シャルロットが柵を作る音はひときわ大きく響いた。

柵は実にしっかりしたもので、地面の奥深くまで埋めた棒杭に、三枚の横板を渡す方式である。黒槍樹ジンガルを使えば理想的な強度が得られるが、燃料として貴重なためにそれはできない。村には木材のたくわえはあまりなく、シャルロットは伐採から加工までをすべて一人で行った。


長き冬の時代において、力仕事をする者は怪我に特に注意せねばならない。医者もいなければ薬も満足なものはない。斧が自分の体に当たりでもしたなら、冬を生き延びられる確率は限りなく小さくなる。


シャルロットは慎重に手順を考え、斧やノコギリなどの刃物は必ず覆いをかけて保管し、さらにはなるべく力を入れないように作業した。力を入れることは事故につながると考えたためだ。


何百本もの棒杭を用意すると、それを穴の周囲に打ち込み始める。木槌を打つ回数は50回ほど。力を入れず、持ち上げた木槌が自然に落ちる力を使って打ち込んでいく。


棒杭には側面に溝が掘られている。二本の棒杭を打ち込み、溝の間に板材を渡すことで柵が形成されるのだが、シャルロットはさらに荒縄を使って強く縛り上げた。そうしてできた柵はとても頑丈なもので、人が思い切りぶつかっても壊れないと思われた。


最初は1日で2メートル。次第に速度が増してきて、それでもせいぜい4メートルほど。その作業を毎日、冬守りの仕事を手伝いながら行う。


「とても良い柵ですね。丁寧な仕事です」


オークーは感心したようにそう言い、シャルロットは笑みを返す。称賛の言葉は素直に喜ばしかった。


同時に、シャルロットは村の記録を調べ始める。


深夜、自分にあてがわれていた家をそっと抜け出し、村の役場だった建物や、いくつかの大きな家に忍び込んで書類を漁る。長き冬の時代には、どの建物にも鍵はかけないものだ。


しばらく調べて分かったことは、長き冬が始まってからの記録がほとんどないこと。冬守りの中に記録をつける者がいなかったのか、誰かが処分してしまったのか、それは分からない。


冬守りが正確には何人いたのか、どのような人物で村をどのように守っていたのか。冬の間に子供が生まれることはあったのか。墓に入るものはいたのか。


何もない。この村には記録が存在しない。


すべてはオークーの頭の中だけにある。だが、その冬守りたちの話は創作か、あるいはかなりの嘘が入っていると分かっている。しかし嘘を証明するものがない。


「さて、これからどういたしますか」


荒縄で柵を補強しながらつぶやく。


「オークーさま以外の冬守りが実在したとして、その方はどこへ行ったのでしょう。村を去ってしまったのか。それともオークーさまの言う通り、ナパイアに魅せられて穴に飛び込んでしまわれたのでしょうか」


穴の底はずっと観察しているが、白いもやの奥に何か見えるような気もするし、何もないような気もする。いくらかの木と岩があるのは確かだが、人間の姿、ありていに言うならば死体などは見つからない。


「ロープを使えば降りられますが、さて、それは賢明なる行いでしょうか」


――穴に落ちたものは消える


その言葉、雪惑いに慎重さを与えるには十分だった。


果たして穴に落ちると何が起きるのか。


霧に包まれて仙境に迷い込んだ話のように、どこか遠くへ飛ばされるのか。


それとも、あらゆる意味で完全に消えてしまうのか。


穴の底に何らかの凶暴な生き物がいて、落ちたものを骨も残らずたいらげてしまうのか。


どれも荒唐無稽としか言えない。雪惑いシャルロットは苦笑を噛み殺す。


「穴に落ちたものは消える。それはオークーさまの語られる真実ですが、事実・・であるとは限らないのでしょうか。おお、それは、とてもこんがらがった話でございますね」


何度か棒切れを投げ込んだこともある。棒は穴の底で岩に当たってカーンと鳴り、そしてもやに隠れて見えなくなる。


投げ込んだ棒切れはその場に残るようでもあるし、どこかに消えたような気もする。もっと大きなものを投げ込めば明瞭はっきりするだろうか。それはさすがにオークーに気づかれそうなので控える。


日々はゆるゆると過ぎ、柵は穴の半分ほどまで伸びていた。


生活に大きな変化はない。大きな荒天もなく、落石や朽ち木が倒れる音もない。雪が降ることや、鳥が飛ぶのを見ることもあったが、それは莫大な時間と単調な日々のなかで、ふと目を留めるほどのイベントにならない。


「豊かさとは均一さであると感じます」


ある時、オークーと食卓を囲んだときの発言である。


「ここでは何もかもがのっぺりとしています。単調な日々のなかでは毎日のちょっとした変化がより鮮明に見えるものですが、このリハットの村では逆です。日々の変化は価値を失い、埋没していくのです。しかし退屈や絶望はない。日々は淡々と続き、そこにじんわりと幸福がございます」

「ええ、ええ、そうですね。それが充実ということですよ」


二人は確かに色々なことをしている。服をこしらえたり、粘土をこねて器を焼いたり、さび付いたドアの金具を新調したり、煙突のすすを1日かけて掃除したり。


だが、それはいつのことなのか。器はいくつ作ったのか。成果物に対して自分はどう思ったか。そういうことから興味が失せている。


「シャルロット、私はね、人生とは俯瞰して見るべきだと思うの」

「俯瞰、でございますか」

「ええ、そう。刺激的な日と退屈な日、楽しいことと悲しいこと、それは実は同じようなもの。長大な人生のほんの暇つぶし。日々に満足していれば、余計な事件など不要なのよ」


オークーは枯れた指先で焼き菓子をつまむ。シャルロットも食べるが、塩気も甘みもほとんどない。だが不味いとも感じない。何かを食べているという壁越しの満足感がある。


「他の冬守りたちにはそれが足りなかったの。谷間の精霊ナパイアはね、きっと、変化しようとする人間の心を食べるの」

「変化しようとする心、というと」

「他の冬守りたちは穴を見ていた。あの穴には降りる必要もなく、穴を見る必要もない。でも見ようとした。だからいつかは穴に落ちる。そういう必然なの。部屋に未知の国へのドアがあると、人はいつかそのドアを開けてしまう。衝動を意志で抑え込もうとしてもうまくいかない。ドアを無視するためにはどうすればいいのか。それはたぶん、過激さが必要なのね」


シャルロットは紅茶の入ったカップをつまむ。熱くもぬるくもない。湯気も出ておらず、紅茶の味もよく分からない。ほとんど何も意識していない。


「何もしない、というのは、きっと、とても過激で、背徳的で、快楽に満ちた行い。私は、きっとそれを知っていたから、ナパイアに誘われずに済んだ。いいえ、それもまた違う。究極の人生とは、俯瞰して眺める人生の形とは、第三者的に決める自己ということ」


オークーは妙に饒舌であると感じる。以前からこんなに話す人物だっただろうか。


(いえ、そうではございません)


同じような話を、オークーから何度も聞いている。


ある時は切り株に腰掛け、ある時は山を散歩しながら、ある時は炭を焼きながら。


その断片が、ひとつながりの話となってシャルロットと共有されている。複雑な概念が呪文のように組み上がり、シャルロットの身体に残っている。


「人生は、自ら決められる」


オークーはつぶやく。そんな言い方をしていたかは分からない。だが概念だけは伝わっている。


「何も生み出さず、何も受け取らず、あるがままに生きて、幸不幸をものともせず、すべてをひっくるめて、最後には幸福だったと完結して終わる。この村にはそれがあるの。穏やかさとか、安らぎを超えたものが。無為なる日々が」


シャルロットは己の手を見る。ノコギリにより膨れた部分が生まれ、指先はかさかさに乾いている。


(オークーさま)


(私は何度、あなたとこうしてお茶を……)


「ねえ、シャルロット」


オークーはシャルロットの手をそっと握る。


「もうあなたは、リハットの村の冬守りね。この村は、きっといつまでも大丈夫」


いつかのような懇願の気配ではない。確信がある。

シャルロットはさっと手を引く。


「いいえ、オークーさま」


オークーは驚いたようだった。老人の目が大きく開いてシャルロットを見る。


「私は雪惑いでございます。雪惑いは旅することがすべて。いつかは、この村を出てゆかねば」

「そんな、なぜ、だってあなたは、ずっとこの村に」

「言ったはずです。いつか旅立つことは必然。滞在の期間など問題ではないと」

「まあ……」


オークーは目の奥に失望を宿した。自分の言ったことを何も理解していないのか、そう言いたげな目に思えた。


「まもなく柵が完成します」


それを思い出す。あとほんの数メートルで完成に至ると。


「それが終われば村を出ていきます」

「もう柵は作らないで」


そのように言う。声に激しさはない。


「あなたは穴を覗きすぎている。あと1日でも続ければ、きっとナパイアに魅せられる」

「私が穴に落ちると言うのですか?」

「いいえ、自ら飛び込むの。きっとそうなる。ナパイアは穴をのぞき込んだ人間が村を離れることを許さない。落ちないためには、私のように穴を忘れるしかない。あなたはきっと、穴のことを忘れていると思っていたのに。柵を作って視界からも塞いでしまえば、それで完全に忘れられるはずだったのに」

「お気遣い感謝いたします。今夜はここまでに」


席を立ち、オークーの家を出てゆく。


オークーは追わない。声を投げることもない。


果たして自分はあの穴に落ちるだろうか。


「人生は、自ら決められる」


それは確かに究極であろう、とシャルロットは思う。


「この静かなるリハットの村で、一人の冬守りがそのような精神的な境地に至った、それはきっと良いことでしょう」


では、そこにあの穴はどう関わるのか。


「穴に落ちたものは消える……」


なぜオークーはそう考えているのか。消えたのは「誰」なのか。


謎めいている。


あるいは本当にナパイアなる精霊がいるのか。そのほうが説明は容易たやすいかもしれない。


あの大穴と、かつて存在したかも知れない冬守りたち、そしてオークー。


シャルロットは白い息を吐き、家路を急ぐ。



オークーが姿を消したのは、翌日のことだった。



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