第四話
また炭焼きの窯に戻る。
少し足元が悪いと感じた。雪が溶けて地面がぬかるんでいるのだ。
ケルトゥは窯の前に座って、煙突から立ち上る煙をじっと見ている。
「ケルトゥ。黒槍樹は加工せずとも炭のように燃えますが、樹が育つまでの数十年は炭と薪に頼ることになります。炭焼き小屋はもっと村の近くに作り直すといいでしょう。行き帰りで怪我をしないように」
「怪我なんかしないよ、毎日ここで炭を焼いてたし」
「何年、何十年の間には坂道で転ぶかもしれない。それを畏れなさい」
ニールはあくまで柔らかく言う。
「人生は長く、災厄はあらゆるところに潜んでいます。高いところから落ちる、棘を踏む、乾燥が十分でない薪がはぜて顔を打つ、普段は無視されている小さな確率。それを何よりも畏れなさい」
「……うん、でも」
ケルトゥは、そこでまた山の方を見る。そのような動作はケルトゥの癖になっているようだ。冠雪している山が並ぶ山脈。どの峰も宝刀のように険しくそびえ立つ。
「きっと無理だよ……狼が来る」
「狼ですか。心配はいりません。数年のうちにケルトゥの体も大きくなる。山刀を使って狼と戦えるようになります。村の周りには罠を置くといいでしょう」
「でも……」
「……」
ニールは村を見おろす。冬守りだけが残る村は静かだった。世界中が冬の眠りに落ちようとしている、その兆候のようにも思える。
「ケルトゥ、そこに座ってください」
ニールが示すのは切り株。腰を掛けるために置いてあるものだ。
「? わかったよ」
ケルトゥが浅めに腰を下ろすと、ニールはその前にひざまずくように座る。炭の粉が混ざった地面に膝が沈み、脚甲は真っ黒になるだろうと思われた。
「ケルトゥ、これは越冬官が持つ魔法の剣です」
鞘から抜く、それは柄の部分である。金属の芯の上から撚り紐を何重にも巻いて握りとしている。柄頭の部分には金の装飾。王国の紋章である。
「これは存在しないものを斬ることができます。物が腐るという事象。建物が雪の重みで崩れるという事象。足を滑らせて崖から落ちるという事象。そんなものすら斬るのです」
「魔法の剣……」
「あなたの中にある恐れを斬ってあげましょう。私と一緒に柄に触れてください」
ニールはケルトゥの手を開き、炭の粉で真っ黒になっていた手に柄頭を乗せる。ニールの手がその上から押さえる。
ケルトゥはわずかに首を傾ける。そうして互いの手で柄を挟み込むと、ニールの手もさほど大きくないと感じられた。村の職人たちの無骨な手。乱暴者の酔漢たちが自分に触れるあの巨大な手とはまるで違う。ギンワタネコの背中のような柔らかい手だ。
「形のないものに姿を。定まらぬものに循環を。ありえざる者にかりそめを……」
短い言葉を何度も繰り返す。剣の柄を通して互いの体温が交換される。つぶやきにつられるようにケルトゥも同じ言葉を繰り返す。
やがて声は一つに重なり、二人ともが重ねられた手を見て、呼吸が同調し。
狼の声。
遠く山から響いてくるような、のびやかな遠吠え。
投石機の打ちだす大岩のように、山から山へと渡っていく遠吠え。
「越冬官さま……狼が」
ケルトゥの背後に気配が生まれる。
じわりと背中越しに伝わる熱、獣の体温、粗い呼吸。ケルトゥの背中に感じる強烈な視線。
恐ろしく思いながらも振り向く欲求にあらがえない。首をすくませながらもゆっくりと振り向けば。
「え……」
狼ではない。巨大な馬だった。
駅馬車が操る馬よりずっと大きい。漆黒の馬。ぶるるといなないて首をそらす動き。地面を踏み鳴らす鉄の棒のような脚。
いつしか周囲は吹雪になっている。10メートル先も見通せない猛吹雪。しかし馬は、まるで溶けた鉄でできてるかのように強烈な熱を放っている。その足の周囲で雪が蒸発している。
「な――」
動揺する声、それはニールのものだ。馬を見上げて硬直している。
ケルトゥが目を凝らせば、馬は荷を引いているようだった。小屋ほどもある巨大な荷車、その車輪は太く頑丈であり、親指ほどの鋲が無数に打たれている。
馬には乗り手がいる。顔は定かに見えない。吹雪がその姿を隠している。
その乗り手が、手をこちらに伸ばして――。
「やめろ!」
ニールと重ねていた手が振りほどかれる。剣の柄が地面に落ちた。
一瞬が引き延ばされる感覚。ケルトゥの胸に去来するのは寂しさだった。何か大きなものとのつながりを失った喪失感、耐えがたい悲しみ、怒りと寂しさ。ケルトゥに一度も訪れたことのない複雑な感情が吹き荒れ、戸惑いの中で目をまたたけば、すべては消え、炭焼き小屋の風景に戻っている。
「おどろいた。ニール、あなた夢現の術をかけ返されたわよ」
いつの間にかギンワタネコが来ていた。立てて並べた炭の隙間に顔を突っ込んでいる。
「とても精神力の強い子ね。それともニールに原因があるのかしら? 商人のことがいつも頭にあったのかしら」
「ドナ、あっちへ行ってください」
言われたからというわけでもなく、ギンワタネコはどこかへ去ってしまう。
ニールは額に玉の汗を浮かべている。ケルトゥもまた心臓が激しく動いていた。いま見たものが何なのか分からない。あのような巨大な馬が実在するのだろうか。
「越冬官さま、今の……」
「獣ではないようですね」
柄を腰にさし直し、ケルトゥの袖をまくって脈を見る。体に異変がないか診断しているようだ。明らかにケルトゥよりはニールの負荷のほうが大きそうだったが。
「しかし滅びの予感です。ケルトゥ、あなたはいつか何かが来ると感じている。それを狼という言葉で表現している。それが何なのか分からない。だから夢現の術で明らかに出来ない。あなたの恐れがどこにあるのか突き止める必要があります」
「よ、よくわかんないよ」
「ケルトゥ、あなたの抱いている予感はきっと真実です。人は五感の他にも多様な感覚を持っている。己の運命すらも感じ取り、それを夢として見たりもする。魔法の剣でそれを斬るためには、ケルトゥが何を予感しているのかを知る必要があります」
「越冬官さま、あの馬は何なの。見たことも無いほど大きかったし、誰かが乗って……」
「あれは商人です。冬を渡るもの、時の商人とも呼ばれます」
「そ、それ、それもたしか、おとぎ話に出てくる……」
「そうです」
ニールは苦しげな顔をしていた。
けして見たくないものを見た、そんな顔であったが、ケルトゥにそこまでの機微は分からなかった。
「今はこの世ならぬ時代。条理では測れない、この世ならざる者がひそむ時代なのです……」
※
夕刻。
空にはずっと雲が垂れ込めており、火が沈むよりもずっと早く夜が来る。ネルハンシェラとケルトゥはチーズと野菜のシチューを食べる。
商人の家には部屋がたくさんあったが、二人はまだ自分の部屋を持ったりはしなかった。一番大きい広間しか使っていない。
ネルハンシェラの横には本が積み重ねてあった。半日ほどずっと読んでいたようだ。背表紙は壁の側に向けられており、何を読んでいたのかよく見えない。
「越冬官さま。信号旗について教えてください」
やおらそう言う。図鑑を取り出してページを開く。
「ここにたくさん出ていますが、冬守りが使うもののことはよく分からなくて」
「冬守りの掲げる旗にはおもに三種類あります」
ケルトゥとネルハンシェラから等距離の位置に座り、ニールが語る。ケルトゥはニールが食事している場面を見ていなかったが、あの巨大なザックに何か入っているのだろうか。
「一つは赤い旗。村に人が少なく、来訪者を求めている。一つは黒い旗。村は人を求めない、旅人は村に立ち入るべからず。一つは白い旗。この村には誰もいない。冬守りは移動してしまったという信号旗です」
「越冬官さま、たしか、商人が」
つと、ニールの目がネルハンシェラに向く。
そこには奇妙な固さがあった。一瞬だけ何かの意思をやり取りする気配がある。ケルトゥは固い野菜の茎を噛みながら、二人の様子に首をかしげる」
「商人が来ることもあるとか……。永き冬を恐れない、あらゆるものを都合してくれる商人が」
「信用のおけない噂です。人によって語ることがまるで違う。期待しすぎてはいけません、ですが……」
ですが、のあとの長い沈黙。
ニールは何らかの義務としてそれを語らねばならないようだった。そっと、指でどこともつかない上方を示す。
「一番高い建物の上に、時計を置きなさい。壊れていても、絵でも構いません。商人はそれを目印とします」
「時計……ですか? でも、遠くから見つけられるような大きな時計が、村にあるかどうか……」
「あまり商人を頼ってはいけませんよ。あれは、この世のものではないという噂です」
それでその話は終わりという気配を出す。ネルハンシェラもそれ以上深くは聞かない。
最後に、ネルハンシェラのあるかなしかのつぶやきが、ケルトゥの耳に届いた。
「そうですね……あれは、おとぎ話の中の人ですから」
「ごちそうさま」
ケルトゥが器を置く。
「ぼく炭焼き小屋に行ってくるよ。かごを忘れたから取ってこないと」
「ケルトゥ、そろそろ暗くなるよ、明日にしたほうが」
「大丈夫、すぐ戻るから」
二人が起居している商人の家には古着が集めてあった。だがケルトゥは何も羽織らず家を出てしまう。いまだ厳冬に至らないとはいえ、夜は寒さが無視できない頃だが。
「ケルトゥは……何だか焦ってるみたいです」
ネルハンシェラは器を重ねながら言う。
「狼がどうのと口にすることが多くなって……それを言うたびに、やたらと炭を焼いてるんです。使いもしない炭をたくさん……」
「いえ、炭はいくらあっても困ることはありませんよ」
「越冬官さま、狼とは何かの比喩ではないでしょうか。このシェズ村に狼が出たことはほとんど無いのです」
少女は言う。ケルトゥより年上というだけで、彼女もまだ幼さの名残を残す年ではあったけれど、その眼にはここ数日で光を増したように思える。何かを深く考えるものの目、井戸の底にあるカンテラの光のような、深みから照らす理性の目。
「そうかもしれません。少なくとも実物の狼を恐れているわけではないと思います」
「……越冬官、さま。私は、それについて一つだけ、心当たりが」
ネルハンシェラは部屋の隅を見る。積み上げられた本。村にあったさまざまな種類の本が。
「それは、人間ではないかと思うのです」
「……人間、ですか、どのような」
「おそらく、魔法の本に入らなかった人間……」
その時、ニールが急に立ち上がったので、ネルハンシェラはびくりと硬直する。
「声が」
その眼は窓の向こう、炭焼き小屋の方向を見たかと思うと、脱兎のごとく駆け出していく。ネルハンシェラもわけがわからぬままに後を追った。
それはすぐに見つかった。
炭焼き小屋へと向かう道の途中、明らかに乱れた足跡があった。
一つは少年の足跡、もう一つはニールのものでも、ネルハンシェラのものでもない。
大柄な男と思われる足跡が……。