第二十五話
「形のないものに姿を。定まらぬものに循環を。ありえざる者にかりそめを……」
ニールがつぶやく。何度も何度も、同じような言葉を繰り返し、やがて刀身がほのかに輝く。小さな火種のように。真の闇で名も知らぬ羽虫がほのかに光るように。
セルバンはその輝きに意識が引き付けられる。その光の中に飛び込みたいような衝動が襲う。
同時に視野が広がる。一点を見つめているはずなのに真後ろまで見える気がする。ちろちろと燃える暖炉。煮炊きのかまどと左右にある扉。後方にある寝台まで。
さらに視点が広がる。ベルネルク・アルクの煉瓦の町。富豪の邸宅と庶民の家。銅の鐘がある高台。そして氷がぶつかり合う海峡。
空は澄んでいる。危険な獣の気配は何もない。
だが、心に不安がある。胸の奥に尖った石が埋め込まれたような感覚。息をするたびにそれが内臓をちくりと刺す。
その石に感じる不安と焦燥。取り除きたいが、触れることが恐ろしい。しかし、早く取り除かねば取り返しがつかなくなる。指を胸の奥に突き入れてでも。
「セルバン、現へ」
はっと、目を見開く。自分の姿勢を確かめる。あぐらをかいて地図の前に座った姿勢。眠っていたのかと感じる。
剣の輝きは弱くなり、ほどなく消える。ニールはどこか慎重な様子で腰の鞘に戻す。
「な、何か分かったのか?」
「分かりません。今のは私が何かを思考しているわけではなく、セルバン、あなたの心に問いかけたものです」
「俺の……?」
「はい、人間は常にたくさんの情報を取り込んでいる。無意識にそれを理解している。この世に存在するさまざまな不条理、困難な課題、数え切れぬほどの思考を繰り返していますが、その大半は意識することはない。輝きの剣はそのような心の機微を読み取るのです」
「どういう、ことなんだ」
「斬るべきものは、あなたの心の中にある」
ニールの言葉が、どこか遠く響く。セルバンを素通りして家の壁に当たるような感覚。
「俺の……?」
「おそらくこういうことね」
ギンワタネコは暖炉の前に座っている。
「あなたはドロワという子が消えたのを自分のせいだと感じている。それだけではなく、自分の中の何かを変えなければ彼女は戻って来ないと思っている」
「何か、とは?」
「それは分からないわ。夢現の術で見えたのは体内の尖った石というイメージ。その石を斬ってみれば分かるでしょう。しかしそれをやると、命に関わるかもよ」
「何だって……?」
「セルバン、たとえばその石の象徴するものが、あなた自身だったらどうでしょう」
ニールは言う。輝きの剣の鞘に組み紐を巻いて固定する。間違っても剣を抜かないようにする処置である。
「石があなた自身の生命を象徴しているなら、それを斬ればあなたは死ぬ。あるいは取り返しのつかないことになる。精神や肉体に輝きの剣を振るうのは慎重にならねばならない」
「……俺が、俺がいるから、ドロワは帰ってこない……」
そうなのだろうか、セルバンは自問自答する。
ドロワがセルバンに対して不満を述べたことなど一度もない。喧嘩をした覚えもない。
雪の中でも絵を描いていた時や、魚の身をきちんと剥がさなかった時に叱ったことぐらいはある。だがそんなことで。
「待ってくれ……今の状況は、ドロワは帰って来ないんじゃなくて、帰って来れない、だろう? 何十年かに一度の凪の時でなければ海峡を渡れない。ドロワが対岸で生きていればの話だが……」
「セルバン、もし仮に凪の日が来たなら、海を渡りますか?」
問われて、セルバンはしばし固まる。
もう一度凪が来たら、それは想定していなかった。だが考えてみれば起きても不思議ではない。なぜ想定しなかったのだろう。
やはりドロワが離れた理由が自分の中にあるのか、そう考えてしまう。
「渡るならば、そのための用意をするべきです。数日は耐えられるだけの食料。針やナイフなど町でしか手に入らない道具。重さを考慮して、すぐに手に取れるように町の何箇所にも」
「……いや、町を捨てることはできない」
セルバンは言う。
「前の凪は1時間も持たなかった。片道を渡るだけでぎりぎりの時間だ。往復はできない。海峡を渡ってドロワに会えたとしても、町を捨てることになる。それに、もしドロワがいなかったら」
「……そうですね」
重い沈黙。二人の会話は終わり、あとは互いに内省を続けるだけのような時間が流れる。
やがてニールが膝を立てて、ゆっくりと立ち上がった。
「セルバン。どうやら私にはドロワを連れ戻す力はありません。しかし、あなたにならできるかも知れない」
「俺が……?」
「越冬官は輝きの剣を持ち、概念を斬ることができる。しかしそれは、本来は自然に解決されることに無理やりに干渉しているに過ぎない。セルバン、あなたが持つ尖った石という概念は、解決可能だからこそ見えた幻視かも知れないのです」
「解決……」
「冬守りは強い武器を持っています。それは剣の冴えや魔法の力など及びもつかない、時間という武器です。あなたはいつの日か、きっと問題の解決に到れる、そう信じています」
セルバンは、ニールの言葉を受け止めかねていた。
自分に大きな力があり、強い武器を持つ、そんなこもは考えたこともない。ベルネルク・アルク以外の土地を知らないし、冬守り以外の職人仕事も知らない。
ただ淡々と、ドロワとともに生きられればそれでいいとーー。
※
ニールはそれから数日滞在した。
町の建物を見て回り、数年後に影響が出てきそうな場所を指摘する。
食料と燃料についてもいくつかの指摘を行い、町のどこかから本を見つけてきてセルバンに読むよう勧める。
「セルバン、氷を歩くための靴を知っていますか」
海岸にて、浜に打ち上がった流氷を前にして言う。
「靴にスパイクをつけるんだろう? いちおう、地面が凍りついた時のために用意しているが」
「前に歩くためのスパイクならば針の大きなものを少数、氷を平面的に捉えて跳躍するためには細かなスパイクを多数つける必要があります。おそらく流氷を渡るために必要なのは後者です。いくつか試作を重ねると良いでしょう」
そして浜辺にいたアザラシを指さす。町にはたまに流れ着く。
「セルバン、アザラシを狩ったことはありますか」
「ああ、よく打ち上げられるからな。親からは氷室で凍らせてから食べろと教わったが」
「そうです。獣肉は人間に必要な栄養を豊富に含んでいます。熱を通すと壊れてしまうものも多いので、生で食べるのが望ましい。ただし寄生虫の心配があるので、一度凍らせるべきでしょう。脂も利用できます。採取したら桶に溜めておくのが……」
ニールは数日の間に何度も浜に降りた。氷のぶつかり合うさまや、風の流れ、雲の動きなどを見て凪が予測できないか探っていると言っていた。
だが上手くいかないようだ。その顔には深い憂いがあった。
「セルバン、私はもう行かねばなりません」
ある日、そのように切り出す。
その日もやはり朝から浜を見つめていた。ベルネルク海峡はいつもと変わらず、破壊と破砕が埋め尽くしている。
「……なあ越冬官さま、何か斬るものがあるなら斬ってくれ」
セルバンは、それは数日の間ずっと考えたすえの結論として言う。
「俺に原因があってドロワが帰らないというのは耐えられない。斬って解決できるならそうしたい」
「セルバン、ですが……」
「俺はドロワに嫌われてたとは思えない。原因が俺の存在そのもの、つまり俺が死ねば帰るとは考えられない。何かを斬ったとしても死ぬことはないはずだ」
「……」
ニールの剣には組紐が巻かれている。地図を見て話した日からずっとである。剣を使うまいとする意思を感じる。
「セルバン、この世界には魔法というものが存在します」
「うん……? 魔法の本のことか、それとも越冬官さまの腰の剣」
「もっと様々な魔法が存在します。おとぎ話にある黄金の実がなる樹、鉄を切り裂く斧、冬を渡る商人などはさまざまな魔法を使うといいます」
「それは……絵本の話では」
「魔法とはこの世界の摂理を超越した力です。それを得るとき、人はこの世界を管理する物理法則と戦うのです。あるいはそのような仕組みこそが原初の魔法。物理法則を怪物の姿に降ろし、打ち破ることで魔法を手にするという儀式。それはやはり、悪魔が作ったのかも知れません」
「何の話をしているんだ……?」
「あなたの中にある尖った石、それを斬れば問題は解決するかもしれない。しかしそれは、やはり姑息な近道、間違った解決なのです。それであなたが、ベルネルク・アルクの冬守りたちが幸福になれるとは限らない」
「しかし、俺はドロワに戻ってきてほしい」
セルバンはなおも食い下がる。
それは解決への道筋がまるで分からないことに起因していた。何が原因なのか、これから何年考えても見つけられない気がする。ドロワは永遠に戻らないかもしれない、と。
長い沈黙。やがて根負けしたようにニールが項垂れる。
「……分かりました」
組紐をゆっくりと外し、剣を抜く。
「ただし、石は斬りません。あなたは石を恐れている。問題の本質について思考することを恐れていると見ました、その恐れを斬ります」
「そんなことができるのか」
「おそらくはそれが、あなたの精神を変質させずに干渉できるぎりぎりの線、輝きの剣よ……」
言葉が流れる。
ほとんど聞き取れない呪文のようなつぶやき、同じ言葉を何度も、何度も。
時が速度を上げる。風のうなりと波濤の音。それが数え切れぬほど繰り返され、音が自分たちを取り囲むように思える。
セルバンは段々と夢うつつの感覚に陥る。視野が広がったような気がして、自分たちを俯瞰して見るような感覚が。
ーー心を斬ろうというの。
誰かが。
セルバンは一歩も動けず、視線も動かせない。
だが、右隣に誰かがいるのが分かる。
ーー傲慢なこと、神にでもなったつもりなの。
拡大した視野で確かに見えている。しかし目を動かさずに真横のものを見るような感覚。輪郭は見えるのに細部が分からない。
赤い服。潮風にたなびく布地。豊かな髪。
ニールの顔には脂汗が浮いている。耐えがたい苦痛という言葉が浮かぶ。
石が在る。
セルバンの胸の中。星屑のように尖った石。
輝きの剣が振られる。肩骨にするりと入り込み、肺を突き抜けて石に触れる。その一部をそぎ落として、腰から抜けていく。
どう。とニールが膝をつく。
「! 越冬官さま、どうしたんだ!」
「大丈夫です……数日のうちに、夢現の術を何度も使ったからですね。少し、私の心まで、夢に溶けて……」
気づく。ニールの両手が震えている。
(今、聞こえた声は)
女の声だった。それは分かる。自分たちの真横に立っていたのはおそらく女性。
周囲を見る。ふと気づくが、ここにはギンワタネコがいない。もちろんいつもいるわけではないが、なぜか今、この場にいないことに違和感があった。
(そうだ、越冬官さまが時々使っている声音、あの妙な腹話術)
あの声の主が、ここにいたような気がする。だが、それがどんな意味を持つのか分からない。
「セルバン、どうですか、何か変化はありますか」
問われて、セルバンは自分の胸のうちを意識する。
自分はドロワを失い、彼女を探し求めたいと思っている。
そのためには、彼女のことを。
「……分かる。これは変化だ。俺は、ドロワのことを知るべきだと思っている」
なぜその考えに至らなかったのか分からない。ドロワがなぜ消えたのか、何を考えていたのか、彼女のことを調べるべきだったのに、それをしなかった。
セルバンは、ドロワの思考を追いたくなかったのだ。そこから何かを読み取ることが怖かったから。あるいは、その結論に無意識下で気づいているから。
(俺は、ドロワにどう思われてるか知りたくなかった?)
(違う、ドロワが俺をどう思ってるか、俺は無意識下で気づいていたんだ。それを意識するのが怖かった)
(では、今なら……)
「大丈夫だ、今ならやれる。今なら、俺はドロワを追いかけることができる気がする」
「そうですか、良かった……」
越冬官は憔悴しきっていた。何時間も走り続けたかのように。
セルバンはふと思う。今の一幕、自分はニールと思考を共有したのだと。
あの女性の声は、ニールという男の中にある記憶。
輝きの剣を振るうことに対する、彼自身の禁忌の具現なのだと理解する。
(本当は、何も斬りたくない……?)
では、なぜ越冬官を続けているのか。
この永い冬に、過酷な旅を続けているのかーー。




