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次の冬ごもりは百年  作者: MUMU
第一章 汝、遠吠えを恐れよ
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第五話



ざく、ざく。


ざく。


霜を踏む音がする。ケルトゥは揺れを感じていたが、頭が朦朧としてよく分からない。


不快な熱を感じる。


湿度を帯びた肌。分厚い皮脂は獣のような体臭を放つ。噛み締めた歯の隙間から漏れるような呼吸。


やがて、ごろりと投げ出される。冷たい。凍りつく寸前のような土の上だ。


そこでばらばらになっていた全身が噛み合うような感覚があり、ケルトゥは目をしばたたく。


カンテラの火が見えた。指先ほどの明かりが、ほんの数メートルの範囲を照らしている。


「おとなしくしとけ」


酒の匂い。男は醸造酒のビンをぐいと煽る。シェズ村で作っていた品だ。


「おじさん、誰?」

「誰でもいいだろう」


石に腰かけているが、その状態でも立ったケルトゥよりも大きかろう巨漢。袖は短く、露出した腕は体毛と古傷で覆われている。麻のズボンには太いベルトを巻き、山刀を吊っている。


「おじさん……なぜ本に入ってないの」


その質問は、ケルトゥの頭の中で奇妙なそらぞらしさをもって響いた。質問する前から、自分には答えが察せられている気がする。


「ちょいと顔を知られてるからだ。人里には降りられないんだよ」


げふと酒臭い息を吐いて、濁った目でケルトゥを見る。視線から逃れたくて身もだえて、そこでようやく、ケルトゥは足首を縛られてると知った。


「縛り首になるっていうの? 本に入る人は、いっさいの罪を恩赦するってお触れが……」


冷たい地面には寝ていられなかった。手をついてどうにか上半身を起こす。


「それを信じるほど間抜けじゃねえ」


ぐびり、とまた酒を飲む。

目は座っており頭の位置は定まらず、それでいて押さえつけるような視線がケルトゥに何度も降り注ぐ。


足首にロープが食い込んでいる。荒縄でぐるぐると巻かれており、痒みと痛みで不快だった、やすりのような荒縄が皮膚を斬りつけるかに思える。


「暴れるな、傷ができて膿みでもしたらつまらねえ」

「おじさん……ロープを解いてよ。ついてこいと言うならついていくよ。僕に身の回りの世話をさせたいんでしょう?」

「まだ村が近い、もうしばらく運んだら解いてやる」

「村にはもう……僕とネルハンシェラしかいないよ。僕の村に住めばいいじゃないか。なぜ僕をさらうんだよ……」

「なぜかって?」


ぐふぐふと、鍋が煮詰まるような音で笑う。喉の奥でするような枯れた咳。下卑た顔でまたケルトゥを見つめる。


「あんな小さな村に住めるか。もっと大きな町を襲うのさ。どの村も冬守りはガキばかりだ、簡単なことよ」


それなら、なぜ自分を連れて行くのか。


ケルトゥの中で奇妙な自己観測が起きていた。浮かぶ疑問、己の境遇、これから起きること。


そのすべて、すでに知っているような気がする。


地面に寝かされた自分、石に腰かける大男、その姿を上空から見る自分がいる。鳥になってすべてを睥睨するような感覚。過去も未来も、何もかも分かりきっていると感じる。あきらめとも侮蔑ともつかない感情。


「おじさん……」


なぜ、自分はここに寝かされている。


なぜ自分はさらわれた。


なぜ自分は冬守りに選ばれた。


なぜ百年の冬を押し付けられた。


それは、自分がケルトゥだから。


やせっぽちのケルトゥだから。


だからすべてを押し付けられた。


押し付けられた。


「おじさん、狼が」


遠吠えが聞こえる。


山の上から声が降りる。雪崩のように響く何百もの狼の声。うわんうわんと、ケルトゥの頭に響く。ケルトゥの頭には常に残響が詰まっている。誰かにぶつけられた言葉が、自分自身の叫びが、狼の声が。


「狼?」

「山の上から、狼が来るよ……」


巨漢は山の上を見る。


曇天の夜には山はほとんど見えない。だが一帯が静まり返っているのは分かる。遠吠えも、獣の駆ける音も。風すらもない動かざる夜だ。


「は、狼ごとき怖がってて」


ケルトゥがいない。


足を縛っていたロープがその場に残っている。


ひゅっと響く風切り音。石がカンテラに当たって火が消える。


「な……野郎!」


男は知らなかった。

ケルトゥは足を縛られたことなど何度もある。彼がロープを緩ませる足の動きを知っていることも、その細く柔軟な足で縄を抜けられることも。


真の闇。


ふいに、あらゆる音が消える。


男はケルトゥが逃げたのかと思った。だが違う。この闇の中で村まで戻れるはずがない。


そしてカンテラの火はすぐに点け直せる。周囲に隠れるような場所は無かったはずだ。


ならば、この数秒の暗闇の中で自分を襲う気か。


「なめやがって」


男は腰から山刀を抜く。重量の乗った肉厚の刃。ケルトゥの腕でも足でも一撃で斬り落とせるだろう。男はためらいなくそうするつもりだった。


だが、男には何の行動も許されなかった。


予兆もなく、気配もない。


男の首に。狼の牙がかかり。


一瞬で、すべてが終わる。


「が――」


咄嗟に首を押さえる。


血潮が指の股から抜けていく。


全身から力が抜ける。


体温すら一気に失われていく。


狼。


男の頭には、その言葉だけが。





「ケルトゥ!」


ニールはわずかな足跡を頼りにそれを見つける。


村を少し離れた場所。昼間であれば村の全景が見下ろせるような高台。ニールが村に来たとき、最初にケルトゥと出会った場所だ。


ケルトゥはそこに立って、巨漢の男を見下ろしている。その口元には強引に拭ったような血の跡があり、服にもべったりと血がついている。


「越冬官さま……」

「ケルトゥ、座って気を落ち着けなさい。大丈夫」


だがケルトゥは座らない。顔は茫然自失のていながら、浅く息をして体を上下させている。


ニールは倒れている男に近づく。


「無法者のたぐいですね。このあたりにもいたとは」

「あ、が……」


かろうじて声を発している。だが出血量は尋常ではない。ほどなく死ぬだろう。


「あなたに残された選択肢は二つです」


ニールは鎧の腰から小さな本を取り出す。手帳ほどの大きさの本であり、表紙には王国の紋章があった。


「「魔法の本」に入って百年を待つか、このまま大地に血を捧げるかです。選びなさい」

「う、ぐ……」


男は首の傷を押さえながら、口惜しそうに顔を歪める。


「は、入、る……」

「わかりました」


ニールは手帳を開き、男に押し当てる。

瞬間、男は消えた。


光も音も発しない、どうやって本に入ったのかも見えなかった。本のページに触れた途端に消えたとしか思えない。


「ケルトゥ!」


そこへ、坂を登ってくる人物が。


ネルハンシェラである。ニールの後を追ってきたのか、カンテラを腰に吊り下げ、白い息を吐きながら登ってくる。


「はあ。はあ。良かった……ケルトゥ、あなたがどこかに行ってしまうのではないかと、恐ろしくて、私……」

「ケルトゥを湯に入れてあげましょう。彼は無法者と戦ったのです」

「無法者と……」

「本に入らない者。人里に姿を見せることすら出来ない無法者です。ケルトゥはその男にさらわれ、そして勝利した。私が無法者を封印しました。これは喜ぶべき奇跡です」

「ああ……越冬官さま」


ネルハンシェラはケルトゥの口元の血を見て、顔をくしゃくしゃに歪める。こみ上げる感情のためか顔を両手で覆い、大粒の涙をその手の隙間からこぼし。


言葉が。




「あなたは、誰ですか」




沈黙。


ケルトゥはまだぼおっとして山の方を見ている。ネルハンシェラは涙をこぼしている。


そして問われたニールは。


鎧をかちゃと鳴らして、ネルハンシェラを向く。


「どういう……意味でしょうか。ネルハンシェラ」

「わ、私は、ずっと疑問だったのです」


涙を拭い、呼吸を無理やりに鎮め、そして強い感情を込めてニールを見る。


「あなたは何者なのか。冬守りたちに指導を行う越冬官。仮にそんなものがいたとして、なぜ剣に刀身がないのか。なぜ武器を持たずに旅をしているのか。「本」に入っていない無法者がまだ残っているのに。それは私たちを警戒させたくないから。私たちに取り入ろうとしているから」

「……」

「そして私たちは知っているのです。大人は私たちのことなど助けない。身よりもなく、財産もない、だから冬守りを押し付けられた私たちです。嫌な役目を押し付けられるような人間を、王は助けたりしないのです」

「誤解です……あなたたち冬守りには役目がある。魔法の本を守り、村の建物を保全すること……」

「そうかも知れない。だから信じたかった。でも、騎士は庶民の食べ物に手を付けることをためらったりしない。私たちのような者に親身になったりしない。あなたは……」


ネルハンシェラは地面に流れた血の跡を見る。そこにいたという狼藉者のことを想像する。本に入らず、永き冬の間にも略奪と暴力に明け暮れるであろう者のことを。


「あなたも、狼なのですね」


ケルトゥは、その言葉にだけはわずかに反応した。視線だけをニールに向ける。


「あなたも「本」に入らなかった人。おとぎ話に出てくる越冬官を装い、村を回って庇護を受けるつもりだったのですね。そのような紅顔で、若さで、どれほどの罪を重ねてきたのですか」

「……」

「恐ろしいことです……私たちに取り入り、村にずっと居続けるつもりだったのですね。でも村には人手が足りない。私は一度は受け入れようと思った。でもやはり恐ろしい。あなたがいつか牙を剥き、私たちがあなたの意のままに支配され、絶望にまみれた百年を過ごすことが恐ろしい。だから私は、あなたを受け入れるわけには……」


「ネルハンシェラ」


声に低い響きが混ざり、ネルハンシェラは数歩下がる。


ニールは柄だけの剣を抜き、鎖を外す。じゃらりと鎖がベルトから抜けて、革製の鞘とともに地に落ちる。


「冬とは眠りの季節。草木は眠り、獣も眠り、川の流れ、海のさざめきすらも静止する大いなる眠り。そして越冬官とは眠りの中を歩む。ゆめうつつの境目を歩む者」

「……?」

「ケルトゥ、我が剣の輝きを見なさい」


柄を掲げる。しかしもちろん刀身は無い。ケルトゥは血に塗れた口をぼんやりと開け、胡乱げにニールを見る。


「見せてあげましょう。今が夢の時代であり、夢の世界を歩く者もまた、存在するということを」


ニールが一度きつく目を閉じる。何かの覚悟を決めるかのように息を固め。喉の奥から声を放つ。


「あるがままの姿を示せ」


ネルハンシェラの頭にずしりと響く声。声に凄まじい胆力が乗っている。魔法使いのまじないのような、預言者の託宣のような声。


「か弱き少年に激甚の憤怒あり。愚かしき村人に慚愧の欲あり。奏でるは遠吠え。山に向かいて山よりかえる。山に木霊こだまする怒りの声なり。そのすべて」


影が。


そこにいたのは少年ではない。身の丈は空に届くほど。毛並みは白銀にして牙は鍛鉄。眼光は血の色にたぎる巨狼。


狼が。天の高みへと昇っていく、ネルハンシェラの目がその幻を追う。



つるぎの輝きより逃れるものなし」


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