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次の冬ごもりは百年  作者: MUMU
第八章 雪明りの君
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第四十七話




それから、さらに数年。


村はますます豊かになり、色彩があふれ、不安は遠くなっていく。


ラミとバリオたちは幾度か村に戻ってきたが、ここ最近は顔を見せない。向こうも忙しいのだろうか。


バウルは冬守りとしての務めを果たし、カコモモとこの村で暮らし、時には愛を確かめ合い。

そしてひたすらに、日記を読み続けていた。


「この文字は……」


もう数カ月、新たな単語は特定されない。

だがバウルは休むことなく、毎日2時間あまりを解読に費やした。最初から最後まで何度も目を通し、速記のような文字をどのように書いたのか、その筆の動きを追わんとする。書き手に同調しようとする。


「連れて、そうだ、連れてこられた、と書いてある」


雪が降っていた。

窓の外にはホタルが踊るような光景、ふと目を向ければ、雪が発光しているように見えた。


月が出ている。いわゆる天気雨のようなものだろうか。

夜空には白銀の月も、星の海もあり、一点の曇りもないのに雪が舞っている。


「雪の舞う夜だった。こうこうと光る月が出ていた。私は金盞花の館に連れてこられた。日記をつけるように命じられ、速記を習った。それはとても膨大で複雑な速記で……」


はっと気づく。日記の内容。解読できていなかった部分が思い出せる・・・・・


「同じ年頃の男女がいた。女の子が多かった。先輩の雪惑いは優しかったけれど、山を歩き回る訓練はとても厳しかった。私たちは野草について学び、ロープワークを学び、短剣の扱いを習った」


「今日からは教師はつかないと言われた、日記ですべてを学ぶらしい。一緒にいた多くの子どもたちはみな一様になっていくと教えられた。日記を通して同じようなものになっていくのだと」


思い出せる。

その文字列。すべての記述が頭の中に入っている。それが言葉となってあふれ出てくる。


「私は金盞花きんせんかやかたのすべての日記を読み、雪惑いの一人になった。私たちは旅することがすべて。多くの土地を歩き、日記を残し、日記を共有することで大いなる一人となる。時の果てまでそれを繰り返す」


雪の上に、旅人がいる。


すり切れたコートにツイードの靴。わずかな食料と野宿のための装備。星見ほしみのための望遠鏡。そして黒革張りの日記をケースに入れて背負う。


バウルはその姿を幻視する。白い湯気が立ち上るような人影。旅装の一つ一つが見える。

大工小屋を出る。雪明りの中にその人物がいた。旅装の人物はたくさんの土地を訪ね歩く。無限の時間が、広大な旅路がぎゅっと圧縮されて目の前にある。


「雪惑いはあらゆる場所を歩いた。剣が峰の霊峰、闇深き樹海、塩の砂漠、炎の海、多くの獣を見て多くの人々と出会う。豊かさは頭の中にある。記憶とは雪惑いの宝、いずこをさ迷っても失わない、無限の財宝をたくわえた城のごとく」


それは女性だった。あらゆる場所を歩いてきた旅人。雪惑いたちの記憶とともに旅を続ける。その姿は孤高のようでもあり、長大な隊商キャラバンを引き連れるかにも思える。


そして女性はたどり着く。忘れ去られた村。赤の信号旗だけを残していた村に。日記の最後の部分に。


「私は荒れ果てた村に立ち寄った。この村に名前は見つからず、滅びて久しく、魔法の本だけを残す。赤の信号旗が残されていたが、冬守りはいなかった。私はここで一夜の宿を借りんとした。そこへ彼女がやってきた」


ここだ。

すべての文字は頭の中に入っている。何千回も歌った歌のようにそらんじることができる。


「彼女は刹那に生きていた。一瞬の暴力に快楽を見いだし、雷光のような殺戮の余韻を食べて生きていた。彼女は己のたどってきた修羅の旅について語った。私は彼女の言葉を聞き、その殺意と暴力性の濃度を知った」


記述が。


手元に日記はない。だが分かる。もうほんの数行しか残っていない。この日記を残した雪惑いはどうなったのか、最後の数行にはもう、その答えなど無いことが予感されて。


「私は」


体が震える。眼球すらも震える中で言葉を追う。


「私は、彼女を憐れむ。殺すよりも、愛する方がより深い快楽が、得られるというのに」


雪に膝をつき、そして両手をついて倒れ込む。


記述は終わっている。


これですべてを読み上げた。解読にどこにも瑕疵かしはないという確信がある。


「あ……」


雪惑いと、バウルの村を襲った狼が、この村で出会っていた。


どちらかが死んで日記が残った。


カコモモが雪惑いなのか。それとも狼なのかは分からなかった。


だが。



それはもう・・・・・どうでもいい・・・・・・



「……行かなくては」


この日記は、まだ記述されねばならない。


雪惑いが旅をやめてはならない。この日記に日々のすべてを刻み、やがて文字で埋め尽くされたなら、金盞花の館に持ち帰らなければ。


それは誰の意思だろうか。バウルのものか。それとも雪明りの中に浮かぶ幻影か。


バウルは家に戻り、分厚いコートを着て干し肉を皮の袋に入れ、ワインを詰めた水筒を持つ。旅にはそれ以外にも山ほど必要なはずだが、考えている時間はないと感じた。


十分な計画も、妻への別れの言葉もない。


ただ、旅する。

旅の技術は頭の中にある。雪惑いたちの記憶が助けになってくれる。


村を出ていた。月明かりの中を歩く。子どもたちのいる村の方向など意識もしない。


旅することがすべて。


それが分かる。今はもう、村を襲った狼を憎む感情もない。おそらくこれが本来の雪惑い。あらゆる感情を置き去りにして旅を続ける人々。


歩く。


歩く。


振り返ることもなく。


ひたすらに歩いて、月が地平線の果てに沈むまで歩いて。雪明りの時間が終わり。


そしてカンテラをともせば、そこはすでに見知らぬ土地。


バウルはわずかに身を震わせる。無限の旅に漕ぎ出す不安と、すべてを捨ててきた悲しみ。


そして日記を取り出し、淡々と己の感情を記述する。


そしてまた、闇の中を歩く。










ゴーの荷車に乗って谷あいへ行く。


長い歳月の中で、山の斜面から滑り落ちた雪が堆積する場所。周囲の黒槍樹ジンガルが日よけとなっており、積もった雪は溶けることもない。


その雪を荷車に積み上げる。一往復で200キロほどの雪を運ぶ。ゴーが一頭で運べる量はもう少し多いが、ゴーに負担をかけたくはなかった。いずれは三頭のゴーで引く大型の荷車を開発したいと考えていた。


ゴーの声がする。振り向けばまるまると毛をたくわえたゴーの隣、とても大きな馬がいた。その上には夜会服の人物。


黒の装い、袖口や襟元の襞襟ひだえり、山高帽に絹の手袋。その顔は白磁のように白く、この世のものとは思えぬほどに美しい。


「商人さま」


カコモモはその姿を見上げる。商人と呼ばれた人物は柔和にほほ笑む。カコモモが花ならば腐り落ちるほどの妖艶な視線。石ころですらほほ笑み返すような微笑。


「雪惑い、なぜ日記を捨てたのですか」


商人はそのように問いかける。その騎馬は尻尾を揺らすこともなく、凍ったように立ち尽くしている。


「私は、愛するということに憧れていました」


カコモモは言う。彼女自身は商人に出会ったことはない。だが雪惑いたちの日記にその姿が刻まれている。遥か昔からの知己ちきに会ったような気がしている。


「雪惑いは私の使命でした。ですが、たくさんの村と街を訪ねるうちに、愛というものへの憧れが育っていった。ごく普通の人々が持つ愛です。家族の間にあふれる愛。仕事への愛、土地への愛、それを味わいたかった。だから日記を捨てたのです」

「ですが、雪惑いは使命を裏切れないはず。それが金盞花きんせんかまじない」

「そうです。逃れる方法はただ一つ。誰かに雪惑いの使命を託すことだけ。自分の意志で日記を読む者だけに託すことができる」


商人はバウルとカコモモのことをどれほど知っているのだろうか。最初から最後まで、すべてを見られていたような気もする。カコモモは話すうちに頬が上気するのを感じた。熱っぽくうるんだ目で語る。


「私は、この村で狼と出会いました。彼女は暴力と殺戮と、宝石だけに価値を見いだしていた。彼女は私を殺そうとして、私は造作もなく打ち倒しました。雪惑いにはやいばは届かないのです。そして村にバウルが来た。私は彼が村に来たとき、彼に日記を読ませることを思いつきました。私を狼ではないかと疑わせ、日記の記述にその手がかりがあると思わせた」

「ですが、雪惑いの日記を解読することは容易ではない」

「ええ、何十年もかかりました。でも読んでくれた。バウルはもう立派な雪惑い。私の代わりに使命を続けてくれるでしょう。もしバウルが読まなかったら、解読しきれなかったら、私は雪惑いに戻らねばならなかった。あの金盞花の館に帰らねばならなかった」


商人は静かにたたずみ、視線を地平線へと伸ばす。すうと息を吸い込むように見えた。この地で紡がれた歴史を深く呼吸するような、そんな例えが浮かぶ。


「読ませるだけなら、いくらでも方法はあったでしょう。バウルと夫婦として過ごす必要はなかったのでは」

「そうは思いません」


カコモモは涙を流し、そして薄く笑っていた。

多幸感と喪失感が体の中でせめぎ合っていた。笑みは喜悦でありその瞳は寂寞。すべての感情が同時にあるような気がしていた。


「私が世界を愛せば、世界はこたえてくれる。私は雪惑いとしての人生も、冬守りとしての人生も愛したかったのです。子どもたちが巣立っていくことも幸福であり、バウルが雪惑いになることも歓喜でした。私にとって獲得と喪失はどちらも愛すべき対象なのです」

「あなたは強欲な方ですね」


商人は唇の片方を上げる。そこにはほんの僅かに感情がにじんでいた。何かに満足したような、それとも見るに堪えないものを見たような、見下げ果てたような刹那の皮肉。


「ですが、本当に獲得と喪失は等価でしょうか。バウルを愛することが演技でないのなら、それはあなたの体に食い込んだ臓物のひとつになる。それをちぎり取られて、なお痛くないと言えるでしょうか」

「痛みすらも、愛せるのです」

「おやおや」


商人は、また同じ表情をする。カコモモからはわずかに視線を外していた。もう彼女は見たくないという気配がわずかににじむ。


「やはり雪惑いたちは興味深い。あなたたちを観察して幾年月いくとしつき、あなたがたに退屈したことは一度も無かった」

「商人さまはなぜここに」

「私は魔法を追い求めているのです」


ほとんど分からぬ程度に頭を前に傾ける。商人の所作には力があった。秘密めいた話をするのだと分からせる力が。


「永き冬とは幻想の時代。現実と夢の垣根が曖昧になり、想像が現実になりかわる時代なのです。この大陸西方、雪惑いたちの世界にもまた、素晴らしき魔法が生まれるでしょう」

「雪惑いの誰かが、それを生むのでしょうか」

「ええ、必ず」


糸がぷつんと切れるような感覚。話は終わりなのだとカコモモは理解する。ぶるるとゴーのいななく声。ひづめで土をかいている。今まで金縛りにでもあっていたのか。


「……商人さま、では私はこれで」

「ええ、まだまだ冬は長い、健やかにあらんことを」


カコモモは去っていく。彼女はこれからも冬守りとして生きていく。やがては村にも新しい冬守りが来るかも知れない。カコモモはその人物すらも愛するだろうか。誰も来ないとしても、孤独すら愛すると言っていた。


「――日常こそが過激」


そのような言葉をつぶやく。声は冷たい風に乗って飛んでゆく。


「不変こそが濁流、永遠こそが流転、愛することこそが支配。恐ろしい方です。何もかもすべて思いのままにしていた。ですが、理解しておられますか。あなたが失うものはバウルという夫だけではない」


笑っている。

神秘的な笑みでもなく、皮肉げな笑みでもない、もっとずっと直接的な、ただ楽しいというだけの原始的な笑い。


「日記を失ったものは、雪惑いではなくなる」


その事実を、果たしてカコモモはどれほど理解しているのか。雪惑いであった頃に立てた計画を、覚悟を、一貫して持ち続けることができるのか。


「無数の雪惑いたちの記憶。そのすべてが緩やかに失われてゆく。それは数百の死別に相当する悲しみやも知れません。ふ、しかし余計な世話というものですね。ええ、きっと受け止められるでしょう。つまらぬ私などの想像よりも、人の心はたくましく、深遠なのですから」


馬首うまくびを巡らせる、特に命じもせぬままに馬は歩き出す。


「雪惑いたちに変化が生まれていますね」


雪が降り始めていた。気まぐれに温暖であった時期は過ぎ去り、また寒さが厳しくなる予感がしていた。


「雪惑いであることを捨てる者がいる。以前の永い冬には見られなかったことです。おそらくは金盞花きんせんかやかた。その書棚に並び、すべての雪惑いが共有する日記に、異物が混ざりましたか」


馬を走らせる。その馬は果たして息をしているのか、白い息すら漏らさずに一気に加速する。山を走る風となり、森の木立ちが落とす影の一つになる。


「その異物もまた、私のたのしみとなりましょう……」


商人は世界のどこかに姿を消して。


そしてカコモモは。


もう己の他には誰もいない村で、浴場にたっぷりの水を張って。

膨大な燃料を燃やして湯を沸かし、いまだ歳月という軍勢を遠ざける肢体で入浴する。


ふんだんに香料を使った石鹸。一つ一つに時間と手間をかけた調度。


果てしない贅沢の中に彼女はいて、一人きりで笑ったり泣いたりを繰り返す。



彼女は幸福であったのか。



それはもはや、この世の誰にも分かりはしない。

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