第四十三話
※
まずは村にあるものを確認する。
食料庫らしきものは一つ。当面というに十分な食料はあったが、自給自足は急務だった。
「温室はあるんですけど、燃料が置いてないみたいです」
カコモモも村を調べていたらしい。温室にある大型のストーブは配管が工夫されており、炭さえ入れればすぐに使えそうだった。だが村の倉庫にはわずかな炭しかない。
「炭焼き小屋があるはずなんです。山の上とかかも知れません。一緒に探しましょうか」
提案を受けて、バウルは村の外に目を向ける。
周囲は黒槍樹ではない冬枯れの森。枝葉はすっかり落ちており、膝の高さまで雪が積もっている。遠い山並みは靄がかかっていて見えない。
あまりにも単調な景色であり、もし村が見えなくなったら、その場で一切の方向感覚を失うのではないか、そんな予感がある。
「……小屋があっても炭の蓄えがあるか分かんないしな。それよりは俺たちで作るか」
「そうですね。やってみましょう」
鉄の鍋があったのでそれを使う。方法はおそろしく簡単なもので、まず鍋に棒状の木材を詰め、次に焚き火を行う。焚き火は石で囲って簡易的なかまどを作り、そして木材を詰めた鍋を乗せるだけだ。鍋には同じく鉄の蓋がかぶせてあり、少しずらして隙間を作っている。しばらく経つと白い煙が出てきた。
「木材に土をかぶせて焼く方法とか、簡単な窯を作る方法もあるんだよな。そういう本ってどこかになかったか」
「白い建物にあったと思います。あとで探しましょうね」
カコモモは柔らかそうな藍色の長衣に着替えていた。細かなドレープのついた厚手のもので、しっかりとした重量感がある。カコモモが動くと万緑の樹のように服が揺れて見える。
「バウルさん、名前はどうしましょう」
「名前?」
「この村の名前です。名前がないと不便ですよ」
そうだろうか。という言葉がまず浮かぶ。
バウルの過ごしていた村は他の村と交流がなく、自分たちの村以外にも世界がある、という概念はぼんやりとしか存在しなかった。村の名前を口に出した記憶がない。
そもそも、バウルが元いた村の名前は何だったろうか。
「あれ……」
セヴァール、セルヴァル、セーザール、そんな名前だった気がするが思い出せない。大人たちの会話の中でも村の名前は出てこなかった。
それは川底に光る美しい石に似ていた。今すぐ拾い上げなければ、きっと二度と見つかることはない。
「……この村の本来の名前があるだろう。どこかに記録があるんじゃないか」
「でも、今は私たちだけなんですから、私たちが名前をつけてもいいと思います」
火の前に二人でうずくまる。前方からの熱気で顔がひりひりと痛む。煙の匂いが鼻につく。
カコモモは丸い瞳をくるくると光らせて言う。
「バウルさんが決めてください。バウルさんに決めて欲しいんです」
「いま思いつかない……あとで考える」
「駄目です。こういうのはじっくり考えちゃ駄目なんです。何でもいいから言ってください」
腕を取られる。バウルはなぜそんなに急ぐのかと混乱しながらも、何かないかと考える。
記憶の箱を探るとき、それは必然的に生まれ育った村のこととなる。だがやはり村の名前は思い出せない。自分以外の5人の冬守りのことしか。
「……メルモナ」
「メルモナ? 「忘れない」という意味の言葉ですね。ずいぶん古い言い方ですけど」
「前の村に詩の好きなおじさんがいて……教えてもらった詩の中にそういう言葉があったんだ」
「いい名前です! それにしましょう!」
忘れない。
名前を持ったからだろうか。この村がはっきりと輪郭を持ったような気がする。
この村はもう廃村ではないし廃墟でもない。自分とカコモモという、二人の冬守りが守る村なのだと認識する。
「……頑張ろうな」
「あっ、バウルさん、やる気が出てきたんですね。えへへ、名前をつけると冬守りなんだーって実感わくでしょう?」
「ああ、頑張るよ。この村はなかなか環境も良さそうだし……少し暖かく感じるし」
煙が細くたなびいて伸びる。今日は風もなく、空は穏やかである。
土地によっては雪が一年中溶けずに積もり続けるとも聞くが、比較的暖かい土地では雪が溶けては積もりを繰り返し、土をびしゃびしゃに濡らすとも聞く。
その差はなぜ起きるのか知らない。気候の具合なのか、温泉地ならば地熱もあるのか。
カコモモの服も、分厚くしっかりした布地ではあるが、襟元がやや大きく開いており、バウルの感覚から言うと少し寒そうな服装である。足は木靴であり、くるぶしは露出している。カコモモは大して気にしてないようだ。
(そうだよな、さっきも体を拭こうとしてたとか言ってたけど、俺のいた村じゃ、そういうのはストーブの効いた部屋でしか)
うっすらと冷気をまとう、玉の柔肌。
それが脳裏をかすめ、バウルは慌てて思考を打ち切った。
※
仕事はいくらでもあった。
カコモモとバウルの住む家をそれぞれ整え、隙間風が入らぬよう修繕し、薪ストーブを用意した。
村から少し離れた場所に雪の捨て場を用意した。その場所までは雪をどけ、砂利を用いて土を固めて、荷車が通りやすくする。
弓と罠をこしらえて獣を狩らねばならなかった。このあたりはまだユキシロウサギやイノシシが活動しており、罠で捕らえたイノシシを半日がかりで解体した。肉は燻製にするか、雪を詰めた樽に入れて保存する。
野草も採取する。雪をかき分けて草の芽を探し、日あたりのいい場所に咲く桜色の小さな花を摘む。村にあった野草の本と照らし合わせて食用にしたり、薬にしたりするが、万一のことを考えて最初は少量ずつ食べ、二人が同じものを食べないように気をつけた。二人しかいない状況において、同時に二人が食あたりを起こすことは命の危険があるためだ。
村の記録も調べた。この村の冬守りはなぜいなくなったのか知りたかった。だがめぼしいものは見つからない。この村の冬守りは日記をつけなかったのか、それとも持っていってしまったのか、焼き捨てたのか。
「バウルさん、部屋着を作りましたから、寝る時はこれを着てくださいね」
「そうか、ありがたい」
カコモモは倉庫にあった古い衣服などを集めて、繕い直して新しい服を仕立てていた。若草色の腰で縛る衣装であるとか、体の線に張り付くような黒っぽいドレスであるとか。
外ではその上から綿入れを羽織るのだが、バウルはなぜ頻繁に着替えるのか、最初は意味がわからなかった。お洒落をしているのだ、と気づいたのはしばらく経ってからだ。
「このあたりって行商の人とか来ないんですね」
ある日の午後、カコモモが言う。確かに、バウルの村にはたまに来ていた。ごく少人数だが、大陸西方では薬品や香辛料などを売る行商人が存在する。
「そうだな……薬が欲しいよな。何か起きたら不安だしな」
バウルのいた村に戻って取ってこれないか。それは何度か考えた。
だが不可能だった。バウルは五日も雪の中をさまよい続けてたどり着いたのだ。もとの村の方角も分からないし、道が分かったとしても命がけの旅になる。
夜には簡素な雪洞を掘って、マントにくるまって眠ったが、やや温暖な土地とはいっても骨まで凍るほどの冷たさだった。
今は火をおこすための道具もあるが、あの生死の境を彷徨った恐怖はバウルの心に刻み込まれていた。外で夜を明かすことを考えると、それだけで背骨が凍るような恐ろしさがある。
五日。
その言葉が、ふいに耳に引っかかるような気がした。何か、その言葉をどこかで聞いたような。
ーーほんの五日前ぐらいですよ。
(……!)
カコモモはそう言っていた。最初に出会った日に、聞いたことだ。五日前にこの村に流れ着いたと。
(偶然と言うには、あまりにも日付が近すぎるような……)
「大丈夫ですよバウルさん」
肩を揺すられ、ふと我に返る。カコモモは丸っこい顔で朗らかに笑っている。
「私、薬草のこととか調べます。雪の下にはたくさんの野草があるそうです。それに、土の下には種が凍ったまま保存されてるそうですよ。いつか春が来るまで何十年も眠り続けるらしいです。そういう土を温室に撒くと、いろいろな野草が芽吹いてくるそうです」
そのような薬草園はバウルの村にもあった。薬草は村の女性が管理して、腹を下した時とか、熱を出したときなどに飲まされた記憶がある。
「……そう、だな。じゃあそのへんのことは任せる。温室もそろそろ動かさないとな」
「はい! えへへ、ここの温室ってけっこう広くて立派ですよね」
偶然に決まっている。
自分は何を考えているのか。己の考えに心の中で失笑を漏らす。
カコモモが、バウルの村を襲った狼であるなどと。
(ありえない……カコモモはただの女の子だ)
(それに、そうだ、会った日の五日前に村に来ていたということは、俺の村が襲われた日にはここに着いていたことになる)
(さんざん迷ったとはいえ、五日も歩き通しだったんだ。俺の村から一日で着ける距離とは思えない)
カコモモはあごに指を当て、ふらふらと揺れながら考えごとをしていた。やがてぱっちりと目を開ける。
「あ、でも行商人さんが来たときのためのご用意はしておきましょうね。バウルさんは買いたいものとかありますか?」
「そうだな……砂糖の蓄えがあまりないからそれを。あとは靴だな。本当は自分でこしらえなきゃいけないんだが……」
そこで、ふと首をかしげる。
「だけど支払う対価がないだろう。俺も銀貨は持ってないし」
「大丈夫です!」
どんと胸を叩き、カコモモが戸棚から箱を持ってくる。
「えへへ、じゃーん」
木彫の箱である。大きめの猫が入りそうなほど大きい。箱を開けると中の他段底がスライドして階段状になる。
そこにあったのは宝飾品である。翡翠の首飾り。金の指輪。貝殻で作られた耳飾り。いくつか宝石の粒もある。
「前の村を出るときにお母さんが持たせてくれたんです。ちょっとしたもんでしょ」
バウルは。
一度息を吸ってから、低い声で言う。
「ああ、すごい……コレクションだね」
「えへへ、ほめられました」
バウルの目は一点を凝視している。
翡翠の首飾り。その深い緑の輝きに。
※
深夜。バウルは村の中央。白い建物に来ていた。
結局のところこの建物が何なのかよく分かっていない。集会所というのは広い部屋が一つだけの建物なのでそう呼んでいるだけだ。高価そうな絨毯が敷いてあるが人が住んでいる気配はなく、何かの宗教的な施設にしてはあまりにも飾りがない。
カンテラを掲げる。絨毯にはまだ黒いシミが残っている。それは永遠に消えない黒さ。何かがそこに永遠に刻み込まれた黒なのだと思われた。
「あの翡翠の首飾り……」
似ている。バウルの母が持っていたものと。
母がそれを身につけることはなかった。ただ時おり宝石箱を開けて、愛おしそうに眺めるだけだ。母にとっては何か思い出のこもった品なのだろう。バウルは母のひざに座って、翡翠を愛でる母の顔を仰ぎ見ていた記憶がある。
だがまったく同じものと言えるだろうか。最後に首飾りを見たのはいつだったか思い出せない。
それに、狼が宝飾品を奪った話はカコモモにも語ったはずだ。もしあの翡翠がバウルの母の物なら、カコモモが村の冬守りたちを殺して奪ったものなら、それを見せたりするだろうか。
「それに、カコモモが五人の冬守りを殺した……?」
一人か二人なら隙を付けば可能だろう。だが五人というのは非現実的に思える。彼女は腕っぷしがあるようにも見えなかった。
全身の骨を砕かれた死体を思い出す。思い出すことは苦痛を伴う。吐き気をこらえ、それでも思い出そうとする。
あの狂気そのもののような破壊、女の腕で可能なのだろうか。
「分からない。あの女、何者なんだ、本当に何も関係ないのか……?」
そして、この村は。
この村にはなぜ冬守りがいないのか。なぜ赤い旗だけが残っていたのか。
「……あの本に、何かが」
積み上げられた本の一番底。黒革張りの大きめの本を抜き出す。
中には線が踊っている。バウルには解読不可能な速記文字のようなもの。連綿と繋がれるインクの線は、読まれる日を夢見る願いの重さにも思えた。
「雪惑い、この村にいたのか? そして、何かを書き残した……」
解読せねばならない。
必ず何か。重要なことが記されている。そんな直感がある。
バウルはカンテラを脇に置く。カコモモが気はしないかと神経を尖らせながら、一枚ずつページをめくってゆく。
そういえば、この村の名前は何といっただろうか。
ふと気になったが、思い出せない。バウルとカコモモの間で村の名前が呼ばれることはなく、行商人も来ない街では誰かに語ることもない。
その名をつけてから3ヶ月あまり。
その名前は川底に見えた宝石のようだった。激流の日々の中で失われ、そして二度と見つかることなくーー。




