第二十九話
どこからか斧の音が響く。ケーンと甲高く鳴く鳥の声のように、鋭い音が山に反射している。
白銀の峰に囲まれた山道。雪に覆われておらず、軽鎧に身を包んだ人物は土を踏みしめて歩く。鎧にはところどころに赤い布飾りがあり、背負った巨大な背嚢にも赤布の飾りがあった。その人物が騎士であり、何らかの儀礼的な存在のように見えただろうか。
正面に見えるのは霊峰。天をおびやかす矛のように切り立った山体。澄んだ空気の中で神々しく輝く。
斧の音が響いている。冬守りは懸命に生きているようだ。
「シェルマットの村は山岳の村。王の勅命によって作られた村なのよ」
こんな山道にもギンワタネコはいる。道の端で石の上にうずくまっており、軽鎧の男はしばし足を止める。
「その使命は霊峰スワニエルをぐるりと巡る道を造ること。この付近の山脈に道を築き、特に西方のダルワイヤと南方のノルザールを結ぶ交易路を開拓すること」
「サーキュ・スワニエル。銀環の道と呼ばれる通商路ですね。50年以上かけて造られたとか」
「そう。数年程度の冬が降りることもあった。その間も工事はえんえんと続いた。永い冬でもその偉業は完全には失われていない」
「土が露出しているのは素晴らしいことです。冬守りが雪をどかしているのでしょうか」
軽鎧の男は男女の声音を使い分けて話している。うずくまっていたギンワタネコは、物珍しそうに男を見上げた。
「重大な使命はもう一つある。遠くに見える山があるでしょう。あれが霊峰スワニエル。8000メートルに迫る巨大な山体は風の通り道にある。高空をゆく風は常に湿っていて、山の上にたくさんの雪を降らせる。濡れた紙を張り付けるように雪は厚みを増して、ある瞬間に自重に従って山肌を滑り落ちる。シェルマットの村は山を見張るための村でもある。つまり」
「つまり」
ギンワタネコは石を降り、軽鎧の男のそばを歩み去っていく。その背中に向かって男の腹話術がこぼれる。
「あの山はね、雪崩の巣なのよ」
※
盾を持つ村。
そんな比喩が浮かぶ。
村の北方。霊峰スワニエルに面した方向に大きな壁が見えるのだ。
軽鎧の男、越冬官のニールは南側から村に向かう。30ほどの建物がまばらに存在しており、西側と東側は緩やかな登りの斜面になっている。深めの皿の中に村があるような眺めである。
村の中央に進んでいくと、物見のやぐらがあり、その上に人影が見えた。
「もし、どなたかおられますか」
「え?」
上から顔を出すのは女性。ごく幼い。まだ10にも満たないだろうか。光を透かす金髪と、白いローブのような衣装を着ている。
「あ、もしかして越冬官さま? あれおとぎ話じゃなかったんだ」
と、やぐらの上から頭をずるりと出し、はしごに逆立ちの姿勢で捕まる。
そのまま摩擦を効かせ、ずるずると一気に滑り落ちて、2メートルほどの高さでバク宙を切り、足から着地。
その民族衣装は雪のように白く、襟元と裾の部分を深紅の紐でかがっている。小柄なことも相まって、妖精のように軽やかな印象がある。
「あたしリラ。よろしく」
「はい、私は越冬官のニールといいます。ですがリラ。今の降り方はよくありませんよ。たとえ慣れていても、何百回、何千回かに一度は失敗して頭から落ちるかも」
「やだなあ、いきなりお説教?」
リラはぴょんぴょんとその場で飛び跳ね、ぐるん、といきなり後方に宙返りを行う。身が軽いところを見せたようだ。
「ね、ね、越冬官さまって王都に行ったことある? 大都会とかは? サーカスって見たことある?」
「リラ、まずはあなた以外の冬守りをご紹介いただけませんか」
「グラーノならしばらく帰ってこないよ。谷底の森まで木を取りに行ったから」
ケーンという甲高い音はまだ届いている。かなり遠い音だが、今日は驚くほど空気が静まっているようだ。冷たい空気が、何にも邪魔されることなく音を届けている。
「リラとグラーノ、冬守りはこの二人だけですか?」
「そーだよ。お父さんとお母さんは死んじゃったからねえ。グラーノの親も私が生まれるよりずっと前に」
「そうですか……分かりました。ではまず、食糧庫の確認を」
「うん、こっちこっち」
と、手を引いて歩き出す。身長は120と少しという程度、まだ男女の性差も強く出ていない時期、純粋な子供としての明るさや鮮やかさを備えた人物だった。
そのリラが、ふと振り向く。ニールの背負っている大きな背嚢に視線が注がれた。
「越冬官さまも力持ちだねえ。それ100キロ以上あるでしょ」
「慣れていますから」
「ふーん。でもま、グラーノほどじゃないけどね」
少女は奥歯だけを噛むようにはにかんで笑い、そしてニールの手を強く引いた。
※
山あいにある労働者の村。建物は簡素ではあるが石材を多く使い、食料個も石造りの頑丈なものだった。中身も思いのほか充実している。
永い冬が始まってかなり経っているが、貯蔵庫には食料を詰めた大樽が並び、調味料や砂糖などもふんだんにある。これ以外にも雪を詰めた氷室が複数あり、獣の肉などが保存してあるという。
「とても立派ですね。冬に入る前に用意されたものでしょうか」
「ううん。グラーノが頑張ったみたいだよ」
温室もあった。大小四つ。家畜や野菜などが育てられ、わずかだが小麦の畑もある。
燃料となるのは黒槍樹の他に石炭と泥炭。あわせて小屋にして三棟分の量がある。
村の家は窓に銅板が張られ、戸口には石が積まれている。風雪に耐えるためだろうか。
「村の保全も万全にできています。グラーノという方はとても優秀な冬守りなのですね」
「えへへ、そうかな」
と、なぜか自分が褒められたかのように照れるリラ。
「いちおう、数日かけて村を見て回らせていただきますが、この分なら大きな問題は……」
ふいに、北側に目を向ける。北方にある壁のために、村から霊峰スワニエルが完全に隠れている。
「お聞きしてもよろしいですか。あの壁は何のためにあるのでしょうか。雪崩に対する防御でしょうか」
「うん! グラーノが作ったんだよ! すごいでしょ!」
リラは大きく伸びをしながらそう言う。
「そうだ! もっと近くに見に行こうよ!」
手を引かれて壁の方に向かう。近くにあるかと思ったが、村からは50歩も離れた場所だった。それほどに大きなものなのだ。
真下に立って見て、ニールは感心を顔に出す。一つ一つの丸太は3メートル近い高さがあり。50本以上が隙間なく並べてある。丸太の根元は石とモルタルで固められていた。
丸太同士は木の板と釘で連結されていたが、その事には首を傾げた。雪崩に耐える壁にしては、丸太同士の連結が板と釘というのは少しお粗末である。
「そうですね。この部分は少し直したほうが良いかもしれません。グラーノという方と相談を」
「あ、グラーノ!」
リラがその場で飛び跳ねる。1メートル近くもジャンプして、一枚布の服が蝶の羽のようにはためく。
その人物は、壁の東側から斜面を登ってくる。角度で言えば20度を超える斜面だが、その人物は両のつまさきを地面に食い込ませつつ、ぐいぐいと登ってくる。
そして驚愕すべきは丸太を背負っていたことだ。枝を落として樹皮を剥がした状態の丸太である。
(……長さにして4メートル弱。太さ30センチ近い丸太。杉材のようですが。重量はおよそ180キロ。あるいは200キロ近い重さがあるはずですが)
その人物は岩か山か。
分厚い筋肉と節くれだった手足を持ち、肌は真っ赤に熱を持ち、静謐な山の冷気の中で湯気を放っている。顔つきは厳しく、短く刈り込んだ髪は黒い。頬の肉が引き締まって見えるのは日常的に歯を噛み締めているためか。
上を見ている余裕はないらしく、まだニールには気づかない。鉄の鋲が打ち込んであるブーツが確実に地面を捉える。丸太の重さで仰け反りそうになるはずだが、腹筋を引き締めて耐えているのか。
やがて数十メートルの斜面を登りきり、丸太をどしんと置いた。
「グラーノ、おつかれー」
「ああ、リラか、なぜ壁のところ、に」
そこでニールと互いに見つめ合う。ニールの見立てでは肉付きの割に若そうに見えた。20手前というところか。年齢の割に膨れ上がった筋肉を持ち、骨も太く思える。服装は簡素な麻の上下。肘から先を覆うのは牛革のグローブ。腰には手斧をさしているが、これは木を伐るためのものではなく、枝を払ったり樹皮を剥がしたりといった作業に使うものか。
「リラ、そっちの男は」
「うん、越冬官のニールさん。村を案内してたんだ」
「案内、そうか」
「えへへ、貯蔵庫とか温室とかべた褒めだったよ。グラーノの仕事だもんね」
「ええ、そうですね」
と、ニールもリラに笑いかける。
「リラ、俺は少し越冬官さまと話がある。先に村に戻っててくれるか」
「話? うん、いいよ」
と、リラは村への道を跳ねながら降りていく。重力のくびきなど無いかのように足取りは軽く、あっという間に村の町並みに飲み込まれて。
その姿が見えなくなった瞬間。グラーノが勢いよく右手を振り抜き、わずかに身をかわすニールの脇、丸太の一つに手斧が食い込む。
「そこを動くな」
大股で踏み込んでくる。
ニールは軽く飛ぶように後退する。今いた空間を熊のような手が掴む。
巨大な背嚢を背負ってはいるが、着地音がしないほどに柔らかい跳躍、グラーノから一定の距離を取って離れる。
グラーノは丸太に刺さっていた手斧を抜き、大上段から振り下ろす一撃、だが動作を起こす前にすでに間合いから逃れている。
ニールの目に動揺はない。動きは完全に素人である。しかし鎧や服の裾を掴まれるのは危ういので、やや大きく逃れる。
「くそ、逃げるな」
「落ち着いてください、何か、私が気に障ることをしたのでしょうか」
「白々しいことを、リラを狙っているんだろう」
空白。
はっと気づいて後退。眉間を手斧がかすめる。回避が遅れかけた。
「拐かして連れ去って、お前の嫁にする気だな」
「ええと」
ニールは。この常に表情を変えない青年にとっては極めて珍しいことだが、困惑の声を漏らす。視線を左右に動かす。ギンワタネコがいないか探しているのだが、グラーノにそれは伝わらない。
「リラは子供ですよ」
「それがどうした。すぐに大きくなる」
大柄な体で踏み込んできて斧を振るう。暴風が吹きすさぶような横薙ぎ、稲妻が落ちるような振り下ろし、ニールは壁にそって逃げる。腰の剣は抜こうとしない。元より刀身のない剣ではあるが。
「その、誤解です」
「何が誤解だ」
「私、妻がいますから」
びた、と斧が止まる。
「なんだと、ではなぜシェルマットに来た」
「越冬官としての務めを」
「越冬官だと?」
斧を腰に収める。
「お前は越冬官だったのか。おとぎ話かと思っていた」
「先ほど、越冬官と話があるとか言われてませんでしたか?」
会話が何段階かすれ違っている。
どうやらニールとリラが一緒にいるのを見てからはほとんど反射で動いていたらしい。岩のようにいかつい面相なだけに、その顔が混乱に染まっていたのが分からなかった。
「まあいい、シェルマットの村には何の問題もない、早く務めを果たして出ていけ」
「グラーノ。何か不安があるのですか」
数秒の空白。
体は見上げるほど大きく、腕周りはニールの腰ほどもある巨漢、それがわずかに動揺することをニールは見逃さない。
「何もない」
「この丸太の壁、立派なものです。私の見たところ、霊峰スワニエルからの雪崩が押し寄せても耐えられるでしょう」
ニールは丸太の壁をこんこんと叩く。音は低く重く、かなり深くに丸太を埋めていることが分かる。
「つまり不安は雪崩ではない。食料でも燃料でもない。だとすればリラでしょうか。彼女に何かあるのですか」
「……」
沈黙。
だがそれは完全な拒絶ではないと感じた。グラーノは何かを言うべきか否か悩んでいる。その目には慎重さと熟考と、わずかに不安と怯えの色が。
「……いや、何もない」
くるりと背を向け、村へと降りていく。
ニールはふうと息をつき、丸太の壁と、霊峰スワニエルを見る。
ふと気づいた。丸太の上にギンワタネコが寝ている。丸太同士を連結する板を足がかりに登ったのか。
「ニール、結婚してたんだ。初耳だわ」
「……私もです」
ニールもまた村へと向かう。
霊峰スワニエル。
白銀の矛とも呼ばれる山は何万年も変わらない勇姿を晒すように見えた。それが雪崩の巣であるとしても。
章タイトルの読みは「つばさひろげしやま」です




