第三十五話
「え……」
「ああ、ごめんなさい」
リラが硬直しているそばで、エリオは口元をぬぐって背筋を伸ばし、吐き出した銀色の華に靴で砂をかける。まるで吐瀉物にやるような仕草を。
「い、いま、口から」
「あまり気にしないでください。ちょっとした病気なんです、あの華のおかげで生活できてるんです」
「華……あの歯車、みたいなもののことですか」
リラはちらりとニールを見る。彼もいま吐いたものが見えたはずだが、何も発言しない。リラに聞けと促しているような気がして、なんとか口を開く。
「それは、何なんですか?」
「銀の歯車ですよ。壊れた時計や機械にその歯車を噛ませると、たいていの故障なら治ってしまうんです」
「か、体も、治せるんですか?」
「ええもちろん。でも人間の体というのは複雑でしょう? 僕はちょっと肺の患いがあるんですが、毎日何枚も華を飲んで、だいぶよくなりました」
リラは地面を見る。銀色の歯車は砂で隠れてしまってよく見えない。
「でもたまに吐いてしまうんです。お見苦しいところをお見せしました」
「い、いえ……」
リラはまたニールを見る。自分が知らないだけで、そのような歯車が存在してるのか聞きたかった。
だがニールの顔から否定の色を感じ取る。彼もまた今までと雰囲気が違う。エリオを油断なく観察している。
「さあ、ホテルまでお送りしますよ」
「あ、で、でも」
リラはまだ事態を受け止めかねていた。
リラが本当にただの旅人であれば、そこまで深くは考えなかったかも知れない。
クロノガレルには「怪物」がいる。
その言葉が肺に詰まるような感覚。抑えきれない感情が指の震えになって表れている。
「ええと、ニールさんはもう少し街を見るんでしたっけ」
「いえ」
と、リラと手を繋ごうとするエリオの前に、ニールがそっと割り込む。
「日も暮れてきたことですし、私もホテルに戻ります」
※
「やっぱり、華は……あんな薬は無いんですよね」
「ええ、私の知る限りは」
部屋は二階の北側。廊下と接するドアは一つだが、中はリビングと二つの寝室があり、それぞれ施錠できるようになっている。水回りの設備もあり、複数人が宿泊できる造りのようだ。
リビングにはソファが二つ。連れてきたギンワタネコにも食事が用意され、床の隅で穀物と魚の粉末を混ぜた練り物を食べている。ギンワタネコは雑食ではあるが、魚を好むものが多い。
「あれは確かに金属でした。大きさは指先ほどですが、カミソリのように薄かった。あまり飲み込むべきものとは思えません」
「お、おかしいですよね。あのエリオって子、誰かに騙されてます。あんなので病気が治るわけないです」
ニールはソファに座して手を組み合わせている。その目はギンワタネコのほうへと注がれる。女性の声音がどこからともなく出現する。
「まだ情報がなさすぎるわね。でも一つ言えるとすれば、エリオのあれは不測の事態だと思う」
「不測の……?」
「歯車を吐く。これを村の大人たちが知らないはずがない。だけど村を訪れる人間がそんな姿を見れば騒ぎになるはず。つまりあれは本来はよそ者に見せるものではないのよ。村の人間は歯車のことを知っていて、そのうえで誰にも言わず黙っている。歯車の秘密を街の外に漏らすまいとしている」
「そ、そっか、なるほど」
「村の男達が帰ってくる前に調べておきたいけど……」
がやがやと、階下から大勢の話し声がする。
リラは我知らず腰を浮かして警戒する。だがそれは単なる宴の声のようだ。村の男達が一階の酒場で騒いでいるらしい。酒を飲むとか宴会するという概念はぼんやりとしか知らない。
ニールが立ち上がる。
「ドナ、私は下で情報を集めてきます」
「一人で大丈夫?」
「越冬官ですからね。人と対話することには慣れています」
「なんだか違和感のある言い方だけど、まあいいわ」
ギンワタネコはリラに抱かれたままである。ニールはリラのほうに目を向ける。
「リラは部屋にいてください。できれば寝室にいて、鍵をかけて」
「は……はい」
足手まといになっている。
それは仕方ないと感じる。リラは越冬官の仕事を手伝えるわけではないし、異変や怪物について調べると言っても、その手立ては何も浮かばない。
ニールが部屋を出ると、リラはソファに深く沈んで天井を見上げる。
「怪物かあ……あの歯車と何か関係あるのかなあ」
リラは、自分の口調があまり安定していないと感じていた。シェルマットの村にいた時はもっと幼かった気がするし、ニールや他の大人がいるときは心のどこかに緊張がある。そして一人きりになるとまた子供っぽい心がもたげてくる。いったい自分は何歳なのだろう。確か14歳だったはずだが、物心ついてから自分の歳を数えたことがあまりない。二人きりの冬ごもりの村では年中行事もなく、暦を数えることも無かった。そして本で見るような季節の巡りも。
「私、14歳だよね。うん、確か、そう……」
ふと窓のほうに視線が向く。
足音が聞こえた。石畳の上を歩く音はよく響く。
立ち上がって窓のほうに行くと、ぼさぼさの赤毛と作業用のツナギを着た人物。年季の入った格好ながらまだ未成熟な部分を残す体。職人のエリオである。
カンテラを一つ持って、夜の中をひたひたと歩いている。
「? こんな時間に、どこへ?」
まだ夕餉時を過ぎた程度。本来、街に住むものであればさほど疑問に思うような時間ではない。リラには夜に外出するという常識が存在しなかった。だからその歩みを不可思議に思う。
そしてふと、少女らしい好奇心が頭をもたげる。ニールの役に立ちたいという気持ちも。
「……ちょっとだけ」
リラはそっと窓を開け、壁の凹凸を手がかりにするすると降りていく。自分には自分が自覚する以上に身の軽さがあると感じる。ギンワタネコはリラの首の後ろに乗るように休んでおり、騒ぎもしない。
あとをつけて歩く。すると影が長く伸びてリラの足元に来る。
ガス燈の生み出す影である。ガス燈は十字路ごとに設置され、直線的な光がこうこうとあふれ出ている。もし馬にでも乗っていれば眩しすぎて逆に危険な光量だったが、夜を歩くには丁度よい明るさだった。リラはエリオの後を追う。
職人たちの区画から、三階以上の高層住宅の立ち並ぶ区画。そして街の中心へ。
そびえたつのは黒い尖塔。そのように見える威容である。
頂点付近に大時計を備え、その上には鐘楼がある時計台。街のどの建物よりもずっと高く。また土台となる部分もとても大きかった。通気口がいくつか開いているのみで、窓のない角柱状の建物がでんと構えている。
「うわあ……昼にも見たけど、夜に見るといちだんと大きい……」
ぱき
何かを踏む、その音でエリオが振り返る。
「あ……」
「誰?」
カンテラの光が向けられる。エリオの声には警戒の色があったが、リラの姿を認めると、肩から力を抜いて数歩近づく。
「なんだリラさんか、お散歩かい?」
「えっと、はい、そんなところです」
「そっか、本当は街の人以外は見てはいけないんだけど、見ちゃったなら仕方ないね」
足元には植物の蔦。
そしてねじれた小枝から咲く、銀色の歯車。
「これ……花」
「銀の華だよ。夜になるとこの時計台の周りに生えるんだ」
よく見れば花には大小あり、小さいものでは猫の目ほど。大きなものは手のひらほどもある。針金をよじったようなツタと、色ガラスで作られた葉。時計台の周りに蔦が伸びてきており、銀色の華がぽつぽつと咲いている。
かちゃかちゃ、と音がして、そちらを見れば蝶がいた。極薄の細工物の翅を持つ、機械仕掛けの蝶である。ツタの上に針金の脚で立ち、銀歯車の花から蜜を吸っているように見える。
そのような蝶も、花もすべて細工物。もし職人の手になるものなら、どれほどの労力と日数が必要なのか想像もつかない。
「これは……その、何、なの?」
「大人たちは、クロノガレルの街だけにある恵みだって言ってる。この花を食べさせると壊れた機械が直るし、体の悪いところも治るって」
時計塔の周りを歩く。日のあるうちにこのあたりは通ったが、こんな細工物は見なかった。まるで本当に植物のツタかとも思える。ツタの根元を目で追いかけると、それは時計塔の中に吸い込まれていた。
エリオは薄く小さな歯車を選んでいた。見つけるとそっと手で摘んで、口元に持っていくとひゅっと音を立てて吸い込む。
「……」
「変だよね、やっぱり」
ふいに、エリオがそうこぼす。
「よその街にこんなものがあるなんて聞いたことないし、大人たちは外の人にこのことを言うなってうるさいんだ。リラには見つかっちゃったけど、これを見たことは大人たちには言わないほうがいいよ」
「う、うん」
「大人たちは何かを秘密にしてるんだよ。人形のことも言うなって」
「人形?」
「おいで、見せてあげる」
エリオはリラの手を引いて歩き出す。あまり筋肉はついておらず、しかし皮膚が硬い。指は長く節くれだっていて、指先が少し荒れている。手仕事を行う職人の手だったが、リラにはそのような知識はない。ただ、男の手だと感じた。
「ほら、あそこだ」
それは商店のようだった。正面がガラス張りになっており、ガラスの向こうはごくわずかな空間があるのみだ。ショウウインドウというものだったが、そこに人形がいる。
「女の人……」
白磁器の肌とガラスの目。上等な布で作られたドレスと丸い帽子をかぶり、帽子には紫のリボンが巻かれている。絵本で読んだ貴婦人か、あるいはお姫様にも見えた。
その向かいには若い男。黒い夜会服に身を包み、ひざまづいて貴婦人を見上げ、陶器で作られた花束を差し出す。
顔はのっぺりとしており目鼻はなく、磁気の質感だけがある。しかし首と手足に可動部があり、かちゃかちゃと音を立てつつ、滑らかに動いて感情を表現している。
花束を差し出す紳士はやや年若、誠実さと情熱を備えた愛の言葉をとなえ、貴婦人はたおやかに微笑みながらも困ったような仕草を見せる。困惑するというより、若者を翻弄させて楽しむような様子だ。目も鼻も、口もない陶器の顔なのに、なぜか表情をはっきりと見て取れる。
別の方向から光が来る。ショウウインドウにガス燈の光がともり、赤みがかった光が四つ辻の中央に投げかけられる。
やや遅れて青、緑、色ガラスを通した光が辻の斜め四方から注がれ、十字路を混合色の光が照らし出す。
ある窓ではキャンプを楽しむ家族。木陰にランチバスケットを広げ、大きな犬と女の子が追いかけっこをしている。
ある窓では音楽を楽しむ一家。6人の家族がそれぞれ楽器を持ち、正装して家庭内でのコンサートを開いている。
どれも陶器の顔、目鼻はないが手足はなめらかに動いており、優雅でどこか生々しい存在感がある。
「すごい……これ全部、人形」
「人形師ジザベル、その夫アントーニオ」
エリオが言う。
「クロノガレルは時計と人形細工の街。この二人は街の象徴であり伝説なんだ。誰よりも優れた人形師だったジザベルは、アントーニオという時計職人と結婚した。二人の作る人形と時計はたいそう出来がよくて、冬が来る前は王都から買い付けに来る商人もいたそうだよ」
「……冬が来る前」
「でもそんな二人は妬まれることも多かった。街の職人たちがどれだけ努力しても、ジザベルとアントーニオの人形と時計にはとても追いつけなかった。そして永い冬が訪れるとき、冬守りの役目を投票で選ぶことになった。選ばれた中にはジザベルとアントーニオがいた」
「……」
エリオはカンテラを掲げながら街を歩く。時計塔を中心として円形の道になっており、商店が軒を連ねている。かつての街では時計と人形の店が並んでいたのだろうか。
「二人はたいそう悲しんだ。永い冬では自分たちの腕を披露することができない。王都を相手に商売することもできないってね。二人は町外れに居を移して、他の冬守りたちとは離れて暮らすようになった。建物の手入れをしたり、雪かきをしたり、そういうことも自分たちの周りだけ行って、他の冬守りたちと交流を持たなかった。他の冬守りたちは気の毒に思ったのか、それとも後ろめたいところがあったのか、二人を放っておいた」
どの商店にも人形がある。その動作には繊細さとか緻密さという言葉では表せない凄みがあった。歯車やベルトとは思えない動作の自然さが。
「そして、長い長い年月の果てに、二人の職人は奇跡のような人形を生んだんだ。稀代の人形職人と、時計職人が生み出した、それがクロノガレルの伝説なんだよ」
「奇跡のような……人形?」
「そう、永遠の体現と言われてる。何百年経っても残り続ける人形、それは」
エリオの頬は上気していると感じる。そういえば今は咳も出ていない。その眼はうるみ、指先にまで力がこもるような高揚がある。深い安らぎと興奮が同時に訪れているかのようで。
「それは……?」
リラはそんなエリオの熱意に、どこか同調する自分を感じていた。
「人形を創る人形」




