第二十八話
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骨が。
骨が、熱い。
背骨が焼けた炭に変わり、内臓が真っ赤に燃え上がるような。
暗闇の中で、熱だけを感じている。
危機感は遠かった。柔らかな火、穏やかな火、そんな形容しようのない熱にあぶられる感覚。
四肢の先に、指先にまで熱が染み通り、汗にまみれる感覚とともにはっと目を覚ます。
かすむ視界。白い天幕の中にいる。土の上に寝かされている。
自分を覗き込む、小柄な女性。
「セルバン、大丈夫?」
手が動いていた。
その人物がドロワと気づく瞬間に体を引き寄せ、抱きしめる。ドロワも驚く声を上げたものの、しばらくされるがままになったあと、ぎゅっと抱き返す。
「セルバン、ごめんね、心配かけたよね」
「いいんだ」
抱きしめたまま上半身を起こせば、そこはテントの中だった。子供なら中で歩き回れるほど大きな天蓋。だが天井は低く、平べったい形をしている。絨毯の一つも敷かれておらず、地面からはうっすらと湯気が上がっている。
セルバンは己の体を確認する。手足が壊死していたりはしない。簡素なズボン一つだけを着せられている。
驚くほど暖かい。地の底から熱が登ってくる。寝かされていた両手両足は、今までの人生で無かったほど熱を持っている。暑い、という言葉を久しぶりに思い出す。
「ここは何なんだ?」
「村の人は地湯って呼んでる。地面を掘り下げると熱くなる場所があるの」
「村……やはり、そうなんだな、ドロワ」
「うん、セルバンも気づいたんだね」
連れ立ってテントを出れば、そこには人の姿がある。
いくつかの木の小屋と、編み物をする老婦人。走り回る子供。みな服は着込んでいるが、足はサンダル履き。永い冬にはありえない履き物である。
左方を見上げる。そこには赤茶色の山があった。ベルネルク・アルクの町からいつも見えていた山。
動いている。
そう感じた。この山は動いている。とてつもないエネルギーを蓄えて動き続けているのだと。その山体には雪はまったく積もっておらず、まばらに草があるだけで、木は一本もない。
「赤ん坊のようだな、生まれたての赤ん坊……」
「うん、私もそう思う。これは山の赤ちゃんなんだよ」
ドロワもまた山を見つめていた。どことなく陶然と、その力強さに胸を打たれるような目で。
「この山はね、火の山なんだよ」
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村の名はベルネルク・フラム。
ベルネルクの火という意味である。村の名であり、山の名でもある。
村の人口は15人ほど。どこかから流れてきた冬守りもいれば、村で生まれた子供もいる。はるか昔、セルバンが生まれる前にベルネルク・アルクから渡った村人もいるそうだ。
村の産業は漁業と農耕。畑の土は赤茶色であり、岩から土に変わりかけてる印象だった。あまり肥えてるようには見えないが、それでも薬草や根菜が一面に植えられている。
「地熱があるんだ。土は凍ってなくて野菜が育てられるし、ニワトリも飼える。湧き水もある」
農作業をしていた若者と話をする。
山に近い位置では地面が常に熱を持っており、何か所か温泉の湧いている場所もある。土地は痩せてはいるが、村の全員が飢えない程度に収穫がある。
セルバンを助けたのは漁師の老人だった。泳いでいるセルバンに気付き、投網を投げてその体を引き寄せた。裸だったのでたいそう驚いたらしい。その老人の前でセルバンは深く頭を下げる。
「本当に、なんと礼を言っていいか」
「気にするな、あんたの頑張りが運を引き寄せたのさ。凪でもねえのにあそこまでよく来たもんだ」
村の全員と挨拶を交わす。誰しも気さくで、セルバンを歓迎しているようだった。あとで集会を行うから来てほしいと告げられる。
二人は高台へ。ほんの数メートルほどの丘だが、火の山はよく見える。なぜかここにも銅の鐘が吊られていた。大昔に誰かが作ったらしい。
「ごめんねセルバン。私は、この山が気になって仕方がなかった。どうしてもこの目で見てみたかった」
「ああ、分かるよ」
あの絵。
ものの形を正確に捉えようとする絵。あの絵において重要なのは対岸の山だった。
何年も同じ絵を描き続けて気づいた。この山は、肉眼ではほとんど分からないほどではあるが、動いていると。
「山が生まれたのは冬が始まってからなんだって。たぶん最初は盛り土ぐらいの大きさで、何十年もかけて少しずつ育ったんだよ」
丘の上にはイーゼルが置かれている。ドロワはこの土地でも絵を描いていた。
やはり海藻から紙を作り、仰ぎ見るように火の山をいっぱいに収める構図。ただ違うのは、今度の絵は全体に木炭でマス目を描き入れている。このマス目は定規を使い正確に書かれている。
「山の記録をつけてるのか」
「うん。同じ場所、同じ構図で。やっぱり少しずつ大きくなってる。ときどき岩が落ちそうになってたり、蒸気が噴き出すこともあるの。男の人達がそこへ行って異変を確認してくる。そういう役目なの」
ドロワは絵を描く。前と同じくにかわを混ぜた墨。慎重に形を確かめ、ゆっくりと描く。
セルバンはその背に向かって言う。
「……動いているものには力がある。力とは熱だ。ドロワ、お前は山を描きながら熱を感じていたんだな、この火の山の熱を」
「うん、強い力があるなら、きっと人もいるはずと思ったの。もし人がいるなら、いつかセルバンを迎えに戻れるかもって」
ドロワはそう言ったが、セルバンの受けた感覚とは違っていた。
ドロワは動くものに引かれている。そしてセルバンは動いていなかった。ベルネルク・アルクの町で、毎日たんたんと役目をこなすだけの日々だった。
端的に言えば。ベルネルク・アルクにいた頃の自分は、ドロワにとって退屈な存在だったのだ。
だから、捨てられた。
ドロワがそういう言葉を意識していたかは分からないが、セルバンはそう自覚している。
ーーだが、今は。
「俺は知ったんだ。永い冬はけして死の時代じゃない。あらゆるものが力強く動いている。風も、潮流も、山も、星すらも」
「うん、そうだね」
「そして、俺たち人間もだ、ドロワ」
その言葉に、ドロワはぼんやりとした表情で振り向く。
セルバンは曖昧に笑ってみせた。
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「問題がないわけじゃないんだ」
セルバンを交えて、ちょっとした話し合いの場が持たれた。議題は村の現状と課題。セルバンに村のことを伝えるための会議でもある。
村のまとめ役であるという男は言う。
「あの山は確かに地熱という恵みを与えてくれるが、成長し続けている火の山でもある。いつ噴火を起こすか分からない。そうなればどれほどの被害になることか」
子どもも老人も、村の全員が集まっている。全員が自分なりの真剣さで話し合いに参加する。
「火の川が流れ出してすべてを焼き尽くすかも知れない。あるいは大量の岩が降り注ぐか、有毒な煙が噴き出してくるか。だが山から距離を取るわけにもいかないしな」
「家畜は少し離れた場所でも飼えるだろう。ゴーなら寒さにも強い、どこかで野生のやつを見つけてこれないか」
「家を補強したいんだが、こちら側には黒槍樹が見当たらないからな。海峡を渡って苗木だけでも持ってこれないもんか」
「山の観察はドロワさんに続けてもらってる。噴火の兆候だってきっと分かるはず」
「橋をつくるのはどうだろう」
セルバンが提案し、皆の視線が向けられる。
「対岸といつでも行き来できるようにするんだ。俺は冬守りとしてベルネルク・アルクを保全する仕事も続けたい」
「対岸まで2キロはある。とても無理だよ」
「桟橋のようなものでもいいんだ。海峡を渡る助けになるはず」
大きなテーブルの上に海峡の地図がある。セルバンはその中心に指を置く。
「ベルネルク海峡は砂時計のようにくびれた地形だ。狭いポイントに南北からの氷が殺到してる。海峡の両岸に黒槍樹で桟橋を作って、そのくびれをさらに細くする。より氷が集まれば、海峡全体で氷が固定されて安定するかも知れない」
「なるほど……だが橋を作るなら杭打ちが必要になるな。海底の地形が分からないことには」
「俺が潜って調べよう。アザラシの革で全身を包む服を作る。それなら長時間潜れるはずだ」
それをきっかけに、何人かが声を上げる。
「それなら海峡を埋め立てたらどうだ。これだけ人数がいればできるだろう」
「俺は考えてたんだが、火の山に溝を掘るのはどうだろう。一直線で海に流れる溝だ。山が噴火したとき、溶岩が溝を通って海峡に流れ出て、固まって陸地になるかも」
「頑丈な船を作るのが現実的じゃねえのかい。鉄板で補強した船なら流氷も怖くねえ。南方の海を通って対岸に行けるはずだ」
喧々諤々、議題は幅広いものになり、無数の言葉が飛び交う。セルバンにはまだついていけない話が多くなり、ふと脇にいるドロワを見る。
「人間は、強い生き物だよな」
「ん? そう?」
「ああ、永い冬でも変わらない活気があるし、永い冬の中で大きな変化を起こすこともできる。俺たちには無限の時間があるし、今は数という武器もある。俺たちがベルネルク海峡を征服するんだ。いつの日か、きっと」
「うん、いつかできるよ、きっと」
セルバンは横にいたドロワを抱き寄せる。
大勢が集まっている中ではあったが、二人は気にしない。永い冬では社会の堅苦しさが薄れていたためでもあるし、皆が意図的に目を逸らしたためでもある。
セルバンはより強くドロワを抱きしめて、熱と搏動を感じようとする。
ドロワもそれを返した。セルバンの中に生まれていた搏動を聞こうとしているのか、耳を胸につけて抱きしめる。
そのまま二人は溶け合って、互いを感じ合って。
いつの間にか集会所から二人以外は居なくなって。
そのまま二人は、より熱く。




