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次の冬ごもりは百年  作者: MUMU
第五章 搏動せしもの
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第二十六話



越冬官は町を去った。


また来るとも言わず、ただ雪に覆われた山へと去ってしまったのだ。


奇妙な男ではあったが、誠実さは感じられた。彼が再会の言葉を交わさずに去ったなら、もう二度と会えない、ベルネルク・アルクの町を訪れることはない、そういうことなのだろう。


セルバンはまず冬守りとしての仕事をせねばならなかった。町にこびりついた雪と氷を取り払い、越冬官に指摘されていた箇所を補修し、黒槍樹ジンガルの森の塩抜きをする。


森に穴を掘って、人肌ほどの湯を流す。この作業を定期的に、何年も続けるという。

町から湯を運ぶのは手間なので、森の近くにかまどと金属の容器を用意し、溶かして湯に変えるための雪を積み上げておく。


ここ半年、ほとんど世話がされてなかった温室は荒れ放題だった。涙ぐましくも生えてくる雑草を処理し、枯れかけていた野菜には水をやる。完全に元の形に戻るには数年かかるだろうが、大きな問題ではない。種の備蓄はあるのだから。


他にも有形無形、さまざまに町の面倒を見て、そこからようやくドロワのことに取り組む。


まずドロワの持ち物を調べることにした。彼女は民家の一つに自分の部屋を持っており、私物はすべてそこにあったが、日記や書きつけのたぐいは見つからない。


「本がかなりあるな、字は読めたのか」


そこで自分を戒める。自分はドロワが文字を読めることも知らなかった。


ドロワが親からどんな教育を受けていたかは分からない。ドロワの両親は彼女が5つか6つの時に死んでいた。その両親がどんな人物かも知らない。

反省すべきだと思った。当時セルバンは十歳を越えていたのに、ドロワの両親のことをほとんど知らなかった。他の冬守りのことも。


本棚を探る。物語や詩の本が多い。他には天候の本、地理の本、薬草学の本、服飾、料理、それに画集と、絵画技法についての本。


「たくさんあるな……絵画の教本だけで10冊か」


絵が好きだったのだと、あらためて思う。

しかし、だとすればドロワの描いていた絵は不思議だと感じる。彼女はずっと同じ絵を描いていたのだから。


教本の内容は水彩画、油絵、鉛筆での素描などである。ドロワの描いていた独特の絵、墨の線を指や小枝で引くような技法はどこにもない。


素描も見つかる。棒状の木炭でわら半紙に描かれたスケッチである。古びた椅子、道端で拾ったような小石、ドロワ自身の左手も。


「うまいな……これだけ描けるのに、なぜ油絵や鉛筆画を描かなかったんだ?」


絵の具もあったが使われていない。もっともこの絵の具はどこかの民家から持ってきたものだろう。厳密には「魔法の本」に入っている市民のもので、冬守りの所有物ではないから、使うのが躊躇われたのかも知れない。



ーー動いて



「ん……」


書き込みがある。

それはスケッチ画の教本である。羽ばたいている鳩の絵が見開きいっぱいに描かれている。羽の質感について、骨格について、影の付け方や質感など細かく記されている。


セルバンが目を引いた言葉は印刷ではない。鉛筆で直接書き込まれた文字だ。



ーー胴は動いていない。


ーー翼は動いている。



「…………」


これはドロワの字だろうか。それともドロワの親か、あるいはまったく別の人間か。


直感的に、それはドロワの書き込みだと思った。比較できるような文字は何もない。他の書き込みも見つからないが、若い女性の字だと感じたのだ。



ーーあのね、動いてるものって魅力的なんだよ。



ドロワの言葉。

それはいつ聞いたことだったか。ドロワは確かにそう言っていた。

動くということ。ドロワはそれに注目している。絵の中に躍動を求めている。


「だから……あの線画だったのか? あの力強い墨の線。あれが必要だった、と……」


立ち上がり、また別の家へ。

そこには腰の高さまで紙が積み上げてある。海藻を材料としてドロワがき、力強い墨の線が刻まれた絵だ。


何枚かを観察する。やはりどれも同じ絵に見える。氷のぶつかり合うさまが違っているのは分かるが、それ以外には。


「……いや、そうか、天候も違っているな」


ある絵では抜けるような晴天。ある絵ではもやがかかっている。雪のちらつく黒い雪雲。風の強い日もある。不思議なことに、何かが飛ばされてるというわけでもないのに強風だと分かる。対岸の山を描く線の違いか、それとも氷のぶつかり方の違いか。


何日もかけて絵を眺める。海はいつも表情を変えている。鍋が煮え立つように激しい日もあれば、凪に近いほど静まっている日も。氷のぶつかりあうポイントもやや南寄りだったり北寄りだったり。


そして数週間が過ぎて。


セルバンは、浜辺を歩いていた。


波に洗われている灰色の海藻。それを拾い集める。

桶に一杯ほども集まると、まず海水で洗ってゴミを取り除く。

それから木槌で叩いてよくほぐす。ほぐしたものをアルカリの溶液で煮て、四角いざるでく。


風通しのいい場所で乾かせば、がさがさした質感の紙ができあがる。


カンバスはドロワが使っていたものを借りる。金属のクリップで紙を留めて、にかわと木炭で顔料も作る。木炭だけでなく、ろうそくを燃やしたすすも混ぜると濃い黒が生み出せた。


それらを背負い、高台へ。


海は今日も荒れている。町に比べれば少しだけ音は遠くなり、風はまっすぐに吹いている。吊り下げられた銅の鐘が変わらずそこにある。この鐘が鳴らされた記憶はない。


眼下にあるのは煉瓦の町並み、視線を伸ばせば氷の海、海流と風が織りなす破壊の様相。

セルバンは黒の顔料を指ですくい、まず対岸を描く。そこにある山や崖を、そして氷を描く。うまく形が取れない。風の強さも表現できず、それがもどかしい。天候も、淡い灰色の雲をどう表現したものか分からない。黒の顔料を塗りたくればすぐに真っ黒になってしまう。


最初の絵は実に不出来だった。ほとんど何が何だか分からない。そのことに苦笑が漏れる。


「先は長そうだな……」


時間は寄せては返す波のよう。

繰り返すようでもあり、何かを少しずつ削るようでもあり、砂が積もっていくようでもある。


セルバンは冬守りとして働き、日々の糧を育て、煉瓦の町は少しずつ壊れて、補修され、少しずつ生まれ変わっていく。


黒槍樹ジンガルの森は緑の濃さを増していく。塩抜きはうまく行ってるようだ。加工場ではなめされた海獣の皮からさまざまな道具が作られる。読んだ本は積み重なり、いつか読もうと思った本が町から集められる。


セルバンの体つきもがっしりとしてくる。働き盛りの年代に差し掛かり、また意識的に多く食べるようにしていた。大きな体と同時に厚めの脂肪も必要だった。


海峡の絵をドロワが描いたものと見比べる。おおよその構図は同じだが、線の印象がまるで違う。


六枚目を描き終えた頃に理解した。ドロワの線ははるかに繊細なのだ。

ぐい、と大胆に引いてる線だと思っていたが違う。一本の線の中で何度も方向転換している。ぎざぎざの線が細かな形を表現し、対岸の山はなるべく正確にその稜線を捉えようとしている。


「そうか……観察だ。ドロワは印象で描いてない。一つ一つの対象を見ながら、こう……」


十五枚目。同じ線が引けた気がした。ドロワが一枚の絵にどのぐらい時間をかけていたのか知らなかったが、今では分かる。おおよそ3時間ほどかけている。木炭とにかわを混ぜた墨は修正がきかないが、ドロワの絵にミスはほとんどない。


記憶の中のドロワを思い出す。確かに線は一息に引いていた。しかし勢い任せではない。どこで曲がるか、どこで角をつけるかをすべて頭に入れた上で引いている。まるで複数の文字を筆を浮かさずに書くかのようだ。


「ドロワ、お前はすごいな……。俺はお前のことを理解できてなかった。何も分かってなかったよ」


彼女の指の動きを思い出す。描いていたときの姿勢を思い出す。


「俺は目をつぶっていたのか。あるいは眠っていたかのようだ。何年も一緒に暮らしていたのにな。罪深いことだと思っている。だからせめて、お前と同じことをするよ。こうしてお前と同じものを描いて、お前が何を見ていたのか、何を考えていたのかを知るよ」


思い出すよりも、ドロワの絵から学ぶことのほうが多かった。ドロワはけして中腰にならない。カンバスのほぼ中心を目の高さにしている。椅子とカンバスの間隔は50センチほど。すべては絵が教えてくれる。


「だから教えてくれ、どうか、俺に……」


積み重なっていく。


絵は民家の床を埋め、さらに二段目、三段目と重ねられていく。

最初の頃に比べればだいぶ上達した。氷は重量感を備え、その氷がぶつかり合うさまに海流の力強さが表現される。墨も紙も少しずつ改良を加えていく。ドロワが使っていたものに近づけていく。



そして、三年。



セルバンは、描きかけの絵に拳を置く。


その上着は、黒の顔料で真っ黒に汚れている。


爪の間に黒いものが入り込み、爪はにかわでがちがちに固まっている。すべての黒が落ちることは二度と無いかと思われた。


体は大きくなり、指は節くれだって太くなり、髪と髭も伸びて別人のようになっている。


これまでに描いた絵は数百枚。そのすべてを振り返るような、長い長い沈黙。


そして三年にわたりドロワを追い続けた時間を、彼女のために費やしたすべてを思って、吐息とともに呟いた。



「……そうだったのか」





海はいつも同じようでいて、少しずつ表情を変えている。


三年の観察で掴んだ。おおよそではあるが、西から強い風が吹き、濡れた紙のように重たい雪の降った次の日。海峡はわずかにその流れと風をひそめ、凪に近い時間が訪れる。


真の凪には程遠い、しかしセルバンはもう待たなかった。海を渡る決断をしたのだ。氷を渡り、波しぶきを超えて対岸に渡ると。


用意は整っている。背負った背嚢には数日分の食料。町でしか作れない様々な道具。替えの衣服。燃料になる鳥の油。アザラシの脂を金属の缶に詰めたものも。


靴は特別なものを用意してあった。金属のピンを40本ほど植え付けた靴。厚手の革はくるぶしまであり、全体に藁を巻いてある。


氷の上で安定を得るため三つ足の杖を左右に持ち、燃えている炭を金属缶の中に入れて懐炉としている。


海には板が渡されている。波打ち際から長さ三メートルほど突き出したイカダのようなもの。足を海につけず、最初の氷に乗るためのはしけである。


(ベルネルク海峡の最も狭い地点は約2キロ。流氷が詰まっていれば飛び移りながら渡れる)


(風が収まっている時間はおそらく1時間もない。急がなければならないが、焦れば足を踏み外す危険がある)


(道どりも重要だ。ジグザグに歩いては時間がかかる。それに、氷は一つずつ違う速度で動いている。人が乗ることに耐えられない氷も……)


(真っすぐ進むんだ……なるべく平たくて大きな氷を選んで、北側から押し寄せる氷にも注意しろ)


(大丈夫、必ず渡れる)


「待っててくれ……ドロワ」


風が止んだ。



そしてセルバンは、最初の氷に足を乗せる。


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