第四十二話
大陸西方。
かつて商熱の極まりし爛熟の時代。街道が整備され馬車の絶えることはなく、商人の啖呵売の聞こえぬ場所はなかった。
絢爛豪華なる宝飾品、刀剣に機械細工、遠く大陸の外から持ち込まれる香辛料や珍しい果物。そして時には怪しげな薬、王都や貴族たちの噂話、人間そのものすら売り買いされていた時代。それを混沌と呼ぶものもいれば、極彩色の時代と記憶するものもいた。
それらのすべて絶えて久しく。
雪はすべてを覆い隠す。砂利と赤土をつき固めた街道も、農地を囲むウサギよけの石積みも。
だが失われないものもある。雪から突き出したガス燈。十数キロおきに存在する旅籠街の二階屋。かつて街道を警護する役人が詰めていた屯所なども。
男は足を速めていた。
雪から突き出すガス燈の残骸を頼りに、ひたすらに先を急ぐ。
青年である。年は14、5というところか。雪の照り返しで赤く焼けた顔、雪を歩く足取りはおぼつかない。引き抜く足がダマになった雪を跳ね上げている。
もう五日も雪の世界を歩き回っている。青年は腰に吊った物入れを何度も確認するが、パンくずひとつ見つからない。二日前に雪の下にあるハクシキスミレを食べたきりである。それでも力強く歩けるのは若さゆえの馬力というべきか、それとも肉体が生命の危機を感じ、残った力を振り絞ろうとしているためか。
「生き残ってる村は、ないのか」
あるいはせめて食べ物がないものか。雪の上にネズミやキツネの足跡はないか。雪にくちばしを突き立てて餌を探している鳥はいないか。目を皿のようにして探している。
「くそ、誰かいないか。誰でもいいんだ。このさい雪惑いか、越冬官か、商人でも」
赤い点。
それに気づいたのは偶然だった。苛立ちまぎれに頭を激しく振った瞬間、目の端に入ってきたのだ。
「……あれは」
あたりは森に近くなっている。冬枯れの木がまばらに立っているが、黒槍樹ではない、化石のように変化のない針葉樹の林である。その向こうに赤い点が見える。
「あれって、たしか、信号旗」
赤い旗、村に人が不足していることを示す旗である。
青年は駆け出していた。雪に足を取られながらも懸命に。やがて旗がはっきりと視認できる距離まで来る。
「……人はいるのかな」
建物はそれなりに多く、そのうち二十ほどが一か所に集まっている。周囲にはウサギよけの石積みがあるから農業の村だったのだろうか。腰の高さほどしかないが、かつてはこの高さで十分だったらしい。
ひときわ大きな建物の上に旗竿が突き出ており、赤い旗が揺らめいている。かなり激しくはためいているから、おそらく1年のうちには折れてしまうだろう。だからごく最近、立てられた旗竿に違いない、そんな手前勝手な推理を行う。
「誰かいないのか」
食糧庫が見つかった。古びた大樽がずらりと並んでいる。麻袋に入った塩や、薬草を束ねて乾燥させたもの。木の箱に入ったものはなんと葉巻である。
ガラス容器に入った魚のオイル漬けを見つけた。たまらず、それを手でつかんで食べる。油と塩の風味がきついが、間違いなく食べられるものだと唇が教えてくれる。
柔らかくなっていた骨までばりばりと噛み砕く。大樽に入っていたレンズ豆、石のように硬いビスケットも。
だがさすがに満腹になるまで食べることはしなかった。それは冬に生きる人間としてあまりにも常識を踏み越えている。
こぼれたオイルを服の袖で拭いて、また人を探す。
「狩りにでも出てるのか、それとも離れた場所に温室とか、炭焼き小屋でもあるのか……?」
村のほとんどの建物は木造だったが、一つだけ白い石造りの建物が見えていた。そこに向かう。
それは集会所のようだったが、中を見ると物置にされていた。がらくたやら木材やらが山と積まれている。
足も疲れていたので、ひとまず中で休む。
すると、床にある黒い染みに気付いた。
集会所の床は石造りであり、そこにゴーの毛で織られた絨毯が敷かれている。そこにくろぐろと大きなシミがある。大きさは青年がシミの中で大の字になれるぐらいだろうか。
「これ……何だろう。油でもこぼしたのかな。この黒っぽい染みは」
瞬間。弾かれたように振り向く。
「あっ」
目に飛び込んできたのは桃色の肌。単調な色の時代においてあまりにも鮮やかな人間の色。糸ひとすじも纏わぬ女の肌。
その女は錆びついたナイフを持って硬直している。目には怯えとも恐れとも言えない色があり、男を見て目を白黒させる。
「だ、誰ですか、泥棒? それとも狼」
「待て、落ち着け、俺はその、あれ、なんて言うんだっけ、だからその」
赤い旗。女の後ろに旗竿が見える。
「あの赤い旗! この村はあれだろ、村人を求めてんだろ!」
「あっ」
と、包丁を背後に回す。
「えへへ、そうでしたか、旗を見て来てくれた方なんですね。あ、すいませんこんな格好で。いま、体を拭こうとしてたところでした」
ごく、とつばを飲み込む。このような時代、人間が生涯に出会う女性というのはたかが知れてるが、目の前の女はそのどれとも比較にならぬほど美しかった。美人というよりは柔らかく官能的。筆をうねらせて描くような体の線と、肌に張りがあるのに猫のように柔らかな印象、腰はくびれているのに、体のあちこちが暴力的なほどせり出している。はにかむ笑顔にも艶があった。日に焼けた髪はわずかに赤みを帯びていて、瞳までも赤が入っている。
「あの、お名前はなんと言われますか?」
「え、ああ、バウル」
「バウル、野性味のあるお名前ですね。私はカコモモです。えへへ」
照れているのか何なのか、包丁を背中に隠したままで笑っている。むろんそうすると前側はまったく隠れていないのだが、カコモモは後ろを向く気配すらない、片足をもう片方の足に絡めてぷらぷらと動かす。
「あの、えっと、何か着てくれないか」
「あっ! 失礼しました! そうですよね男と女ですものね」
ようやく、後ろ向きに建物を出ていく。
「私、緑の造花が植えてある建物にいますから、少し経ってから来てください」
そして取り残される、男ひとり。
「カコモモ……なんだか変な子だけど、この村の冬守りなのかな、じゃあ仲良くやってかないと……」
何となく入り口と反対側を向く。建物の奥にあるものをしばらく観察してみる。
色々なものが積み上げてあるが、多くは建物の補修用らしい。大半は様々な形に切られた木材。大工道具に大ぶりなロープ。日干しレンガに金属缶にいっぱいの釘もある。それに大工仕事に関する本なども置いてあった。
「建物の補修が冬守りの仕事なんだよな。やったことねえけど、俺も頑張らないと……」
ふと。
積み上げた本の一冊が目に留まる。
黒い革張りの装丁。他のより一回り大きく、積み上げた本の一番下にある。
違和感があったのはその黒革の艷やかさだ。他の本はほこりをかぶっているのに、はみ出している部分が濡れたように黒いままだ。
「?」
引き抜いてみる。やはりずっしりと重い。辞典かと思ったが表紙にも背表紙にも何も書かれていない。
開いてみれば、意味不明な記号である。
「なんだこりゃ」
万年筆で書かれているようだが、判読できる文字が一つもない。それだけではなく一行がひとつながりの線であったりする。だがそのカーブや、ペン先をしならせる鋭角な部分には意図を感じる。適当に書いたものでないのは明らかだ。
簡単な図や、植物や動物のスケッチも時おり見られる。だが付記されてる文字はやはり読めない。
だが、読めない、ということ自体が、ある一つの言葉を連想させた。
「……これ、雪惑いの日記」
大陸西方を旅する人々。彼らにしか読めない速記文字で日記をつけ、街から街を渡り歩いて情報のみを売り買いする旅人。
おとぎ話かと思っていた。このように日記を前にしても現実感が沸かない。この読めない日記も含めて、白昼夢の一部かとすら思える。
それに、第一。
この日記をつけた、雪惑いはどこに。
「……変なの」
※
「実は私も赤い旗を見つけて来たんです」
テーブルの上で、皿が湯気を立てている。
麦を柔らかく煮た粥である。雪を詰めた樽に保存されていた青菜と、そぎ切りにしたハムが入っている。カコモモが用意したものだ。
先ほど少し食べたせいか胃が活性化していた。バウルは大きめの皿でそれにがっつく。
「私の村って洞窟を貯蔵庫にしてたんですけど、崖崩れが起きて埋まっちゃって、何人かいた冬守りはそれぞれバラバラの方角に助けを求めたんです。2週間ぐらい雪の中を歩き回って、ようやくこの村に着いたんですけど、誰もいなかったんです」
「あんたもか……」
バウルは地図を持っておらず、自分の村以外の知識もなかった。だからこの場所が大陸のどのあたりで、どんな地名なのか知らない。ただ、自分が元いた場所からかなり離れていることは分かる。
「この村にはいつからいたんだ?」
「ほんの五日前ぐらいですよ。まだ村の設備とか把握できてなくて、温室もあるんですけどストーブが壊れてるし土は凍りついてるし、炭焼き小屋がどこかにあると思うんですけど、山を歩くの怖くって」
カコモモが住居にしていた家には暖炉があるが、黒槍樹の薪ではなく補修用の板材のようだ。黒槍樹を薪として燃やすには短冊状に切らねばならず、銅のように硬いために加工に大変な手間がかかる。
「バウルさんはどうしてここへ?」
「ああ、村が、狼にやられたんだ」
カコモモの匙が止まる。驚きの色と、迂闊なことを聞いてしまったかと危ぶむ顔だ。
「あの、獣のほうですか、それとも」
「無法者だ。俺の村には、俺を入れて6人ほどの冬守りがいた。男手もいたんだが……」
父親は、狼が近くに潜んでいることに気づいていた。建物の窓をふさぎ、村人の使わない通路には獣用の罠を仕掛けていた。だが、それも結局は役に立たなかったようだ。
「狼にもいろいろいるらしい。単に身を潜めたいやつ。村に居座って冬守りたちを奴隷のように扱うやつ。金目の物を集めてるやつ。殺すことを楽しむやつもいるらしい」
カコモモが顔をこわばらせるのが分かったが、最初にすべて言っておくべきだと思われた。何より、それはバウルにとってまだ極彩色のまま焼き付いた記憶。記憶そのものが衝動性を帯びていた。頭蓋をこじあけ、外に出ていこうとする衝動が。
「俺が森で薪を拾っていると、村の方から叫び声が聞こえた気がした。急いで戻ると冬守りはすべて殺されていた。俺の両親も、炭焼きや石工のおじさんも、キルトが得意だったおばさんも」
母は、冬守りには珍しくたくさんの宝飾品を持っていた。元をたどればバウルの家は村長を務めていたらしく、村を守るという責任感から冬守りになった家だという。
それらの宝飾品はすべて奪われていた。食糧庫の食べ物には手を付けていなかったから、荷物を運べるような集団だったわけでもなく、村に居座るつもりでもなかったのだろう。バウルはそんな推測を述べる。
「死体はひどいありさまだった。首を掻っ切られていたり、手足の腱を切られてたり、体中の骨を砕かれてたり……。襲われたのは昼間だったから、他の冬守りが気づかないはずがない。賊は5人の冬守りたちをあっけなく殺してのけたんだ。それも、一人で」
「……恐ろしい、お話ですね」
「この村も、狼に襲われたのかな……あまり、荒らされてないみたいだけど」
冬守りがいなくなることは珍しいことではないという。
狼の他にも脅威は多い。天災のため、病のため、または冬守りとしての責務を果たすことに疲れ果てたために。
どこか別の村に合流するものもいれば、すべてをそのままうち捨てて、煙のように消えてしまう者もいる。彼らは誰に何を語ることもなく、ただ無限の時間という風の中でかき消えてしまう。
「バウルさん」
カコモモが隣に来ていた。椅子に浅く座った彼女と膝頭が触れ合う。
「この村を一緒に守っていきませんか。さいわい、食べるものもありますし、男の方がいれば、できることも増えると思うんです」
「ああ、そうだな……もともと行くところもなかったし、ここにいさせてもらうしか、ないんだが……」
「よかった」
抱きしめられる。驚くほど熱いと感じる。カコモモが女だからだろうか。それとも自分の体が冷え切っていたためか。
あの本。
脳裏に浮かぶのは、あの黒革張りの本である。
なぜそんなに気になるのだろう。雪惑いなど会ったこともないし、以前の村にいた冬守りは存在すら信じていなかった。おとぎ話の住人であると。
(それにどうせ、読めもしない……)
それよりは、今の自分たちのことを考えるべきだろう。食料があるとはいえ、永い冬において備えが十分ということはほとんど起こらない。
バウルは明日からの事を考えた。まずは村に何があるのかを調べて、黒槍樹を伐り出して、野生のゴーを探す必要もあるかも知れない。ゴーの毛で編まれた絨毯があるのだから、かつては村で飼っていたとしても不思議はない。
ーーそしてあの本を。
脳裏に浮かびかけたその本を、目をきつく閉じて打ち消した。




