第三十七話
夜。
もう何日目の滞在になるのか分からない。冬守りたちに日数を数えるという感覚が希薄なためでもある。
リラは寝台に横たわっていた。ほどよい疲労が手足にじんわりと残っている。街の共同浴場は大きくて、南方の行商人から仕入れるという石鹸は香り高かった。そのような入浴の後は、疲れが木の葉のような香りに変わって体から立ち上る気がする。
いい街だ、と、声にならぬ言葉が口の中をもごもごと動かす。
そのまま寝入ろうとしたとき。
ごんごん。
扉を叩く音。リラは寝台を降り、寝間着のままリビングへ。
「越冬官さま、わしです、どうですか下へ来て一杯」
リラは少し息を整えて言う。
「ごめんなさい。越冬官さまはもうお休みです。誰が来ても起こさないでほしいと言ってました」
「ああ、そりゃあ失礼しました。またよろしくと伝えといてくだせえ」
「はい」
そのように答えてほしいと頼まれていた。念のためニールの寝室を覗いてみるも誰もいない。
窓の鍵は開いている。窓から出て、夜の街を調べているらしい。
それも数日続いているが、何を調べているのか、リラは聞いていない。
「……」
一階の酒場には今日も街の男たち。ざわめきが床の隙間からわずかに届くような気がする。
床板に触れてみる。ひやりと冷たい。目の詰まった木材は硬く、耳を当てれば雑然とした音が聞こえる。
いつもと少し違うと感じる。笑い声が少ないのだ。
楽しげな雰囲気はだんだんと小さくなり、声も密やかなものになる。
「……」
リラは綿入れを一枚羽織ると、寝室の窓を開け、そっと外へ。地上へは降りずに、一階のひさしを伝って建物を回り込む。
人の腕ほどの陶器の筒が突き出ている。炊事場の煙突である。白い煙が立ち上っている。
リラはその煙突に張り付く。これに耳を当てると食堂の会話が聞こえることを見つけていた。
ーー何も見つかってねえんだ、心配ねえ。
野太い声がする。リラはまだ住民をすべて覚えてはいないが、酒場に来る人間はだいたい把握できていた。毛むくじゃらの顔が思い浮かぶ。
ーー本当に指導に来ただけなんだな。
ーーああ、王都の密偵だなんて言いやがったのは誰だ。
ーー真面目そうなやつじゃねえか、ちと愛想はねえが。
普段の会話よりもずっと声を落としている。2階でニールが寝ていると思っているためだろう。
ーーエリオは。
ーーれは、不完全。 やはり駄目ーー
耳を煙突に押し当てる。何か、会話がただならぬ緊張を孕んだのが分かった。
ーー王都に引き取らーー
ーーいかん、エリオはわしらの希望だ。
ーー病気は治らない。
ーーエリオの容態は。
ーー前と同じだ、このままじゃ死ーー
しっ、と誰かが叱責する。おそらく宿の主人である。
しばらくの沈黙。
ゆるゆると会話が再開されたとき、それはゴーのことであったり、ひび割れた石畳の補修の話に変わっていた。
リラはそれから一時間ほど煙突のそばにいた。手足がかじかんで、骨まで冷気が染み通り、あらゆる感覚がなくなった頃。ようやく寝室に戻る。
それからさらに一時間。まんじりともせず寝台の上にいる。
「リラさん、まだ起きてましたか」
ニールが窓から戻ってきた時、大きく見開いた目を彼に向ける。
「ニールさん。街の人達が、エリオのことを……」
リラは自分の聞いたことを説明する。外に出て会話を盗み聞きしたことを咎められるかと思ったが、ニールは最後まで静かに聞いてから、ゆっくりと口を開く。
「リラ、私も同じような結論に至りました」
「え……」
「街の人間が何かを隠してるってこと」
ギンワタネコはソファの上で寝そべっている。尻尾が揺れているが、顔が背もたれの側を向いており、起きているのか眠っているのか分からない。
「時計台に何かがあるのは分かる。リラの言っていた理想人形ね。でもそれが何をしてるのかがよく分からない。歯車みたいな花を街の人が食べてたんでしょう?」
「そ、そうです」
「夜中に何度か時計台のそばに行ったけど、そういう花は見つからなかった。錆びた円盤がいくらか落ちてるだけ。おそらく警戒されてる。理想人形はニールのことに気づいてる」
リラはぐっと息を呑む。ニールが敵視されているのだろうか。この街の平穏を脅かす敵であると。
「でも街の人の警戒は逆にだんだん薄れてる。時計台と街の人は意思の疎通が無いのかしら?」
ニールはその錆びついた円盤を調べている。彼の吐く息は白く、鎧の飾り布は雪によって凍りついていた。かなり長い時間、夜の街を調べていたものと思われる。
「そしてエリオの話も聞いたわ。彼は病気である。歯車を食べているが直る様子がない。前と同じだとね」
「前と、同じ……」
以前にも、エリオのような人間がいたのだろうか。
咳を繰り返す、肺に異常がある、歯車を吐く、そして、死。
「そ、それは」
瞬間、頭に血が上る。
感情が制御できなくなる。
口の中から猛禽類がせり出してくるような、感覚が。
空白の時間。
雪風に吹かれている。
自分を支えるのは小手をはめた腕。ニールの腕の中にいる。
ここは真夜中の街。クロノガレルの片隅。
「あ……」
「リラ、大丈夫です、何も問題はありません」
また起こったのか、と自覚する。
屋根の上を飛び回り、意味不明な言葉を並べる、心も肉体も何かに乗っ取られるような狂騒の時間。
「私、何を言ってましたか」
「怪物を駆逐せよ。それが終われば自分はこの娘の体から出ていく。そういう意味のことを」
「私の、体から」
山の意思。霊峰スワニエルに住まう霊鳥、雪と氷を操る白いフクロウ。
それが自分の体に宿っているのか。そしてフクロウはクロノガレルの怪物に気づいている。恐れて危ぶみ、消してしまいたいと思っている。
すべては演技のような気もする。記憶がないにも関わらずリラはそう考える。
ニールが、ギンワタネコにドナという女性の人格を見ているように。
リラもまた、山の意思という人格を自分に下ろしているだけではないか。そう考えると違和感はないと思えた。
ニールはそんなことも言っていた。人間は実はたくさんのことに気づいているが、無意識の奥に思考の多くを埋めている。それを呼び起こすのが夢現の術であると。
夜の街に人影はない。すでに酔漢が家路を急ぐような時刻もとっくに過ぎている。
フクロウはなぜ、ニールを焚き付けるのか。
時間的な制約があるのか。
それとも。ニールが動かないから。
「ニールさん」
ニールの腕に抱かれながら、固く張り詰めた声を出す。
「はい」
「気づいていますよね」
言われて、ニールの顔に影が降りる。今はギンワタネコもいない。雪を踏む足取りは重い。
「あなたはとっくに事態の本質に気づいている。それなのにまだ行動に移さない。細かな調査に日数を割いている。何か、違う結論が見つからないかと足掻いているんですね」
「そうです」
夜は長い。
会話を盗み聞いて、部屋で人の帰りを待って、大事な話をして、混乱して、助けられて、それでも夜は明けない。
太陽はいつ昇るのだろう。永い冬であっても夜の長さは変化するはずだが、とてもそんな気がしない。夜はいつも長く、いつも果てしない。無限の長さの夜が、無限に繰り返されるような時代。
「墓を暴きました」
すぐそこにニールの顔があるのに、彼が遠く感じる。
「街のはずれ、共用墓地には新しい遺体がなかった。最も新しい遺体はおそらく、人形師ジザベルと、その夫アントーニオ」
「……」
「この街には医師がいません。40人もいない街ですから仕方ないかもしれません。しかし医療所に出産の記録がない。出産のための備えもない」
ニールはやはり、優秀な越冬官なのだろう。
リラが冒険の果てに盗み聞いた情報など、彼はとっくに知っていたのかもしれない。
「この街の住人は、年をとっていない」
そして、おそらくはすでに核心に近いところに。
「街の住人は人間ではないのです。何か、生物としての理を踏み越えた存在」
リラは腕の中で身を揺する。ニールは彼女をそっと地面に立たせる。
ホテルが近い。ニールは彼女を連れて戻るつもりだったのだろう。だがリラはニールの瞳を見上げる。
「エリオもですか」
「街の古い記録を調べました。この街の冬守りはだんだんと数を減らし、一時期は10人ほどになっていた。それから新しい住人がじわじわと増えています。その中にエリオもいました」
「理想人形。人形を創る人形……食べると病気も怪我もなくなる歯車の華……」
リラは言葉をつぶやく。
時計塔は夜の中にシルエットとして浮かんでいる。路地を吹き抜ける風は身を切るような冷たさ。おそらく数年に一度となるほど冷え込む予感がある。
「この街の人たちは病気も怪我もしない。ジザベルとアントーニオの作った人形が、街にいた人たちに不老不死を与えたんですね」
「断定はできません」
ニールがそう言うが、その否定に大した意味はなかった。すべて断定的に決めつけて、違っていたなら何の問題もないのだ。
リラはごくりと唾を飲んでから言う。
「エリオは街の希望だと言われていました。つまりエリオは、新しく創られた住人たちが、さらに創り出した人形。完全な無から生まれた人形」
街の住人たち。陽気に笑ったり、働きものであったり、酒に興じたりする住人たち。あれがすべて人形なのか。
仮にそうだとすれば。
「越冬官さまは、それをどうするのですか」
「斬らねばなりません」
ニールは言う。その手が腰の剣に添えられているのが意識される。
「どれほど人形の精度が上がっても、歯車や金ひごで生命を作ることはできない。作ってはいけない。ジザベルとアントーニオの技は現世の理を超えている。夢現の向こう側の存在なのです、ですから」
「わしらも斬るのか」
声はリラの背後から。はっと振り向けばホテルの亭主がいる。
「ど、どうして」
「お嬢ちゃん。人間は寝てる時でもじっとはしてねえんだ。寝相やら体のちょっとした動きで常にベッドはきしんでる。それが完全になくなるとな、分かるんだよ、わしには」
60がらみの白髪の人物。がりがりと音を立てて歩いてくる、暖炉の火かき棒を引きずっているのだ。
「越冬官さま。クロノガレルには何の問題もねえ、黙って立ち去ってくれねえか」
「できません」
ニールは剣を抜く。しかし刀身はない。柄だけを虚空にかざす。老人はひどくゆっくりと歩いている。
「何がいけねえ。わしらには病気も死もない。冬守りとしての役目だって果たしている。何の都合の悪いことがある」
「それは本当にあなたの意思ですか?」
ニールが問う。問われた方の老人は片目を歪める。
「何が言いたい」
「死を克服するとは大いなる禁忌です。そして苦難の道でもある。この世の憂いから抜け出そうとすれば、より大きな憂いにとらわれる。いや、それ以前にそれは本当に善意からの事象と言えるのか。人とそっくりな人形を作れるなら冬守りはそもそも労働など必要ないはず。なぜ陶器の顔を持つ人形がショウウィンドウでこの世の栄華を謳歌し、人間の姿をしたものが冬守りとして働いているのか」
刀身が。
白い輪郭のようなものが見え、氷のように透明な刃となり、銀となり、輝ける刀身に変わる。どこか別の場所から浮上してきたような、そんな形容が浮かぶ。
「ジザベルとアントーニオは街を恨んでいなかったのか。冬守りの役目を押し付けたクロノガレルの街を」
「やめろ、その二人を語るな」
老人が、火かき棒を振り上げる。顔面は醜くゆがむ。憤怒とも哀惜ともつかぬ顔に。
「そしてなぜ、二人は死を選んだのか。死を克服できていたはずの二人が」
「口を閉じろ!」
振り下ろす。その刹那。
ニールの刃が火かき棒に触れ、極小の時間が引き伸ばされるような感覚。止まった時間の中でニールの剣が加速し老人の身体を光の線が走る。
「が」
白いものが吹き出す。一瞬、血しぶきがほとばしるかに思えてリラが戦慄する。
だが吹き出すのは銀色の蒸気。あの歯車のような円盤が太刀筋に沿って吹き出す。噴水のように。
「後悔、するぞ、越冬、官」
老人が、明らかに五体ばらばらになりながらも、乾いた声を。
「ジザベルには、勝てや、しなーー」
がらん。
その場に落ちるのは木の人形。服飾店にて衣服を着せるために使うような、目も鼻もない人形である。素朴な作りであり、腕も足もただの棒に過ぎない。関節部など存在しない。
それを覆う雪のような、大量の銀色の華。
「ジザベル……」
リラがつぶやく。ニールは言っていた。それは遺体となり、墓に埋まっていたと。
「リラ、私は時計塔に行きます」
ニールの声には憂いがある。
すべてを救うには遅すぎた、そんな顔に見えた。
「今宵、すべてを終わらせなければ」




