第三十一話
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三日ほどは作業のうちに過ぎる。
グラーノは村の温室の世話をし、谷底の森まで木を伐りに行き、石垣の崩れていた部分を直す。ニールは盾を補強する、そんな日々。
ある日の正午ごろ、リラが盾を見に来た。
「うわ、なんだか立派になったねえ。カッコいい」
背面から斜めのつっかえ棒で支えられた盾。その45度の角度には何となく力学的な正しさのようなものが感じられた。強度は確かに増している。
丸太同士はわずかに隙間が空いており、ニールはそこに丈夫な荒縄を巻き付けていく。荒縄は鉄杭に繋ぎ、木槌で地面の奥深くに突き刺す。
「ねえねえ越冬官さま、それは何してるの?」
「盾が雪崩の直撃を受けたとき、根本から引き抜かれることを防いでいます。倒れた丸太がシェルマットの村まで流されると危険ですからね」
鉄杭は村に用意されていた。家々を補強するために、そのような資材はふんだんに備えがあった。
「どうですかリラ。これほどの盾なら、どんな雪崩が来てもびくともしません」
「うん! そうだね!」
リラの様子におかしなところは見られない。神がかりにあった時のことは何も覚えてないと言っていた。
そこへグラーノがやってくる。やはり大きな丸太を抱えている。
ニールは目算でその太さと重さを測る。いま使われてる丸太よりも少し大きい。
「グラーノ、あまり無理をせずに。斜面を運ぶのは危険が伴います。まずは階段を造ってから」
「お前には関係ない」
と、リラがいることに気づいて、汗まみれの身体をぬぐってから言う。
「リラ、今日の分のスケッチはできたのか」
「あ、ごめん、早くやらないとだね」
リラにも仕事がある。あの見張り台にて霊峰スワニエルをスケッチすることだ。それを村の記録と比較し、スワニエルの状態を測ろうということらしい。
リラは村の方へと駆けていき、グラーノはあらかじめ掘っていた穴に丸太を突き入れる。
「リラは少し変わっているだけだ」
ニールの方を見ずに言う。用意されているのは他に木枠とセメントと砂。丸太をしっかりと固定するためのモルタルの材料である。
「まだ気にしているのか」
「ええ」
間髪を入れない答えに、グラーノもやや渋面を向ける。
「この世に起こることに、すべて意味があるとは限りません」
「うん?」
「ですが、意味が隠れている場合もある。リラのあの神がかり、リラは何かを感じ取っているのかもしれません」
「リラは過去の雪崩を知らない。無意識で怯えているだけだ」
「グラーノ、雪崩を意図的に起こすのはどうでしょうか」
急にそんな提案が飛び出し、グラーノは目を丸くする。
「何だと」
「私は数えきれないほどの村を見てきました。雪崩をコントロールしようとする村は他にもあったのです。山が雪で太りすぎないうちに、小規模な雪崩を起こすことが技術として存在する村も」
「どうやって起こすと言うんだ」
「火薬があれば可能です」
ニールは山を指さす。
「模型からの大雑把な推測ではありますが、山の中腹部分に少量の火薬を仕掛けて爆発させます。この村から見て標高差400メートルほどの地点が良いでしょう。爆音と振動が小規模な崩落を誘発します」
「山の雪がすべて崩れたらどうする」
「そこまでの規模にはなりません。大規模な雪崩というのは主に氷の崩落によって起きます。それは地震などが引き金となるのです。先に雪を落としておけば、のちに氷の崩落が起きても全体の雪崩の規模は小さくなります」
「な、なるほど……」
グラーノは納得したものの、しばらくして首を振る。
「村には確かに火薬がある。シェルマットは道を作るための村だから、工事に使っていたものがあった。だが今でも使えるかどうか」
「多少、劣化していても問題はありませんが」
「それに俺は火薬を扱ったことがない。専門書があったはずだが、今から学ぶわけには」
「そうですね、私も専門ではありません」
ニールは唇に指をあてて考える。
「クロノガレルには火薬を扱える人がいるでしょうか」
「分からない、あそこは時計とか楽器とか、職人の街ではあるが、今は冬守りしか住んでいないし」
そこではたと首をかしげる。
「お前は南から来たんだろう。クロノガレルを通らなかったのか」
「私は主に冬守りが数人しかいない小さな村を渡ってきました。クロノガレルは人口2千人ほどの街です。冬守りも十数人いるでしょう」
グラーノは、この大木の切り株のような男は、現実感が薄らいでいくような気がしていた。地に足がついていない、何もかも絵空事のような感覚。いったいこの男はなぜそこまで心配するのか、という表情を見せる。
「火薬を使うのは村の流儀に反する。この村は盾で雪崩を防いできた。俺もその役目を継いだ」
「グラーノ、私はリラさんの抱いている恐れに、神がかりの正体に迫るべきだと思っています」
腰に手を当てる。木製の鞘と、そこから露出する剣の柄が見える。
「リラさんは何かを感じ取っている。地震の予兆か、山に積もった雪の量なのか、大きな雪崩の予感を。この時代においては夢と現実は地続きなのです。彼女がすべてを滅ぼす雪崩を夢に見ているなら、それが現実となるおそれは十分にある」
「リラはまだ子供だ、不安定なだけだ」
ぴく、と、ニールの眉がほとんど分からぬ程度に動く。
「グラーノ、リラはまだ幼いといえる年齢ですが、あなたとともに村を守る冬守りなのです。その行動がたとえ理解できなくとも軽んじるべきではない。やがて成長したときに、あなたの頑なな反応はリラの心に残って」
「り、リラは」
グラーノは、この大岩のような男は、にわかに混乱を見せた。
それは大きな感情が胸につかえる様子。グラーノの体の中で暴れ回って、確かな形を持たぬまま声帯を通過する。
「リラは大きくならない、俺がずっと守る」
ニールは。
この静かな面立ちの騎士は、その様子を冷静に見つめている。多少の不自然な言動は言わせるままにして、会話という弾み車を回転させる。
「グラーノ、この永き冬はまだまだ続くのです。あなた一人では村を守れないのですよ」
「う、そ、そんなことはない。食べ物も建物も、雪崩への備えも」
「いいえ、人の命は有限です。冬守りは世代を重ねねばならない。そのためにいつかはリラと」
「やめろ!」
言葉と手は同時に出た。暴風を引き連れた腕がぶおんと振られる。ニールは腕が動き始める瞬間には回避を終えている。
「お前がリラを語るな! お前に何が分かる。なぜこの村をかき回す!」
「グラーノ、あなたが恐れているのは何ですか」
グラーノの顔が激昂に染まる。一気に距離を詰めてその細身に襲いかからんとして。
その眉間に突き出される、剣の柄。
刀身はないはずなのに、刃が皮膚に触れていると感じる。グラーノの全身が硬直する。
「形のないものに姿を。定まらぬものに循環を。ありえざる者にかりそめを……」
「や、やめ……」
声がほとんど出せない。越冬官の繰り返す言葉が全身の神経を支配している。あるいは眠りの感覚にも近い。起きながら眠る中で、言葉が泡のように浮き上がってくる。
「お、俺は」
越冬官は呪文のような言葉を繰り返す。グラーノは自分が呼吸しているのかも分からない。
やがて肉体が完全な静止に至ったとき、越冬官がゆっくりと質問する。
「グラーノ、あなたは何を恐れているのですか」
「恐れて、いる、リラを」
「なぜです?」
「と、歳が、離れすぎ、て、いる」
ニールは眉ひとすじも動かさない。極めて真剣な様子で問いを続ける。
「あなたとリラの年齢差は」
「じ、10だ」
「そのぐらいでも夫婦になる人はたくさんいます。グラーノ、あなたはシェルマットの村しか知らないのですね。だからリラの幼さに怯えているのですか」
「俺、は」
そこで、ニールがグラーノの目蓋をそっと下ろす。光を遮断されたグラーノはやがて呼吸を落ち着かせる。そしてゆるゆると語り出す。
「リラのことは、生まれた頃から知っている。リラがまだ言葉も話せないうちに、村には俺たちだけになった。俺はあいつの親になるしかなかった」
「立派なことです」
「俺は分からない。親子の関係になった二人が、いつか夫婦になることなど想像できない。リラは俺とあまりにも違う。身体は小さく、肌は繊細で雪のようで、いつも遠くを見ていて、起きながら夢の中にいるかのようで」
「グラーノ。冬守りにとって最大の武器は時間です。長い時間をかければ人と人の関係性は変わる。リラが子供でなくなれば、あなたの悩みは消えるか、少なくとも変化は起きるはず」
「うう、お、俺は」
「ごくありふれた悩みね」
足元にギンワタネコがいる。ニールはそちらに視線を向ける。ギンワタネコは女性のように背筋を伸ばして高く構え。口は声に合わせて動いている。
「当人にとっては大きな問題でも、リラの異言とは関係なさそう。リラに起きてることはこの男が原因ってわけでもないみたい」
「ドナ。私はこのような悩みを解決するのが使命です」
「簡単な話でしょ。クロノガレルって街はさほど遠くないのよ。銀環の道は途中までは雪がどけられているし、十分に歩いて行ける。グラーノは街に行ってお嫁さんを探せばいい。リラもいずれはね」
「う、ぐ」
グラーノの全身が震える。ニールはその様子に注意を向ける。
強い感情が彼の中でせめぎ合っていると感じる。怒りとも悲しみともつかない混濁した顔。その顔に脂汗が浮かんでいる。
「グラーノ、どうしました」
「わ、わから、ない」
「分からない……」
「夢現の術は万能じゃないわ。無意識の領域まで降りられるけど、そこは溶けた言葉しかない沼のようなもの。当人にも理解できない概念、言語化が難しいような複雑な感情までは明らかにできない」
「グラーノは何か、複雑な悩みを抱えているということですか」
「自分が何に悩んでいるのか分からない。人の世にはよくある事よ。術を使ってもたどり着けない心の深淵ね」
ドナの発言にニールは唇を噛むが、ドナとやり合っている場合ではなかった。グラーノは全身が激しく震え、涙や涎が流れてきている。そろそろ限界のようだ。
「うつろいし心に錠前を、刹那の舞台に暗幕を」
眉間にあてていた剣を引き、正中線に沿って斬る真似をする。グラーノは目を閉じたまま眼球周辺の筋肉を激しく動かし、自重で沈み込むかのように座る。
そして目を開けて、落涙を伴うまばたきをする。
「う、い、いま俺は」
「グラーノ、大丈夫ですか。急に意識を失いかけましたよ」
「そ、そう、か……」
「働きすぎていますね。今日はもう戻ったほうがいいでしょう。丸太の固定については私がやっておきます」
「わ、わかった……」
頭を押さえ、頼りない足取りながらも村へ向かう。
その背中を見送って、ニールは山の方を振り仰ぐ。
天を突く三叉の槍。霊峰スワニエルは厳としてそこにある。細かな起伏のいくつかが雪に埋まり、より純粋な白無垢に近づくと言われる姿。
「どうするのニール。もう一度リラと話をしてみる? 夢現の術をかけてもいいかもね」
「山に行ってみましょう」
「え?」
ギンワタネコの姿は一瞬後に遥か後方に。
走るというよりごく低空を飛ぶような動き、一歩で数メートルを滑るように走る。
近づくごとに山は高くそびえ、のしかかるような威圧を備える。
村から1500メートルほど移動。雪崩の起きやすいと聞いていた地点の手前で立ち止まる。
ミルクのような白の壁。千メートルほどの高さまで伸びる垂直な壁。
実際には傾斜があると思われるが。陰影のない白の壁は起伏の程度を測れない。
ニールは視線を左右に動かす。生きて動いているものはない。時間が停まったように風景だけが広がっている。
「リラは、何を見ていたのでしょうか」
剣を抜く。そこには刀身がある。蜃気楼のように揺らぐ刃。向こう側が透けるような銀色の刀身。それを山にかざす。
「形のないものに姿を。定まらぬものに循環を。ありえざる者にかりそめを」
意識を深みに落とす。五感のささやきのすべてに意識を傾け、この場で自分は何を感じているのかを知ろうとする。
繰り返される言葉の中で感覚は鋭敏になっていき、普段は切り捨てている極小の感覚が拾い上げられる。
「現し世には儚き夢を、まどろみの中に真を……」
かち。
「……ん」
かち。
かち。
聞こえる。
金属の触れ合う音。普段は生き物の意識には上らない、蟻の足音にも似た音。
ニールは壁に向かって歩く。足はほとんど沈まない。雪が硬いのか、それともニールは綿でできた人形ででもあるのか。
音は明確に聞こえだした。歯車の音。調速機の音。高速で動くバネ細工の振り子が奏でる音。
白い壁に近づく。表面には霜のようなものが張り付いている。ニールは慎重にそれを落とす。
現れるのは、木の樽。
氷の壁に半ばまで食い込み、さらに透明な氷の奥から響く、時計の音。
樽の一つは人間の頭ほど、それが何十も数珠つなぎとなって並んでいる。
そして時計の音。雪が吹き付け、霜に覆われ、ついに氷に閉ざされてもなお、鳴り続けている時計の音。
機械は、氷の奥に。
仕掛け時計に連結された、何十もの樽。そして、この不穏な匂い。
「……火薬」




