第四十一話
旅人は言う。
永き冬の時代。雪を歩くのに必要なものは果敢さであると。
雪を歩くことは道を歩くことにあらず。雪を打ち破り、かき分け、屈服させていく戦いの連続であると言う。
雪は真綿のように柔らかく、水のように形がなく、泥のように足にまとわりつき、石のようにかたくなでもある。旅人は大型のかんじきをつけて雪を踏み、絶えず周りの景色を確かめる。方向を見失ったり、崖の上にせり出している雪を踏めばそこで一巻の終わりになりかねない。
その旅人は緑色のフードつきコートを着ており、顔をやはり緑の布で覆っている。これ以上ないほど濃く染められた緑であり、背後の枝葉の中でそれよりも濃い。
雪目を防ぐゴーグルは分厚い黒ガラス、背面から湯気が上がっているのは懐炉の燃焼のためである。
懐炉を強めに燃やし、熱をコートの中で循環させている。きわめて高温の焼成により生み出される黒槍樹の炭は金属のように硬く、40時間以上燃え続ける。
「あっつ」
だが欠点もある。熱が強すぎて懐炉に向いてないことだ。
何重もの遮熱用の布で包んでいるが、たき火を背負うかのように熱い。
旅人はますます歩を速める。山の稜線と星明かりのみを頼りに、いくつもの街を越えてきたのだ。
「んー、このあたりに村があったはずです」
やがて立ち止まり、背骨を抜くかのように遠眼鏡を取り出す。1メートル近い大型のものだ。
「また消えてますか。雪に埋もれてたら分かんないですね」
腰には金属を革で包んだ物入れを提げている。中から取り出すのはシロップで煮込んだ干し肉。極めて甘いそれをがしがしと噛みしだく。
さらに取り出す。今度は大ぶりな本であり、中身は日記のようだった。金装飾のついた万年筆でがりがりと書き込んでいく。
干し肉がどろどろになった頃、喉を鳴らして飲み込む。
それは唇を湿らせるためでもあった。脂で照り輝いている口に指を入れ、指笛を吹く。
甲高い音。谷間に響き渡る。風に乗せるかのように長く吹く。
フードを片手でつまんで立てる。フードが周囲の音を集めて耳に届かせる。音を受けるというより、音を探す感覚を持つ。
指笛が人に聞こえる大きさで届くのはおおよそ1.35キロと言われている。空気が冷たく澄んでおり、風の音などがなく、音が反射しやすい地形であっても、あまり広いとは言えない。
だが。旅人は反応した。
「む、チリコマドリの声でございます」
遠眼鏡を向ける。西の空。芥子粒のような鳥が飛び上がって周囲を旋回している。
「あっち!」
ある種の鳥は人間が聞こえないような低音や高音を聞き取り、警戒行動を見せることがある。そして高い位置にいる鳥は上空に逃げていく音を拾いやすい。
鳥が指笛に反応したのを見たなら、それを見た人間も指笛を吹く。
そうやって鳥を仲介役とすることで半径10キロ以上でのやりとりが可能になる。
ということを一部の旅人が主張しているが、まだ厳密な検証がなされた記録はない。
かんじきをつけた足で雪をかき分け、押しのけ、踏みつけて進む。そびえ立つ黒槍樹の大木は天を支える柱のごとく。おそろしく長い時間、人も獣も踏み込まなかったであろう森を抜ければ。
「あ、ニールさん!」
見つけるのは赤い布飾りがついた鎧。塔を背負うかのような巨大な背嚢。腰にある剣の柄。
「シャルロット」
鎧の人物はそう呼び、シャルロットは手を振りながら近づく。
「ニールさん! 魚か煙草か酒かどれか持ってたらおゆずりください!」
「……相変わらずですね」
※
二人は黒槍樹の根元に簡易的なテントを張る。低い位置に来ている枝をで屋根を支えるものだ。壁となる布は雪の中では杭を打ち込む場所が無いので、なるべく深く雪に突き刺す。
「ニールさん。雪惑いシャルロットと出会いますのは何年ぶりですか」
「7年ぶりですよ」
なるほど、と頷きつつ、シャルロットは自分のノートに書き付ける。
「お酒でしたら、穀物酒が少しだけ」
「やった」
金属のカップに注がれたそれを、不老不死の薬のように敬いながら飲む。
「っはあ、生き返った。もーこのへん雪が深くてたまんないです。ももがパンパンになりますパンパンに。ニールさんはそんなでっけえの背負っててよく足が沈まないですね」
「慣れていますから」
シャルロットはコートを脱いで麻の上下になると、簡易的なテーブルを組み立て、懐炉の中の木炭をさらに増やして取っ手をつけ。おもむろにアイロンをかけ始める。
手のひらほどの俵型の容器。それはシャルロットの懐炉であり、アイロンであり調理器具であり、それ以外のあらゆる事に使える万能の道具であるという。旅人の道具はそのように多用途に使えるように進化していた。
コートにアイロンをかけ終わると、余熱で荷物の中の豆に火を通したり、雪を溶かして飲み水にしたりもする。作業は手際よく行われる。ニールはテントの中に座り、ただじっと森を見ている。
「ニールさん、それじゃ商売の話をいたします」
「はい」
シャルロットはノートを開き、ニールは己の見てきたことを語る。
「ふむふむ、人魚の棲む断崖、人形師の街、海氷のぶつかりあう海峡。なるほど」
話が一区切りつくごとに、ちゃりちゃりと銀貨を1枚ずつ置いていく。ニールの話の対価をその場で支払っているのだ。
「無くなった村はいくつですか?」
「この7年では12カ所」
ニールはその一つ一つを述べていく。村のおおよその位置、かつての地名、どんな村だったか。どのように荒廃していたか、滅びた理由は何か。冬守りはどうなったと思われるか。
銀貨が20枚積まれるごとに、それを金貨1枚と置き換えていく。
「分かりました、王都に支援要請を出しておきます」
「お願いします」
「ニールさんは有り難いお客様です。このご時世、雪惑いと商売を行ってくれる方もおりませんのです」
シャルロットの記録は箇条書きや図形ではなく、すべて文章で書かれていた。特殊な速記文字であり、ニールにも読めない。雪惑いにだけ読める文字であるという。
ニールは話す以外はまったく身じろぎもしない。ブーツを脱ぐこともなく、軽鎧を外すことも無い。そして懐炉などは何も持っておらず、冷え切っているはずの足を揉むこともない。
「王都の様子はどうですか」
「何も変わりありません。平和なものです」
王都が、国土に点在する小さな村に対してどのぐらい意識を向けているのか、それはシャルロットにも分からない。
ほぼ全ての村に魔法の本が配られたが、王都は公的にはそれを見張ることをしていない。なぜなら王都にいる権力者も、能力あるものも、財産を持つものもすべて魔法の本に入ってしまったから。
滅びた村にある魔法の本は王都が回収しているとも言われる。その中に入っている人間が、財産が、冬の終わりにどうなるのか、それは噂として語られる程度の話ではあるが。
「王都は都市部の周辺に野営地を作っております」
雪の上に図を示す。
王都を大きな丸で描き、周囲には星が散るように小さな丸を。
小さな丸を一つずつ消していき、王都の丸を囲むように、ひと回り大きな丸を描く。
「このように。大陸における人の版図は王都の周辺のみとなり、人は長い時間をかけてまた大陸に手を伸ばすのです。それがまあ、王都の方針というやつでございます」
「それぞれの村には、特産ですとか、受け継がれてきた技術があります。それが消えてしまうのは、避けたいものです」
「そうですか? そもそも魔法の本の中身に伝統的なものなどあまり見ません。金貨と家畜、宝飾品、ようするに換金性の強いものが多いですね。国民だって半分は折り込み済みのこと。冬守りを立場の弱い人に押しつけて、自分たちは王都の周辺でやり直す、それも仕方がないと思っていそうです」
「そう、ですね……悲しいことですが」
影が下りる。
どれほど話をしていたものか、気がつけば日が落ちそうになっている。太陽が森の彼方で地平線に沈む、その数十秒には明から暗へ転じるダイナミズムがあった。今この瞬間だけ、確かに時が流れている。
シャルロットは俵型の金属容器の裏面をスライドさせる。すると縦長の溝がいくつか現れ、炎の揺らめきが溝から漏れてカンテラとなる。獣脂とおがくずを混ぜた燃焼剤を入れ、火を大きくした。
「ニールさん、もう少しこちらへ」
裾を引く。ニールの顔はテントの外を向いており、光源からは顔を背けていた。
「もう少しお話いたしますか。ニールさんは歩くのが苦痛ではありませんか?」
「いえ、慣れてますから」
「そうですか。私はどうも、慣れることは無さそうです」
足をさする。アイロンをかけた靴下はじんわりと温かい。親指を押し込んで足の指に血を通す。
「旅人には才能がいるのです。長く歩ける才能。小さな変化に気づく才能、鳥の言葉を理解して、雲が飛ぶ高さの風を知る才能。そして何より、一人でいる才能」
「一人で、ですか」
「私たち雪惑いはそれを訓練で身につけます。私たちは旅に生きる一族。はるか昔、冬が訪れる前は無手の商人と言われていました。多くの街を旅して、情報のみを売り買いして生きる旅人の一族だったのです」
その時代のことは、すべて覚えている。
長大な雪惑いの日記を見たから、そのすべてが己の記憶として植え付けられたから。
「我々は旅人であり記録者、その使命のために魔法の本に入らなかった。その決意も覚悟も私の中にありますが、それはやはり、この私が、今ここにいる私が決意したものではありません。過去の雪惑いの記録なのです」
ニールは相槌を打ったのか打たないのか、その佇まいは彫像のように静かである。
「私たち雪惑いには死がないのです」
そう言って、ニールの膝の上に足を乗せる。
「なぜなら雪惑いの人格とは日記であるから。日記には自分が死んだことを記述できない。我々はただ日記だけを残して」
ニールは拒みはしない。この永い冬の時代、男女が互いを拒むという事の恐ろしさ、あり得なさを互いに知っている。拒むことは何よりも罪深いことであると知っている。
「ですが、減っている」
震える唇が、吐息を漏らす。
「他の雪惑いと出会うことが滅多になくなっている。大陸西方を根城にする我々ですが、いま何人生き残っているのか、死んだ雪惑いたちの日記は回収されているのか、もう私にもわからない。私はときどき本拠地である『金盞花の館』に戻りますが、誰かがいることはなかった。もう旅に出たくない、金盞花の館でずっと仲間を待っていたい衝動に駆られました。でもそれは許されない。雪惑いは旅することがすべてだから」
「シャルロット……」
きっとこの男は、自分を抱かないだろう。彼の上にいるとそれがよく分かる。
シャルロットの目には冷めた感情だけがある。それでもニールの服の中に腕を入れる。鎧の留め金を一つ一つ外していく。
鎧の下の肌が石のように固い。足はひび割れて、手の指は古木の枝のよう。
「人恋しさは、忘れましたが」
体が重なる。
何も起こらないという、確信だけを伴って。
「血の交わりに、あこがれもある……」
※
少女であった頃、聖なる屋敷にいた。
同じような年頃の少女が数人いて、みな緑の衣を着ていた。
雪は降り続け、春は忘れ去られて久しく。
少女たちは本を与えられた。数十冊、あるいは数百冊で一つとなる。長大な日記。
大陸西方に生きる、雪惑いたちの日記。
かつて魔法の本を生み出した、奇妙で果てしない、この世ならざる者たちの日記を。
※
目を覚ますと、テントには己しかいなかった。
コートに包まれた体は朝の冷気の中で震えている、シャルロットはかじかむ指で懐炉の火を強める。
「ニール。おそろしく冷たい肌でした」
もちろん生きた人間である。人並みに体温はある。
しかし、熱の高さ低さではないもっと別なもの。肌の湿りや血の流れのゆるやかさ。時おり拍動を忘れるかのような細い脈。シャルロットの求めにもあまりに緩慢な反応と、それを申し訳なく思うような眼。とても抱けるものではなかった。
「ニールは、私を誰かと比べましたでしょうか」
越冬官ニールとは、寿命のない人間。
形なきものを斬る輝きの剣で、自分の寿命を斬ったという、おとぎ話の住人。
自分はうまくやれなかった。
7年ぶりに会う女にしては、己はあまりにも若すぎる。肌をさらしてしまえば隠しようはない。全であり個である雪惑いの禁忌を犯したのだ。
越冬官という奇異の存在に、身を委ねたくなった。つまらぬ衝動に負けたのだ。
そしてやはり、何も起こりはしなかった。
「……日記に書かれてたとおりです」
雪惑い、シャルロットはまた本を取り出す。
黒革張りの本は日記。複数の雪惑いたちがそれぞれ持ち、全体で一つの記憶を共有する日記。
シャルロットはその記述を自分の経験として感じ、自分の経験を記述として書き込む。
「7年ぶりに越冬官のニールと会う。彼の姿は以前に見た時と変わらない。少年のように無垢な顔立ちであるのに、ひどく疲れて錆びついている。その眼は椎の実であり唇はウサギの耳の色、塔のような背嚢を背負って鎧には深い赤の布飾り……」
冬は続く。
時を超え、世代を超えて、旅人たちの足跡が雪で消えて、なお終わることなく……。




