第三十九話
「あなたは、人形師ジザベルの生み出した理想人形ですか」
「そうよ、お若い越冬官さん」
その女性は水色のうすもの一枚を羽織って夜風の中にいる。下方からのガス燈の光。女性の優美なシルエットを映し出す。
「人形師ジザベルの御業は人間と人形の垣根を超えるものだった。ジザベルは万能の歯車を生み出した、それは人形に命を吹き込む神の吐息」
虚空から取り出す。それは銀色の歯車。
「でもそれの何がいけないのかしら? この街には永遠がある。怪我も病気もない無限の命がある。人形師ジザベルは人の理想に辿り着いた」
「商人に会いましたね」
ニールは相手の言葉を断ち切るように言う。ジザベルは皮肉げに笑う。
「そのような歯車は人が行き着ける限界を超えている。商人の生み出す怪しげな魔術の業です。この世にあっていいものではない」
「浅薄な理解。そして傲慢な言葉。なるほど越冬官。あの方の言っていた通り、枯れ果てた心しか持たない流浪の人」
ジザベルは鼻歌のように言う。
「あの方が私に与えたのは工作機械のみ。私の頭にあった無限の理、生命のすべてを折り畳める機械。それを実現するにはこの世界の工作精度はまるで不足していた。おわかりかしら? この歯車は間違いなく現世の法則に従って存在している。ただその複雑さゆえに理解が及ばないだけのこと」
「いいえ、それは錯覚です」
ニールは剣をかざす。ジザベルと己の世界観が触れ合うのを拒むような動作である。
「あなたが「ある」と思っている理合いは人間という種がどれほど永らえても、技術が極まろうと実現しない。あなたが辿り着いたのは商人のもたらす悪夢の庭に過ぎない。商人は冬守りたちに夢を与える。存在しない術理を、存在しない器物を与える。それこそが商人が魔の者である証拠」
「分かっていない。商人が求めているのはまさにそれ」
リラには半分も理解できないやり取り。しかし二人は鍔迫り合いをするように言葉を投げ合っているのが分かる。それが火花のように感じられる。
「冬守りは永い時間の間にさまざまな事を行う。一つのものごとを百年もいじり続ければ、それは魔性を帯びるのが道理なのよ。あの方のなされているのは世界の枠組みを広げること。魔法の創造に他ならない」
「それが禁忌でなくて何でしょうか。商人は世界を歪めようとしている。そして多くの冬守りは魔法など生み出せない。商人のささやきにかき乱され、ただ雪に埋もれるような生涯を歩むのみ。商人はそれを悦楽のうちに眺めている」
言葉の応酬。ジザベルはしかし、ニールの言葉に動揺を見せない。何もかも想定のうちであるかのように薄く笑う。
「それが不満なのかしら? 人が神の創りたもうたものだとして、創られたという、ただそれだけで十分ではないかしら? それに意味のあるなしを求めたり、ただの戯れではないかと疑って、いじけてうずくまり、生きるのをやめるとでも言うのかしら」
「商人は神ではない」
言葉に殺気が宿るのが分かった。ニールは押さえつけてはいるが、その身に怒りの炎が渦巻いている。
「ジザベル、神の真似事をするあなたが神でないのと同じように」
ふ、と、ジザベルは不敵な笑いを崩さない、だがその目に剣呑な光が灯るのも分かった。
「人形師ジザベル。私のことは商人から聞いたのですね。いつかクロノガレルに私が来たならば、これを排除するようにと」
「ええ、その通り。越冬官を名乗る旅人は少なくない。確かめるために夢現の器物を確認したかった。輝きの剣をどうやって抜かせようかと思っていたところよ」
「商人がなぜ私のことを話したか、聡明なあなたが気づかないはずもない。それとも人形の限界でしょうか」
ぎしり、と、どこかで木材のきしむ音がする。誰かが人形の首を折ろうとしているような音。
「言葉を弄するのは不快ね、あなたに何が言い当てられるというの」
「商人は私を避けている。逃げ惑っているのです。今度こそ輝きの剣がその身を切り裂き、静寂の存在が永遠に黙の彼方に追いやられることを恐れている」
「暗夜の廻り舞台!」
地震。
そう思えたのは一瞬。すぐに横方向のベクトルがかかり、リラは壁に手足をついて耐える。
「な……何?」
同時に襲い来る上昇感。何かの機械の中に放り込まれたような感覚。ジザベルの哄笑が響き渡り、その身が時計台から飛び立つ。
「!」
その姿を眼で追うとき、リラは見た。
街一つを皿に見立て、それを棒の上で回すような眺め。
街が上昇しているのが分かる。遠景の山々が回転している。横方向の力が全身にかかる。ジザベルの声が冷たい風に乗って響く。
「さあ越冬官。悪夢の中で踊りましょう」
「これほどの仕掛けを……」
「確かに輝きの剣は私たちの天敵。しかしそれを振るう人間は無敵とはいかない。クロノガレルの街はすべて私たちの手の中にある。あなたは手のひらの上で斧を振りかざす蟷螂に等しい」
速度が上がる。リラが壁に押しつけられる。家の屋根瓦が剥がれて宙に舞う。建物の窓を砕いて家の中身がこぼれてくる。
「ドナ! リラさんを頼みます!」
「ニール! わかっているわね、なるべく引き延ばしなさい」
声は半分も届かない。ニールは時計塔の最上階から飛び降り、回転する街へ。
家の屋根に着地せんとした瞬間。瞬間的な加速がかかってニールを振り落とす。家々の窓から突き出してくるのは人形の腕。ニールが回転しつつそれらを斬り飛ばし、かろうじて受け身を取りながらも激しくバウンド。大通りに転がる。横方向の力だけではない。遠心力で街の外側に放り出されそうになる。
「ジザベル……どこへ」
家が傾く。
傾くどころではない。基礎部分のない建物が横倒しになり、街の回転に合わせて転がる。それがニールを押しつぶさんとする。
ニールが石畳に剣をついて立ち上がり、瞬時の判断で横手の窓に飛び込む。破砕するガラスと木の窓枠。次の瞬間。反対側から飛び出すと同時に家が縮む。折りたたまれるように小さくなり、内部にあった家具が圧壊する音がする。
ニールが走る先であらゆるものが襲ってくる。ガス燈が火を吹き、石畳が剥がれて蛇のように鎌首をもたげ、雨どいが鞭のように踊る。
「この街……まさか」
「その通りよ越冬官。この街も我が人形」
街全体に響く音がする。ジザベルがどこいにるかは見えない。
視線が。
あらゆる場所に目があると感じる。殺意を持って振るわれる手は街そのもの、建物のすべてが敵。
「あの方は言われた。私の着想は完全無欠であると。私は生物と無生物の垣根をなくし、自分と街の垣根もなくした。私は人間であり人形であり、花であり根でもあるもの。この街のすべてに根を張っている」
見れば、すべての建物に根が張っている。ワイヤーを束ねてひねったような鉄の根。それがすべての建物に食い込んでいる。
はっと振り向く一瞬。数十本ものガス燈が撚り合わされ、針金細工の手に変わってニールを打つ。一撃のあとは街の回転力に逆らえず、また数十本のガス燈に分解されながら虚空に消える。
「そして私には永遠がある。この街は永遠に私とともに生き続ける」
「商人は何を求めたのです」
ニールが言う。その顔には赤い血が滴っている。
「何を求めた? あの方が求めていたのは新たなる力。私が生み出す永遠を愛でることこそあの方の喜び」
「いいえ、商人は人を愛でることはない。彼はただ嗤うのみ」
「……」
息を潜める気配。ニールは声高に言う。
「私は街の墓を暴いた。他の住人の遺体は無かったのに、ジザベルとアントーニオ、その二人の遺体だけはあった」
「それが何なの。私は人形として生まれ変わった。本来の肉体、本来のジザベルなど大した問題ではない」
「おそらく商人はこう言った。あなたはすべての生命を人形に変えることができる。ただし、例外があるかも知れないと」
広場が狭まる。
数十の建物が一箇所に集まるような超常の眺め。多くの建物が圧壊する中、砂ぼこりを斬り裂いてニールが飛び出す。
「その例外こそ商人の求める対価。あなたの人生の一部、それはアントーニオ」
腕で顔面の血をぬぐう。その剣は輝きを増すかに見える。
「商人の戯れを推し量るならばこうでしょうか。銀の華は街の人間を人形に変えることができる。しかし、数十人に一人、歯車に耐性を持つ人間がいる」
「越冬官!」
無数の腕が伸びてくる。鉄でできた薪ストーブの煙突が、壁を飾る真鍮の装飾が剥がれてニールに襲いかかる。
しかしそれは煙のように切断される。剣の軌跡が風景ごと切断するような眺め。
斬るべきものを、見極めようとしている。
「人形師ジザベル。あなたは夢現の戦いは初めてでしょう? 強大で徹底的、それだけで戦える世界ではない。あなたの心は無防備だ。私を夢現の領域に引き込むなら、戦いを長引かせるべきではなかった」
「何を……」
「夢現の世界では彼我の区別が曖昧になっていく。あなたを追い詰めているのはあなた自身の過去です。商人との契約を後悔するあなた自身の悔悟の心」
焦りが。
困惑が、戦慄が、そして恐れがニールに伝わる。ニールは大きく跳躍し、建物の上から回転する街を一望する。
「そして、夢の領域で起きるあらゆることは現実の裏返し。永遠を求めることはすなわち死への怯え。時計職人アントーニオは大いなる死を恐れていた。漠然たる無への恐れか、それとも病をわずらっていたのか。人形師ジザベルは商人と契約し、生命を人形に変える業を手に入れた。それならば夫を救えると考えた」
鼠の足音。
全身から剣山のように針を生やした鼠。その針は一つ一つが高速で回転しており、石壁を削り取りながら駆けている。建物の壁を登る。それらがニールに向けて飛び上がった瞬間。銀の雨が降る。無数の斬撃が鼠たちを斬り裂く。
「アントーニオを人形にして、自分も人形になって永遠に生きようと思った。しかしアントーニオは人形にならなかった。稀に歯車を受け付けない人間がいたのでしょう。あるいは、歯車でもどうにもならない病が存在したのか」
ジザベルの声は帰らない。ただ一つだけ、一刻も早くニールを黙らせたいという感情だけが殺到する。押し寄せるのは人形細工の動物。配管。人間の胴を生やし、屋根を砕きながら疾走する馬車。そのすべてをニールの剣が斬り裂く。
「あるがままの姿を示せ」
剣をかざす。街は狂気のごとく回転している。あらゆるものが回転力によって砕けようとする。
「人形の栄えに虚心あり、無限の誉れに終焉あり、造り手を失いし人形の園。ひそかなる営みは異形の戯れ、そこに罪なく、ただ世の条理に従うのみ」
剣が。
その輝きが、天の一角に届くほど伸びて。
「剣の輝きより」
走る剣閃。
東西への一閃、南北への一閃、街を支える千年杉のような芯柱すらも一瞬で斬り裂いて。
「逃れること能わず」
そして街と地上の間にある距離すらも斬る。
静寂が降りる。
体にかかるあらゆる慣性力が消えている。崩れた建物はほとんどなく、ただマネキンのような、デッサン人形のような木製の人型が散乱していた。
ニールの前には一人の人物が倒れている。青いうすものだけを羽織った女性。
その胸に巨大な裂傷があり、しかし血は一滴も出ていない。それは木材に開いた裂け目に過ぎない。
「ジザベル」
ニールはそう呼びかける。すでに輝きの剣は刀身を失っていた。もはやこの地に斬るべきものはないと言うかのように。
ジザベルと呼ばれた人形は、唇を震わせて言う。
「越冬官……本物のジザベルは、永遠を与えられなかったアントーニオへの罪の意識から、自ら胸を突いたのよ」
「……」
「死を恐れる者であったアントーニオは、血溜まりに沈むジザベルを見て、不思議と穏やかな顔になっていた。私に埋葬を命じ、自分もまた喉を斬り裂いて死んだの」
ジザベルは、理想人形と呼ばれた人形は、その時のアントーニオの顔を再現するかのように、穏やかに笑ってみせる。
「人の心など、本当の魂の形など、最後の瞬間まで絶対に分からない。二人はこの世の条理にあらがう魔術師だったかもしれない。でも最後は幸福に死んだのよ。残された私たちは、もう役割もなく、目的もない、ただ永い冬を安穏と生きればいいと思っていた。でも、そうはならなかった」
「あなたは……」
「ショウウインドウの人形を、見たでしょう。目も鼻もない、陶器の顔。人間そっくりの人形は、作れなかったの。あまりにも禁忌、あまりにも悪趣味な皮肉に思えたから。私は、人間に歯車を与えただけ……」
その手足が木片になっていく。銀の歯車は吹き上がるそばから輝きを失い、赤錆の色に染まっていく。
「人間は、人形を創造できる。でも、人形には、何も、創造、できない。それ、が、私たち、の、限界」
「もう話さなくていい、すべては終わったのです、あとは眠りにつけばいい」
「あなた、は、知ることに、なる」
口元すら、木の人形に変わりつつある中で、最後の言葉が。
「クロノガレル、の、最後の、秘密。エリ、オ……」
がらん、と。
残されるのは木片のみ。冷たく乾き、もはや生命の宿ることも無い木片と、錆びついた歯車のみだった。
ニールは深く静かに瞑目すると、ゆっくりと立ち上がって時計台の方に目をやった。
「リラ……無事でいてください」




