第二十七話
それは怪物の顎のごとく。超常的な存在の合掌のごとく。南北からの流れが押し寄せ、大質量を破壊と混沌に堕とす海峡。セルバンが歩くのは北側である。
南側の氷は山型が多く、対して北側の氷には平たいものが多い。これは、南海から流れてくる氷は海の水が直接凍ったものであるのに対し、北側の氷はもともとは陸氷だったからではないかと考えていた。
北の大地に雪が降り積もり、それ自体の重みにより圧縮され、パンケーキの生地のように平たく広がってゆく。そして斜面に沿ってゆっくりと流れ、海に差し掛かると割れて漂い始めるのではないか、と。
氷に乗る練習は何度もやっている。靴底のスパイクはしっかりと氷を捉えていた。
重要なのは氷を選ぶ目である。
氷は大きなものなら家の屋根ほど、小さなものならたらいの大きさまで。ある程度の体積がなければ人が乗ることに耐えられず、乗れたとしても傾いて人間を放り出すだろう。氷を選ぶ場面は何度もあり、次の氷、次の次の氷を意識して進む。
背嚢は肩に食い込むほど重い。荷物は削ったつもりだが、対岸についてからの生存を軽んじることもできない。それに重量は助けにもなっていた。より大きな体重で踏みしめるほうが滑りにくくなる。
「いける……普段より氷が詰まっている。一つ一つも十分に大きい」
すでに500メートルほど進んでいる。氷の間隔はまちまちで、ほとんど接触しているものもあれば、30センチほど離れているものも。それ以上に離れている場合は決して渡らない。
背嚢を背負って幅跳びをしたことはない。というよりも、跳躍で渡る行為は危険過ぎてやれない。ひとまたぎで渡れる場所を探して進む。
すぐそばで氷ががりがりと削られている。波しぶきが防寒具にかかる。とてつもなく大きな力が足元の流氷を動かしている。
「ドロワは言ってたな……動いているものは魅力的だって」
乗ってみて実感することもある。氷の大きさというものだ。
流氷は、見えている部分よりも海中に沈んでいる部分のほうがずっと大きい。乗ることによる上下の揺れはごくわずかである。セルバンが思っていたよりも氷の浮力は大きい。
そして、そのように巨大な氷を動かす潮の流れも感じる。数百の巨獣に引っ張られるように超重量が動いている。その力強さを意識する。
「陸では、分からなかったな……こんなに、すごい力で動いていたのか」
もし海に落ちたなら、氷に挟まれたなら、人間など枯れ葉を握るように一瞬で砕けるだろう。
それ以前に、この極寒の海に落ちてどれだけ生きていられるか。
中ほどを過ぎる。
風は強くなっている。わずかな凪の時間が終わりつつあるのだ。流氷に宿る力が増していく。氷同士が乗り上がって互いに砕ける音が響く。
「くそ、安定が……」
氷が揺れる。体に感じる風だけではない。海流の複雑なうねりが氷を揺らしている。
脇を見る。氷がぶつかり合うポイントが近い。北側に少しずつ移動しながら前進する。
「対岸の様子はよく見えないな……氷があればいいが、もしも……」
その時。
ごおんという音が響く。とっさに氷の上に膝をつく。
「! 何だ!?」
海中からの音だと理解する。があん、ごおんと小屋ほどもある氷がぶつかる音だ。そしてすべての氷が揺れ動いている。悪い予感にざわめくかのように。
「地震か? こんな時に」
だが違う。何かが。
力を感じる。
轟音が迫る。想像もできない重量の氷を、海水を、海流のうねりすら動かす圧倒的な力。それがセルバンの真下を通る。
力そのものを見る。巨大なものが南側より迫り、そして浮上してくる気配。氷を押しのけ、背中から潮を噴きながら。
「ーー鯨!」
一瞬、重力が消えるほどの揺れ。氷にしがみつくように身を伏せる。天に伸び上がる様子がいつまでも終わらないと思えるほどの巨体。黒の怪物。
海がひっくり返される感覚。セルバンが乗る氷が大きく傾いて他の氷に衝突する。巨影は垂直に近いほど大きく立ち上がって、背から潮を流しつつ水面に倒れようとする。
その眺め、巨体が海を打つ瞬間に死がよぎる。数十トンの胴体が海を割り、氷を砕き、波が立ち上がり、積み木の町を巨人の手が払いのけるような衝撃。
何がどう動くのかセルバンの主観で追えない。ひたすらに伏せて耐える時間が永遠の長さに思える。
やがて。
セルバンが目を開いたとき、すでに鯨の姿はなかった。はるか南の海から来た怪物は、北の入り海、ゾーレ湾へと去ってしまったのか。
「か、はっ……」
セルバンは実物の鯨を見たことがなかった。何十年も冬守りをしていて、三年も海峡を描き続けても一度もない。
立ち上がる、しばらくは茫然として動けない。眼球がぶるぶると振動し、内臓が上にせり上がる感覚。
セルバンの心にあったのは不運を嘆く心でも、死に限りなく近づいた恐怖でもなかった。
搏動している。
心臓が早鐘を打っている。煮えたぎるような血液が全身を巡っている。
あえて言葉で言うならば、感動。
あの鯨には凄まじいエネルギーがあった。極寒の海峡でも、永き冬の時代でも悠然と生き続ける支配者の威厳が。
そしてこの海峡も生きていると感じた。その海流を、吹きすさぶ風をエネルギーだと感じた。五感ではない何かの感覚器が開いて、鯨の余韻を吸い込もうとする。全身で風を感じ、靴底から海を感じる。
そして、震える眼球がようやく治まってきたころ。
「海が……」
目の前にあるのは幅広い海だった。氷のない海の姿がある。
対岸から風が吹いている。そのため流氷全体がセルバンのいる側、つまりベルネルク・アルクの町がある方角に押されているのだ。
悪いことには鯨の出現が状況を変えていた。セルバンの北側でかなり広範囲に氷が押し退けられ、流氷にぽっかりと空白地帯ができている。
いま乗っている氷は、やがて流されて南側からの氷とぶつかるだろう。北に移動せねばならないが、移れる氷がない。氷を次々と乗り継いで、風向きが変わるか氷が増えるのを待つことができない。
もし氷がぶつかり合う地点まで流されれば、そこには絶望しかない。のしかかる氷、砕ける氷、人間が生存する余地はないのだ。
だが、セルバンは。
目から光が失せていない。頬は熱く上気し、ちらつく雪は頬に触れると湯気に変わるかに思える。
「……行くしかない」
背嚢を下ろす。
その中から取り出すのは金属の缶。内部には半練り状態になった、アザラシの脂肪。
服をすべて脱ぎ捨てる。防寒のための毛皮も、貴重な綿の肌着も、靴や手袋もすべて脱ぎ、脂肪を全身に塗る。届く範囲のすべてに、口腔や耳の中にも。
足から水に降りる。雷に打たれるような冷たさ。だが体は動く。
脂肪が熱の浸潤を遅らせる。ゆっくりと水をかき、熱を奪われぬように進む。
氷点下に近い海で、人間はどのぐらい泳げるのか。
数分で死亡するという者もいれば、慣れているなら30分程度は泳げると主張する者もいる。
セルバンはそのような知識を持たない。冬守りであっても、冬守りであるからこそ、海で泳ぐなどという行為を試みたことはない。泳ぐという動作すら生まれて初めてのこと。もしわずかでも冷静さを欠けば、水中での姿勢を作れずに溺れただろう。
陸地は遠い。ほんの数十メートルのはずなのに無限の長さに思える。顔を打つ波が激痛に変わる。手足がとても遠くにあるように感じて、この場の現実感が失われる。それでいて心臓に迫る冷気の刃をありありと感じる。
ドロワ。
凍えゆく中で、一つの名を思う。
彼女はいつも絵を描いていた。幼くて華奢な印象で、ちょっとしたことで大きく喜びを表現した。くるくると踊るような仕草をよく覚えている。
ドロワの絵。白と黒で表現される海峡の絵。積み重なっていく手漉きの紙。
ドロワがドアを開けて入ってくる。胸の中で丸めていた紙を広げ、セルバンに見せつける。
ドロワは笑っている。出来栄えを誇っている。己の描いたものに夢中になっている。
セルバンは微笑ましくそれを見る。
いつもと同じ絵、いつも明るくて、少女のようなドロワ。その日々が永遠に続くように思われて。
(違う)
そんなはずがない、と、そんな思考が頭をかすめる。
自分はずっと分かっていた。
ドロワが少しずつ成長していることを。
あの絵が同じ絵などではないことを。
(すまないドロワ。俺は目を背けていた)
水をかく。陸地は近づくようでもあり、遠のくようでもある。
(お前が変わり続けていることも分かっていた。1日たりとも同じ日などないのに、お前が変わらずにいると思い込もうとした)
手足が動いているかどうかわからない。冷たさだけを感じている。
(お前を見るのが怖かった。お前が何を見ているのかを知ることが怖かった。俺が変わらない男だったから。お前が変化を、動きを望む人間だったから、俺ではお前を満足させられないと思えて怖かった)
氷が。
(ドロワ、お前は俺よりも、ずっと力強くて……)
流れてきた氷が頭を打つ。
そして意識は、泡のように消える。




