第二十四話
「ベルネルク海峡には無数の氷が打ち寄せるんだ。俺が生まれてからずっと、何かの怒りのように」
セルバンの指の先には氷塊の奔流。何千何万もの氷塊がぶつかり合い、裏返ってしぶきを巻き上げ、重く響く音とともに砕けていく。
「海の底には外側に向かう海流があると聞いてる、海の底に押し込められた氷は外側に流れていくんだ」
「恐ろしい眺めね、この世の終わりみたい」
ギンワタネコはどこにでもいる。町の片隅にも。小石まじりの浜辺にも。
セルバンは、ニールが時おり腹話術で話すことを怪訝に思ったが、指摘する気力もないようだ、話を続ける。
「冬が訪れる前から海流の激しい場所だったらしい。だが数十年に一度、完全な凪の時間が訪れるとも聞いていた。俺の親父も、他の冬守りも見たことはなかったらしい。半年前に突然それがやってきた」
あの日のことは、数え切れないほど思い出した。それは繰り返される悪夢だった。
町にある民家の一つにて、雪が吹き込んでいないか調べていたセルバンは、ふと周囲の異変に気づく。
音がしない。完全な無音。
その時に初めて気づいた。町にはつねに音が存在していたのだと。潮流の音、氷がぶつかり合う音、風が家々の間を吹き抜け、煉瓦の凹凸を撫でる音が、いまは絶えている。
外に出る。時間が止まったような感覚。空気は冷たさのみがあり、ぴんと張り詰めている。空を見れば雲は一つもない。薄靄すら感じない完全なる蒼穹。ベルネルク・アルクの赤煉瓦と対比となるような、藍色に思えるほどの空。
ふと、セルバンは不安を覚える。あらゆるものが遠ざかるような感覚があり、言語化できない喪失感が襲う。体が傾くような平衡感覚の乱れ、それを急ぎ足に変えて歩き出す。
足は高台に向いていた。石段に至る頃には駆け足になり、息を切らせて登ってゆく。
至る。銅の鐘が吊り下げられた広場。カンバスには質素な紙。白地に墨を塗りたくった山なみ。対岸の岬の輪郭。
海の部分には氷がない。というよりも描かれていない。空白になっている。描きかけのまま放置されたのだ。
にかわと炭を練った顔料。簡素な椅子。筆の代わりに使っていた木の枝や鋭角な石。炭を洗うための水桶。
ドロワはいない。だが、たった今まで誰かがいたような気配がある。カンバスは顔料が乾ききっておらず、水分を残した線がわずかに艶を放っている。
セルバンは浜へと降りていく。なぜかドロワが海へ向かったと察せられた。空気がわずかに動きはじめる。頬を撫でる風が不安を駆り立てる。町に風が戻り、音が戻り始めている。不安は恐怖に近いほど高まっている。
海峡は、信じがたいほどに白一色。紙を敷いたようになだらかな流氷。
それはゆっくりと動き出している。海流に押されて、風に押されて、セルバンの見ている前で、互いにぶつかり合って、海を破壊で満たそうとしていた。
破壊は止むことなく繰り返される。
音は鳴りやまず、潮流も風も止まることはない。
セルバンがどれほど祈ろうとも、二度と止まることはなくーー。
※
町の中央。冬守りの家。
「ベルネルクの海が、ドロワを連れ去ってしまった」
セルバンはひどい有様だった。体躯としてはニールよりずっと大柄で、節くれだって太い指は大工仕事でできたものだ。短めの茶の髪を、その太い指でかきむしる。
「流氷が止まっていたんだ。あんな景色は見たことがなかった。きっとその美しさに魅入られてしまったんだ。俺が止めなかったから。絵なんか描かせたからこんなことに」
「落ち着いてください。冬守りがいなくなったなら、それを連れ戻すのも私の役目の一つです」
セルバンは顔を上げる。もともとは頑健な顔だったと思われる人物だが、目には深いくまができ、頬はこけて土気色になっている。食事も睡眠もままならない状態だと分かる。
「私は越冬官のニール。いなくなった冬守りのお名前はドロワというのですね。では、あなたのお名前は?」
「セルバン……煉瓦焼きのセルバンだ。ドロワは馬車磨きのドロワ」
この町では職業を二つ名とする習慣があるらしい。セルバンたちの名は両親から受け継いだものだろう。町のすべてを冬守りが世話する時代にあっては、あまり意味のない名となっている。
「まず確認します。町は十分に探したのですね」
「あ、ああ……七日か十日か、それ以上。ずっと探し続けたが、どこにもいなかった」
「陸路で町の外に出た可能性はありますか?」
「ない……雪に足跡がなかった。それに一番近い町でも40キロは離れてるし、その町に冬守りがいるかどうか分からない。ドロワは何の装備も持ってないはずだし……」
「分かりました。では私もその海峡を見ておきましょう。セルバン、案内してくれますか」
「わ、わかっ、た」
ニールはけして強面だとか、豊富な経験を感じるという人物ではなかったが、その声には不思議と人を落ち着かせる力があり、目は深い深い湖のような、絶えることのない落ち着きがあった。その目を見るうちに、セルバンも強制的に冷静になっていく気がする。
「さっそく向かいましょう。早いほうがいい」
「ああ、ええと、向こうの扉から出ていくんだ。町の外側あたりまで歩くと左に折れる道があるから、そこから階段を下って……」
そこから丸一日ほど。
浜辺を案内したあと、ニールは町を見てくると言って消えてしまった。セルバンには食事を摂るように告げ、できれば湯で体を清めて眠っておくように指示を出す。
セルバンはニールの静かな気配にあてられたのか、干し肉と乾燥させたパンで簡単な食事を取り、毛布にくるまって部屋の隅で休むことにした。時おりがつがつと、氷を硬い物で叩く音が聞こえた。ニールが凍りついたドアを開けているのかも知れない。
うとうとする程度の眠りから覚める。ニールがなかなか家に戻ってこないので、雪の始末をすることにした。金属のコテを使って壁に張り付いた氷をそぎ落とし、道に積もった雪はスコップでかき集めて台車に乗せる。夕方までそれを続け、町の一本道から雪を除いていく。
「町の中を拝見しました」
日が落ちた頃にニールが戻ってくる。彼はずっと背嚢を背負って行動してるのだろうか、と考えてしまう。
「食料は十分な量がありますが、燃料がやや不足しています。黒槍樹の森も十分ではありません。植樹を行うことを推奨します」
「ああ、考えてはいたんだが、一度苗木をダメにしてしまってからやってなくてな……」
極寒の環境でもゆっくりと成長し、炭に加工しなくても煙が少ない黒槍樹ではあるが、万能とは行かない。
成長は通常の木よりもずっと遅く、木質が詰まっているために伐採や加工に大変な手間がかかる。また苗木の状態では暑さに弱く、病気になりやすいという特徴もある。
「それと、土に塩気が多くなっています。脱塩しなければなりません」
「塩気?」
「永い冬では雨が降りません。そのため土壌が真水を取り込む量が少なく、潮風に含まれる塩分が土に溜まっていきます。普段は問題になるような量ではありませんが、30年も経つと樹木の成長に影響が出てきます」
「どうすればいいんだ?」
「森に深さ2メートルほどの穴を掘り、人肌より少し熱い程度の湯を流し込みます。桶一杯ほどで構いませんが、複数箇所で行ってください。地面の奥の方は土が凍っておらず、わずかに水の流れがあるのです。その作業を数日に一度、何年も続ければ脱塩できます」
「わかった、何年も、か……」
セルバンは物憂げである。何年か先、ということを考えたくないようだった。自分一人で町を守っていくことを考えると、終わりのない旅に放り出されるようで不安なのだろう。
「ではセルバン、いなくなった冬守りのことを検討しましょう。周辺の地図を持ってきました」
どこかの家から見つけたものらしい。大きめの地図を絨毯の上に広げる。背嚢を部屋の隅に起き、セルバンを促して向かい合って座る。
「これは……このあたりの地図か? どこにあったんだ?」
「西のはずれにある家にありました。これは永き冬が始まってから作られた地図です」
地形は一般的な地図と変わらない。だが道が描かれておらず、森や川の形状もセルバンの記憶と違う。地図にはいくつかの注意書きが書き込まれている。
「こんなものがあったのか……」
「ベルネルク海峡は最も狭い場所で幅2キロメートル。南側はアラテト海に向かって開いており、北側ではゾーレ湾と呼ばれる広大な入り海があります」
書き込まれているのは大量の倒木がある場所、崖崩れを起こしている場所、橋が落ちている場所など。
かなり遠くではあるが、マダラグマを目撃した場所なども記してある。セルバンはマダラグマを見たことがない。
「陸地をぐるりと回り込むならおよそ370キロ、踏破するのはかなり困難な距離です」
「陸路、か、そうか、陸路でも行けるのか……」
「本当はニールを行かせてあげたいんだけどね」
ギンワタネコがにゃあと鳴く。浜から拾ってきたのか、ニシンのような大きめの魚をがりがりとかじっていた。
「冬守りは町から町へ渡る存在。ベルネルク湾の対岸には町がないみたい。確認のためだけに何ヶ月もかけるわけにいかないわ」
「セルバン、申し訳ありません」
「いや……それは、仕方のないことだが」
セルバンには、湾をぐるりと回り込むという発想そのものが無かった。
黒槍樹の森より遠くへ行くことは無かったし、町の周囲がどうなっているのかも知らない。長距離を移動するためにどんな装備が必要なのかも分からない。あまりにも自分と隔絶した発想に思えた。
「湾を回り込む、か……」
「セルバン、忠告しておきますがそれは大変なことです。地図によれば対岸の陸地は半島状になっていますが、人の生活がほぼなく、道も整備されていない。荷運びのできる家畜もおらず、何十回にも分けて食料や装備を置いてくるという準備が必要です。限りなく不可能に近いことです」
「ああ……うん、そうだよな……」
「海はどうなの? 南方に漕ぎ出して、海氷を避けて半島にまで行けばいいじゃない」
女性らしい声色。それはドナという女性らしい。越冬官が女性らしい視点を持つための技術だと説明を受けたが、セルバンはうまく飲み込めていない。
「それも危険です」
ニールは地図の海上を示す。海にもいくつかの書き込みがあった。
いわく、砂の島が消えている、海に沈んだものと思われる。
いわく、ここには新しい暗礁が生まれているようだ。
いわく、南海よりベルネルク海峡に流れ込む海流は極めて速い。用心されたし。等である。
過去の冬守りには操船に長けた人間がいたようだ。ベルネルク・アルクの南側の海についていくらか記述がある。
しかし地図の南端、大海原の空白にはこうも書いてある。セルバンはつぶやくように読む。
「海流速し、海氷多し、漕ぎ出すべからず……」
「セルバン、町に船はありますか?」
セルバンは首を振る。
「一艘もない。町の人間が使っていた立派な船は、みんな「魔法の本」に入っている」
「この地図を書いた冬守りの船はどこに?」
「見たことはないな……おそらく解体して木材にしてしまったか、海に沈んだのかもしれない」
大海原に刻まれた、警告の一文。
これを書いたのは誰だろうか。海を調べていた冬守りか。
それとも、その冬守りの結末に涙した誰かなのか。
「対岸と行き来するなら、やはり海峡部分を渡るしかないと考えるべきでしょう」
「それは……それは無理だ。あの氷は、海流に揉まれて動き回っている。急に傾くこともある。とても渡れない。氷には隙間がなくて、船を使うこともできない」
「そうですね。あの海峡を見たところでは、とても……」
ニールは腰の剣に手をあてる。木製の鞘に収まった剣の所在を確かめるような動作だった。
「方法は無くもありません」
「え……ど、どんな方法が」
「ベルネルク海峡を満たす荒ぶる氷、その氷を斬る。あるいは、此岸と彼岸を隔てる距離を斬る」
「な……!?」
ですが、とニールは肩を落とし、済まなそうに言葉を続ける。
「おそらく無理でしょう。輝きの剣は斬るものが分かれば確実に斬ることができます。しかし、概念的なものを斬るというのはこの世の摂理に反すること。それには多大な困難が伴います」
「困難、というのは?」
「この海を斬るならば」
氷塊の海峡。地図上ならばほんの数センチ。しかし生命の往来を隔てる絶対の壁。
「おそるべき獣が我々を襲うでしょう。百万頭もの海象。島をひとのみにするほどの鯱。あるいは雷と炎を操る巨人。倒せないとは言いませんが、それはおそらく斬るべきものではない。限度を超えた傲慢の前に立ちはだかる。摂理という名の神格なのです」
「よ、よく分からないが、つまり、海峡を渡るのは無理という事なのか」
「輝きの剣よ」
剣を抜く。
ニールは切っ先を片手で覆い隠す。刀身から何かが発せられており、それを抑えるかのように。
「剣に問うてみましょう。何か、斬るべきものがあるのかを」




