第四十六話
※
日々の速度とは雪を歩くことに似ている。
代わり映えのない景色の中、ひたすらに歩き続ける。ふと振り返れば地平線の果てまで伸びる己の足跡。生涯というものの果てしなさを思う。
娘のラミは家畜の世話を仕事とした。
村には8頭のゴーがいて。毛を刈ったりミルクを搾ったり、雪を運ばせたり、大のこぎりを引かせて大木を伐り倒したりもする。
他にニワトリを育て、温室には大きな生簀を設置して魚やカワエビを飼う。ラミは家畜たちの変化によく気づき、病気になれば母の薬草園を頼りとした。
その弟、息子のバリオは言わば探検家であった。
抜群の方向感覚を持ち、山々を歩き回って詳細な地図を作った。山を2つ越えたところには温泉の湧き出す場所があり、硫黄や硫酸、顔料となる岩石などを採取できるようになった。背丈はいつの間にか父のバウルを越えており、大きな弓を背負って狩猟にも出かけた。このあたりには小動物が息づいており、一度はマダラグマの深冬眠個体をも仕留めた。
カコモモは村をますます豊かにしていた。
何枚もの絨毯やタペストリを織りあげ、薬草園は二棟になって50以上の草花を育てた。たくさんのタイルを焼いて村を飾った。公園には新しいベンチや花壇。さすがにまだ花は植えられないが、レンガで円形に作られた花壇は美しく上品で、いつかの芽吹きを予感させた。
特に村の自慢となるものが公衆浴場だった。村の外れに大きな二階建ての建物を作り、池のように大きな風呂になみなみと湯が満たされる。2階は集会場になっており、ゆくゆくは村の人々の憩いの場にしたいと言っていた。カコモモの描いた大きな風景画が何枚も飾られていた。
「母さんすごいよなあ、ホントにこんなの作っちゃうんだから」
「母さんだけじゃないよーだ。燃料は私のゴーたちが集めてくるんだからね。バリオじゃ黒槍樹を倒せないでしょ」
池の中央には将来的には仕切りを置く予定とされているが、今は何もない。脱衣場も二つ用意されているが、今は片方しか使われていない。バウルは湯をかけ合う子供たちを見てつぶやく。
「二人とも、だいぶ大きくなったな」
「なんだよ父さん、毎日見てるだろ」
「そうそう」
ラミは湯船の周囲を泳ぎ始めた。湯船の湯量はおよそ2400リットル。すべて雪を溶かしたものだが、これだけの量を調達することがまず並大抵のことではなく、燃料も膨大なものになる。それでも、バウルの隣にいる人物は浴場の維持にこだわった。
「二人ともほんとに立派になったね。そうでしょ、バウル」
「ああ、そうだな……」
バウルは己の指を見る。大工仕事で骨が太くなり、節くれだってひび割れた指。冬守りとしての勲章の指であろうか。
だがカコモモの肌は絹のようで、滑らかさに一点の瑕疵もない。一家の中で誰よりも長く働いているのはカコモモなのに。彼女には労働による摩滅が起きていない。
カコモモは村にある六つの温室を管理し、作物の種まきから収穫までのすべてに携わり、一家四人の衣食のすべてを用意している。この浴場もだ。隅々までカコモモの気配りが生きている。石鹸であるとか化粧品であるとか、木桶や椅子も自作、驚くべきことに青銅を磨いた鏡までも作り、それは脱衣場に備え付けてあった。
「ねえバウル、2階に行かない?」
「ああ……」
四人は湯船から上がり、ふわりとした綿のタオルで水気を取る。布だけなら長い冬でも手に入る繊維はあるが、カコモモは絶対に綿のタオルでなければ駄目だと言い、温室で綿花を育てていた。
脱衣場にて、ふと浴場を振り返る。湯気で満たされた温かい空間。分厚い板と二重のガラスで囲まれたそこは結界のよう。この世の豊かさのすべてがあの場所にあるような気がした。
だが、いくら保温に気を使った作りとはいえ、明日には湯は冷めきっている。水は毎日沸かされ、7日に一度はすべて入れ替えている。
4人が入浴するためだけの用意である。恐ろしいまでの贅沢には違いない。たとえ冬守りが10人いる村でも不可能だろう。この公衆浴場はカコモモという人間の行動力と活力と、慈愛と献身と、そして欲望とエゴイズムの象徴のように思われた。
子どもたちはめいめいの仕事を片付けに行き、バウルとその妻は二階に行く。そしてしばらくの間を愛に費やす。
カコモモは何一つ変わらず、常に家族全員に愛を注いでいる。バウルへの愛もまったく陰る兆候はなく、ますます強まるようにも思われた。
そこに一点の曇りもなく、疑うこともできず。
それでも、心の霧は晴れることはなく。
※
解読のペースは上がらないが、特定された単語は確かに増え続けていた。
「舞姫の月15日、イルシークスの村にて歓待を受ける。いくつかの手紙を頼まれるが、持っていけそうなものは一つもなかった……古いワイン……とても……にて火の星の位置を知る……」
まず前提として、この日記はすべて同じ人間によって書かれているようだ。筆跡にまったく揺れがない。
行動としては各地の村や街を巡り、そこがどんな様子か、農産物は豊作か、新しい橋や道ができていないかを調べる。その情報だけを持って別の村に行く。
農産物の情報は行商人などに売ることができ、それとは別に人々の仕事を手伝ったりもする。まき割りをしたり商店の店員をしたり、遠く離れた村へ手紙を頼まれたり。
最低限の路銀が溜まると土地を離れ、また旅の身の上となる。橋の下で眠り、なるべく高い場所で星を観測する。つまりはそれが、雪惑いという人々の生き方らしい。
星を観測するのは方向を知るためと、正確な暦を得るためのようだ。季節感であるとか、歳月の感覚が遠くなっている冬守りにとって、今が夏なのか冬なのか、何月なのかというのはあまり意識されない。
「几帳面に日付を数えてる……食べたものとか、見たものとか、だいぶ詳しく書くんだな……」
日々の行動はおおむね追えるようになってきたが、日記の最初と最後。これはまだ読めない。
似たような記述の日記とは違い、最初と最後にしか登場しない単語が多いためだ。日記の書き手が旅に出るまでの物語。そして、この村に来てから何があったのかの記録。重要な部分は解読が進まない。
ふと、外が暗くなった。月が沈み、雪明りが薄れたためか。
バウルはカンテラを持って大工小屋を出る。今日も特定できた単語はなかった。
まだ解読を続けられることが不思議でもあった。あの日記に、何かしらの証拠が記されてるとは限らないのに。
日々は長く、焦る気持ちは久しくなって。
それでも読み続けている。雪原を歩くように。
※
「父さん、村があったよ」
バリオがその報告をもたらしたのは、さらに数年後のことだった。
「ここから北に15キロと少し。雪はそれほど深くないから、ゴーに乗れば1日で行けるよ」
「あったのか、村の名前は」
「セズエル。村の入り口に碑があったよ。村は荒れ果てていて、死体はたぶん五人ぶん。骨だけが散乱してた。いちおう埋めてきたよ」
セズエル。そんな名前だっただろうか。バウルは何度か村の名前を思い出そうとしたが、そのたびに違う響きが思い出されて、これと定めることができなかった。
「……待ってくれバリオ。北にたったの15キロだって? 俺はこの村に来るとき5日も歩き回ったんだぞ」
「そりゃあ、ここは街道から外れた村だからね。たぶん昔は猟師とか山菜採りの村だったんだ。ふつうに歩き回ってたら見つけられない村だよ。神様のお導きだね」
バリオは旅を重ねるごとにたくましくなったが、外見はあどけない少年の匂いを残していた。自分が父親だからそう見えるのか、と何となく思う。
「どうする父さん。村に行きたいなら案内するよ。持って帰りたいものもあるんじゃないの」
「村は荒らされてなかったか」
「荒らされてたというか、ちょっと調べた限りではほとんど何も残ってなかった。食糧庫は空っぽだったし、食器も家畜も、炭置き小屋も空っぽだった。魔法の本もなかったな。そこまでよく探したわけじゃないけど」
そういう噂を思い出す。冬守りのいなくなった村は、王都からの役人がすべてを持ち去ってしまうと。
その村はもはや人の住む土地ではなくなり、魔法の本に入った人々は王都のそばに作られた居留地で目覚め、そこで春を迎えるのだと。
持ち去った誰かが王都の役人だとして、骨を埋葬しなかったのだろうか。この永い冬において、人の屍など石と同じ価値しかないのか。
「村か……セズエル、そうか、そんな名前だったか……」
行けば何か分かるだろうか。
分かるはずもない。村を襲った何者かの痕跡など残っているはずもない。
だが、それでも行かないという選択肢は無かった。何かしらの義務か、それとも責任か、バウルは息子とともにゴーに騎乗し、半日かけてセズエルの村に向かう。
着いてみれば、やはり思い出すことは多かった。見覚えのある家。よく駆け回った小道。生まれ育った家に気づいた時は、胸にこみ上げるものを感じた。このあたりの雪は暖かい時期には流れてしまうのか、ほとんど積もってはいない。
「父さん」
バリオが言う。彼は父親よりも上手くゴーを乗りこなす。ほとんど頭の位置が変わらない静かな歩みで父に並ぶ。
「僕はここを守ろうかと思ってるんだ」
「何だって……?」
「建物はまだ使える。炭焼き窯もあるし温室は少し修理すれば使える。この村はまだ建て直せると思う。ここは父さんたちの村よりも降雪が少ないから、水の確保が大変そうだけど」
「魔法の本はもう無いんだぞ」
「王都の役人に回収されるって話だよね。でも村があるなら、冬が明けた後に王都まで取りに行けばいいよ。きっと返してもらえる」
「お前一人でやるのか」
「このあたりは街道沿いだからきっと人が来るよ。赤の信号旗を出しておく。そのうちお嫁さんも見つかるかもしれない」
「そうか……」
バウルは感慨深げに息子を見る。しっかりした人物だとは思っているが、父親の目で見ればまだ幼くも思えた。独り立ちすることに不安もあるし、心配でもある。だが止めるべきではないと感じた。
ゴーを少し歩ませ、バリオはそれについてくる。涙がこみ上げるのが分かった。息子に見られまいとして話をそらす。
「……そういえば、母さんの村というのも見つけてやりたいな。確か、がけ崩れで食糧庫が埋まったから冬守りがバラバラに逃げたんだったな」
「ああ、その話」
バリオは少し困ったように、ゴーの上で肩をすくめる。
「それ嘘だよ」
バリオとしては何でもないことのように、軽く流したい話だったのかも知れない。並走していたゴーを少し進ませる。
だからその瞬間、父がどんな顔をしたのか見ることはなかった。
「嘘だと?」
「うん、母さんってこう言ってたでしょう? 村の食糧庫ががけ崩れで潰れちゃって、冬守りたちはバラバラの方向に助けを求めたって」
「ああ」
「なんでバラバラに行くの? 一人で雪の中を歩き回るのは危険なのに。街道沿いには街灯の名残が埋まってるんだから、固まっててもどこかの街には着けるよ」
「……全滅を避けたかったんじゃないのか。一人だけでも生き残ることを目指した」
「そうかも知れないね。でも母さん、前の村の話とか、家族のこととか何も話さないでしょ。僕が聞いてもよく覚えてないとしか言わないんだ。おかしいよね、あんなに家族思いの母さんなのに、前の村にはまるで愛着がないみたい」
それに、と指を立てて言う。
「村はもう10人か20人を養えるぐらいの力はあるのに、元いた村の冬守りを探す気配もないからね。あの宝石も変でしょ」
「宝石?」
「母さんの宝石のコレクション。あんな大きな宝石箱を持って2週間も雪の中を歩き回るなんて不自然だよ。きっと母さんのいた村は、僕たちの村から歩いて数日ってところだと思う。何か事情があって村を出たんだよ」
バリオは母のいない場所でそこまで語ってしまうことにためらいもあったが、一度始めた話ならば最後まで語らないのも不自然だった。母に申し訳ない気持ちを抱きつつも先を続ける。
「村で、その、諍いごとがあったとか、事情があって村にいづらくなったとかね。あの宝石箱は母さんのものだと信じたいけど、ちょっとなあ」
「何か変なのか」
「ええっと、いや、指のサイズだよ、母さんのと全然違う。先祖代々のコレクションというなら不自然じゃないけど、割と最近のデザインだからね。永い冬に入る直前、王都のほうで生まれた二重編みのデザインだよ、本で見たんだ」
「あの宝石は母さんの持ち物じゃないってことか」
「まあ、ええと、ごめん、ここまで話すつもりじゃなかったんだ。冬守りにはいろいろ事情があるんだろ? 母さんもそりゃあ、いろいろあって命がけで旅に出たのさ。干し肉よりは宝石のほうが命をつなぐ可能性がある。そう考える人だっているだろうし……」
「バリオ」
呼び止める。やや先を進んでいた息子は、ばつの悪そうな顔でゴーを反転させる。
「俺の村を襲った狼、それが母さんだと言いたいのか」
言われて、バリオはしばし硬直して。
そして金縛りが解けると両手を激しく動かす。
「え!? いやまさか、そんなわけないよ! 母さんがそんなことできる人なわけないよ!」
「当たり前だ」
まなじりに力を込めて息子を見る。息子はたくましく成長していたが、この時ばかりはごく幼い頃に戻ったかのような弱り顔を見せた。
「その話は二度とするな」
「わ、わかったよ」
「この村の冬守りになりたいならなるといい。村を出るならラミを連れて行け。赤い信号旗を立てて人を呼ぶんだ。何年も待てばきっと誰かが来る」
「うん」
二人は家に帰ると、家族全員を交えて今後のことを話し合う。半年がかりで何度も2つの村を往復し、最低限の物資を移動させると、バリオとラミは巣立っていった。
「また二人きりになったね」
とカコモモが言い、寝台の中でぎゅっとしがみつく。
「ゴーで半日の距離だ、何度だって帰ってこれる。行商人が来たら、こっちの村にも寄ってくれるように頼むらしい」
「うん、でも寂しいわけじゃないの。二人とも立派に育ったし、きっとバウルの村を立て直してくれる。それが誇らしくて、幸せで、満ち足りてるの。幸せがたくさん乗っかって、身体が重たくなるような気がするの」
「そうか」
カコモモはまだ若々しく、幸せを受け止める感性もバウルよりずっと多く思えた。指の先まで蜜が詰まるような肉体と、心臓が火でできているかのような熱。
二人はしばらく抱き合って、やがてカコモモが眠りにつくと、バウルは己の部屋に戻る。寝室は共有されていない。昔からずっとそうだった。
バウルはコートを着込んで雪の中に出てゆく。霜に覆われた土をざくざくと踏みしめ、大工仕事の小屋へ。
窓からは明かりがさしていた。月がすべての雪を白く染めている。静かで風もなく、空気中のチリの動きがゆっくりに見える。そのような夜は不変とか、永遠という概念に似ていた。
バウルは黒革張りの本を開く。その記述に指を這わせ、一つずつ目に刻み込む。気になった文章を書き写し、似たものがどこかにないか探す。
読まねばならない。
その衝動が確かにある。何十年経っても、これだけは続けねばならないと。
これを読み終わるときが、きっと、幸福なこの村の終わりになるのだと。そんな予感を抱きながら、なおも読み続けて――。




