第四十八話
静かな土地だった。
すべての音がどこかへ逃げてしまったかのよう。山に囲まれた窪地であり、風がまったく吹かない、それは誰かの不在のような感覚を与える。
青い空が広がっている。東西にそびえるのは高い山。この土地が灯ならば、山はそれを守る二つの手のようだった。
雪はまばらであり、土も見えている。地面には緑色の芽吹きがある。旅人はその指先ほどの芽吹きに豊かさを見た。この土地では、少なくとも冬守りの命をつなぐほどの実りが望めるだろうと。
旅人は分厚い黒ガラスのゴーグルを上げ、村の様子を観察する。
それぞれの家は窓が木板で覆われるのみで、熱の保持は考慮されていない。屋根から下ろした雪が積み上がってる様子もない。雪が極端に少ないのだろう。
旅人は緑色のフードを下ろし、背中に入れていた懐炉の火を消す。
「風と空の厳しさがない、それだけでも大変な豊かさと言うべきでしょう。ですが冬守りが大勢いるという感じではありませんね。この村には市も無ければ集会もない、社会が無いと感じます」
独り言を言いながら歩く。
「リハットの村、でしたか。古い記録によれば人口は200人程度と聞きおよびますが」
いくつもの山を踏み越えて至る、まさに秘境の村。宝石を採掘するための村であり、その宝石は冬が始まるより前にほぼ取り尽くされ、村は衰退を続けていた。
だが今は何物にも代えがたい宝がある。雪の少なさと風の穏やかさである。他に何もない村に、この時代にもっとも得がたい安穏がある。運命の皮肉であろうか。
「む、人の気配」
気配というより、暖炉から上がる煙を見つけたための発言だった。黒槍樹の人工林を越え、村の端のほうへ。
小屋である。村外れにぼつんと佇む箱型の小屋。村の産業と相まって、宝石箱のような、という例えが浮かぶ。
そして。巨きな穴が。
「これは……」
人工物と言うには大きく、地形と呼ぶには奇妙なほど整った、ほぼ円筒形の穴がいきなり現れる。
のぞき込めばかなり深い。一種の高低差がもたらす目まい、ここではない別の土地を神の視点で見るような感覚。静かな村では風がうなることもない。
穴の奥は白く見えるが、もやが立っているのだろうか。目を凝らせば立木の頭も見える。
深さは目測で200メートルあまり。垂直に切り立った崖は白一色である。氷なのか雪なのか、それとも白い石灰岩のようなものか、ともかく白磁器の洋杯のように白く、滑らかな側面だった。
「垂直の崖に、円筒形の穴……これは宝石を露天掘りした跡でしょうか。それとも天然の地形でしょうか。この村については記録が少なくてわかんないですね」
ともかく、小屋を訪ねるべきだろう。旅人は穴を離れる。
小屋には人がいた。寝台に寝そべり、厚手の布団をかぶっている。かなり高齢の女性である。
「あら……あなたは、もしや」
身を起こす。弱ってはいるが手足は肉を残している。冬守りとして何十年も働いてきた人間が持つ腕。まなざしの強さ。
「冬守りを訪ね歩く……越冬官でしたかしら」
「違います。私は雪惑い」
旅人は女だった。ゴーグルの下には鳶色の美しい瞳と、濡れるような艶やかさを持つ黒髪。そして深紅の唇が。
「雪惑いシャルロットと申します。リハットの村の冬守りでございますね」
「はい、オークーと申します」
オークーと名乗った女性は寝台を降り、壁にかけてあった綿入りの上着を羽織る。
「ご病気でございますか? 身体がお辛いなら無理をせずともよろしいのです。村のことが聞きたいのですが、ほかの冬守りを訪ねても良いのですから」
「いいえ」
オークーはやはりかなり高齢に見えた。撫でつけられた白髪はいっさいの色味を失い、肌は水気を失い、目元には何かを嘆くような皺が刻まれている。
だが彼女はやはり冬守りだった。孤独の中で生き、日々の労苦を受け入れてきた人間だった。錆びついてなお枝を断ち割る斧のよう。力強さと老いが、この人物の中で奇妙な均衡を保っていた。
「ほかの冬守りは、おりません。もう、私だけしか」
※
「では、訪ねてくる方もおられませんでしたか」
「はい、人と話をしたのも、何年ぶりのことでしょうか」
オークーは病気ではないという。ただこの数年、寝床で休む時間が増えたのだと語った。
「こちらが食糧庫です。お酒もあります」
シャルロットが見てきた村の中でも、食糧は充実しているように思えた。干した穀物に酒に浸したプラムやチェリー、石壁で仕切られた部屋には魚が干してあり、表面が毛皮のようなカビで覆われている。
「カビ干しですね。西方に独特の貯蔵法と聞いております」
「ええ……食べるというより、ヤスリで削った粉でスープを作るのですけど」
臓物と骨を除いた魚を陰干しにして乾燥させ、さらに湿気と熱を加えた部屋で特殊なカビを生やす。このカビは毒を持たず、魚の水分を徹底的に奪う。このような処理をされた魚は何十年もの保存に耐えるという。
「おお、こちらは蜂蜜のお酒ですね。ワインもまだ飲めそうです。ひと瓶につき銀貨3枚でいかがでしょう」
オークーはかぶりを振る。
「差し上げます。私はお酒を飲みませんので」
「そうなのですか? ですが、このあたりのお酒は作られたばかり。いえ、作っている最中のようですが」
ガラス瓶の中には水と、大量の干しブドウが入っている。干しブドウはわずかに気泡をあげており、発酵が進めば酒精を含むだろう。
「その泡をすくい取り、小麦粉を練ったものに混ぜるとパンが焼けるのです。お酒としても飲めますが……もう、飲む者はおりません」
「おお、それは勿体ないことでございます。この泡は微細なる生物のいとなみ。果実を酒精に変える酵母というものでございますね。これこそは村の歴史の生き証人。伝統と文化の結実でしょうに」
「あの……あなたは旅の商人なのですか? ごく稀に、村々を回る商人がやってくると聞いたことがあります。この村には一度も来ておりませんが」
「商人ではあります。物々交換もすれば金貨銀貨をやり取りすることもある。しかし雪惑いの求めるものは物ではなく言葉でございます」
オークーの寝所とは別に、村には大きめの家がひとつ整えてあった。調度もあり暖炉の脇には薪も積まれ、書き物机には海棲獣の油を使ったランプが置かれている。
オークーは木の芽を用いた茶を入れる。外に風はなく、窓は揺れることがない。大きな岩の中にいるような感覚を覚える。
「オークーさま、他の冬守りはおられないと言われましたが、ずっとこの村にお一人で?」
「はい……一人きりになって2年ほどでしょうか」
「他の冬守りはどうなされましたか。病に倒れたか、雪の積もる峠を越えてどこかへ行ってしまったのか」
「穴に落ちたのです」
オークーは、このか細い印象のある老婦人は、そっと己の肩を抱きしめて言う。
「みな……穴に落ちていきました。何十年もの間にはたくさんの冬守りがいた。村を訪れて住み着く方もいたし、私には夫がいた、そして息子もいた。すべて、穴に落ちてしまいました」
「穴に……あの大きな穴でございますね」
この家の窓からも見える。この村は穴の縁に沿って三日月型になっている。その穴は多くの家から見えるようだ。
「足を滑らせたのですか? それとも何らかの必要があって谷の底に降りようとして、事故が起きたとか」
どこかの村では断崖絶壁にツバメが巣を作り、その巣を集めてほかの街に売る商売がある。そんな話を思い出す。
「いいえ……あの穴には」
オークーは、一度きつく目を閉じる。
その一瞬、雪惑いシャルロットの瞳孔がぎゅっとすぼまり、老婦人を見る。それは見るというより焼き付けるような、今の一瞬の表情をこの家ごと、空間ごと焼き付けておくようなまなざし。老婦人の唇が、震えながら言葉をこぼす。
「いるのです。谷の精霊が」
「ナパイア……それは、切り立った渓谷ですとか、深山幽谷に棲む精霊でございますね」
「いいえ、妖精とか精霊ではないのですが、そのような名前を当てはめるしかない何かが。それはきっと、とても美しくて、妖しげで、艶めかしい、しかし男とも女ともつかない……」
「落ち着きくださいご婦人。ゆっくりと、明確であることから語りおきくださいませ。この冬の時代において、言葉を焦る必要はないのでございます」
時の流れがゆるやかな時代。
あるいは時を動かす神の馬車が、永遠という言葉に飽いて立ち止まろうとするような時代。
リハットの村にはそれが顕著だった。時の流れがとても遅く、老婦人は何時間もかけて語ったというのに、窓の外の日は傾く気配もない。
老婦人は多くのことを覚えていた。長き冬に入る前の村の様子。山や動植物の変化。そしてこの村にいた冬守りたちのこと。シャルロットはノートを開き、速記にてそれを記録する。
あの大穴は想像を絶するほどの大昔からあり、古代には獣を追い落として上から槍を投げる、穴追い猟が行われたという。穴の底から見つかる打製石器の槍や、誰もその姿を知らない古代獣の骨などがそれを物語る。
「おや、宝石の露天掘りではないでございますか?」
「ええ……宝石は、大昔の溶岩質の岩から見つかります。それは、もっと山の上の方にありますから」
あの穴は何にも利用されず、何かを貯蔵したり飼育したりすることもない。空っぽの箱庭のような存在だった。
だが村の人々は何となく理解していた。リハットの村の気候が安定しているのは大穴のためだ、と。
「聞いたことがございます。地下というのは季節にかかわらず温度が安定しており、住居の地下に深い穴を掘ることで、冬は暖気を、夏は寒気を取り入れることができる、そういう特殊な仕掛けがあるのだとか」
「ええ……この村はあの穴に守られている。みな、そう感じているようでした」
かつてリハットの村は宝石で栄えたが、山の坑道は固く掘りにくく、他のもっと優秀な鉱山に人は流れていった。衰退は明らかだったが、滅びはしなかった。このあたりのきわめて安定した気候が人を繋ぎ止めたのだ。
そして長き冬が訪れる。
村からは4人の冬守りが選ばれ、その中にオークーもいた。風は穏やかで雪は多くはなく、冬守りたちは山に分け入って実りを得て、温室を作り、村の周辺に黒槍樹を植えた。人口は増え、村を訪れる者が住み着くこともあり、最も多い時で8人の冬守りがいた。
ある時、冬守りの一人が言う。
穴の底に誰かがいる、と。
「あの大穴に……でございますか」
「そうです」
他の冬守りは馬鹿げたことだと言った。
常に白いもやで満たされた大穴、100メートル近い深さがあるが、広さはさほどでもない。人間がいれば見つかるだろう。何より、どうやって下まで降りたと言うのか。
「その冬守りは、爾来ずっと穴を眺めるようになりました。労働の合間に、余暇の時間に、寝床から起き上がって、真夜中にじっと穴を見ていたこともあった。他の皆は不気味がっていました。そしてある時、その冬守りは姿を消しました」
「……」
「雪の積もった山道には足跡がなかった。穴に飛び降りたのだと皆は言いました。助けに行こうにも、すでに長き冬が始まって十数年。崖のふちは白く凍りついていたのです」
ロープを使って誰かを降ろすことも検討された。だが、遠眼鏡を使えば穴の底ははっきりと見えるのだ。多少のもやはかかっているが、樹木は少なく大きな岩もない。草は灰色のものがわずかにあるだけ。横穴などもない。人がいないのは明らかだった。
その数年後にまた一人、姿を消した。
最初の一人が消えてから数十年。気がつけば、村にはオークーだけが残っていた。
「私は、穴の底に降りたことはありません。今ではもう、穴の底は見ないようにしています」
「それは、ナパイアを恐れるがゆえでございますか?」
「そうです……他の冬守りは、誰かが落ちていないか穴の底をたんねんに見ていた。そうするうちに、きっと、ナパイアに魅せられたのです」
オークーは卓の上で手を組み、組み合わせた指に力を込める。手が震え出すのを抑えるかのようだった。長い年月が、その中で熟成された感情が、この老婦人の中で渦巻くかのようだった。
その枯れ枝のような手に、重なる手が一つ。
「あ……」
「オークーさま、もしよろしければ私、しばらくこの村に滞在したく思います」
「それは……構いませんが、なぜ……」
「雪惑いは、旅することがすべて」
ノートを閉じて懐中にしまい、かわりに出すのは大ぶりな本。黒革張りであり金糸の刺繍がなされた装丁。その重さは石板のようで、詰まった言葉は鉄の密度。雪惑いの日記。
「不思議なもの、奇妙なるものごとを、集めるが使命でございますれば」




