第二十三話
ベルネルク海峡は豊饒の海、町にはそう伝わっていた。
波濤の海とも呼ばれる海峡では南方からの暖かな潮の流れと、北方からの冷たい潮の流れがぶつかりあい、複雑な潮流を生む。それが海底の栄養豊富な泥を巻き上げ、魚や甲殻類がまるまると太ると言われている。
今は、その海は白に染まっている。
南方と北方にて海の表層が凍りつき、潮の流れに押されて氷が集まってくるのだ。
セルバンの生まれた時からそうだったし、おそらく死ぬまでそうだろう。セルバンは冬守りだった。
町の名、ベルネルク・アルクというのは古語であり、ベルネルクの恵みという意味である。何千年も前からこの湾に住み着いてきた人々。古い情緒をとどめる赤煉瓦の町並み。父はそんな町の冬守りだったが、セルバンが冬守りの仕事を覚え終わる頃に死んでしまった。
最も多いときで7人いたという冬守りは、今ではセルバンとドロワしかいない。セルバンは17でありドロワは12、永い冬は、あと何年続くかも分からなかった。
坂道を登り、町を一望できる丘へと向かう。
丘の上には広場がある。人の頭ほどの大きさの青銅の鐘が吊るされ、町の行事や婚儀などが行われる公共の広場。ベルネルク海峡を一望できる町の名所だった。
ドロワはそこにいて、カンバスに向き合っている。黒だけを塗り込んだ陰影の強い絵。にかわと墨を練った顔料で描かれるモノトーンの絵だ。
黒い顔料を指でこすりつけ、一気に線を引く。対岸にある岩山のようなもの、波に削られて断崖になっている岬。少女はいくつかの線を引いてから振り向く。
「あ、セルバン。どうしたの」
「心配になったから迎えに来たんだよ。今日は冷え込んでるし、風も強いだろ」
絵の中で、黒い線が四角いブロックを表現している。
それは砕けた氷だ。一つが家一軒ほどもある氷の塊。それが無数に積み重なり、海の中で揉みほぐされるようなダイナミズム。
ドロワはカンバスを持ち上げ、くるくると回りながら眺める。
「今日のはよく描けたでしょう」
「そうだな」
セルバンには絵の良し悪しは分からないが、あまり正統的な絵には見えなかった。ベルネルク・アルクの町に残っている絵は写実的なものが多く、激しい勢いで描かれるドロワの絵とはあまりにも違う。
墨の黒だけで表現されているからそう見えるのか、それともドロワが絵筆を使わず、指や木の枝で墨を塗り込んでいるからか。
構図はいつも同じ、この高台から見えるベルネルク海峡の絵である。曇天の空の下で、南北からの流氷がぶつかり、互いにのしかかり、砕けるさま。確かに迫力は感じるが、同じ絵をもう何十枚も描いている。町の家の一つを拝借して、ひたすらに積み重ねてあるのだ。
「他の絵は描かないのか」
「描いたことあるよ。ギンワタネコとか、椅子とか」
「練習での話だろ。そういうのじゃなくて、他の風景だよ。海峡以外にもあるだろ、ベルネルク・アルクの町とか」
「うーん。今はこれしか描きたくないかな」
ドロワの答えはいつも変わらない。雪の降る日以外はここに通い、何度も同じ絵を描く。
画材となる紙はドロワが漉いている。海岸に打ち上げられるぬめりのある海藻。それを集めてアルカリ性の溶液で煮る。そして漉いてから乾燥させる。布と紙の中間のようなものができる。粗末な質感だが、冬の時代にも生産できる立派な画材である。
毎日拾い集めたとしても、カンバスに貼るほどの大きさの紙は月に四枚も作れない。ドロワは一年中その作業を繰り返した。
海岸を歩き、紙の材料を集め、紙を漉いて絵を描く。
海岸を歩き、紙の材料を集め、紙を漉いて絵を描く……。
数年が流れる。
町の補修はあまり必要なかった。煉瓦の町はすでに十分に補強されており、降雪は多くなく、雪を捨てる海もある。食料は潤沢とは言えないが、氷の海から打ち上げられる魚や、海棲哺乳類などを狩ることもできる。燃料となる黒槍樹の森は保全できており、温室で野菜を育てることもできていた。
「町を一つの温室と見なして熱をためる……だったかな。よく出来てるよな」
ベルネルク・アルクの町を実際に歩くものがいたなら、その道の融通の利かなさに驚くことだろう。
ほとんどの路地は分厚い土壁で埋められ、腕が入る程度の空気穴が開けられている。
もし町を通過しようと思う場合、稲妻のように何度も曲がりながら歩き、中央にある大きな建物を通り抜けて、また何度も曲がりながら歩いて反対側に抜ける。道はその一本しか無い。
中央は冬守りが生活するための家である。暖炉で生み出される暖気は真鍮製の配管に流れ、建物の外周を回りながら空に抜けていく。
空気が上に逃げたぶん、周囲から空気が取り込まれるわけだが、町の外の空気は曲がり道を通るたびに寒気を穏やかにし、中央の家はわずかな薪でも十分に暖かい。
配管が曲がっているぶん、煤の掃除に気を使わねばならないが、配管は部分的に開閉できるようになっており、また交換用の配管も何本も用意されていた。おそらくはセルバンの前の代。父や母や、それ以外の冬守りたちが作り上げたものだろう。
円盤型のホールのような建物が冬守りたちの家。外周に沿って煮炊きのかまどや寝台などがあり、一つの円形の空間でほとんどのことが行える。寝室はセルバンとドロワがそれぞれ持っているが、二人ともホールで眠ることが多かった。
暖炉に火を焚くと、部屋全体がすぐに暖かくなってくる。毛足の長い絨毯を、板を挟んで2層にしているため、足元から熱が立ち上るような暖かさがある。
がたん、と音がして、セルバンの入ってきたのとは反対側の扉が開いた。
「ドロワ、戻ったか」
「うん、お腹すいちゃった、ご飯にしよ」
ドロワは木製のかごを持っており、中には海鼠や小魚などが入っていた。ベルネルク海峡の氷に押し出されるように、こういった海の幸が浜に上がる。
ドロワのスカートは少し濡れていた。腿のあたりまで色が変わっている。海に入ったか、それとも波しぶきを浴びたか。
「おい、スカートを替えとけ、風邪ひくぞ」
「あ、そうだね」
ドロワは巻きスカートの留め具を外し、暖炉のそばにある干し紐につるす。セルバンは背後を向く。
「おい、自分の部屋で脱げよ」
「いいじゃない、ちょっと濡れただけだから、乾かしたらまた着れるよ」
「そういうことじゃなくて……」
ベルネルク・アルクを象徴する色は赤である。赤土を顔料として染め上げる糸。ある樹の樹皮から作られる赤い繊維などで織られる装束は大地の赤。暗褐色のスカートに青や緑のビーズを散りばめて赤を強調する仕立て。上と下でそれぞれ一枚の布を使い、上着は包帯を巻き付けるような仮縫いから、体型に合わせて仕立てる。スカートは同じく幅広の布をブローチで留めたものだ。この上下を大切に着る。
ドロワは足先が冷えるのか、つま先立ちになって踊るように動く。セルバンは目を逸らしているため、そういう様子はわずかに気配を感じるのみである。
ドロワは楽しげであった。笑っているかも知れない。そのような様子はセルバンに一種の安堵をもたらした。ドロワはまだほんの子供なのだと感じた。
火にあぶられたスカートは五分ほどで乾く。ドロワはそれをぐるりと巻いて、スープと平たいピザの用意されたテーブルへ。
「おいしそう、生地が分厚いね」
「石窯を新しくしたんだ。先に中で薪を燃やして、余熱で焼く窯だ。温室で育ててるトマトが食べごろになったからな」
説明が終わる前にドロワはピザにかじりついている。
セルバンも一口。かりかりに焼けた生地がチーズとトマトの味をどっしりと受け止めている。がしりと噛みしめれば生地の中にはふわりと柔らかい部分があり、小麦の風味が意識されると具材の味がよりはっきりと分かる。古い本を参考に作ったものだが、案外によくできたと自画自賛する。
ただ本よりもトマトは酸っぱく感じるし、氷室で冷凍しているチーズは風味が失せてきている。新しいチーズを手に入れようにも、ゴーなどの家畜は町におらず、近在の町から人が来たこともない。他の町の冬守りはどうなったのだろうか。
「ドロワ、もう少しゆっくり食べろよ」
「うーうくう」
何と答えたのかよく分からない。ドロワは名残惜しそうに何度も口を動かしてから水を飲む。
「急がないと、今日中に絵を仕上げたくて」
「ベルネルク海峡の絵か? もう百枚ぐらい描いてるだろう」
「前の絵は前の絵だもん。今の絵とは違うのー」
セルバンと比べて5歳の年齢差があるためか、いつまで経っても子供のような言葉遣いをする。
それは自分もかも知れない。二人だけの町では大人びた態度をとる必要もなく、大人としての態度が求められることもない。そもそも大人とは何なのかがよく分からない。
父親の姿を思い出そうとしても上手くいかない。おそらく父親や、ベルネルク・アルクの他の冬守りも似たようなものだったかも知れない。永い冬にあって、落ち着いた大人の態度など誰も求めていないのか。
「あ、それとも何か手伝うことある?」
「いや……今はないかな。役場の建物をそろそろ修繕したいけど、まだ準備が整ってないし」
「じゃあ、私またあそこに行ってるね」
「なあドロワ、あの海峡がそんなにいいのか? 別に止めやしないが、俺には寒々しい海の絵にしか見えないぞ」
「んー」
ドロワはまたくるりと回る。口の端についたトマトのソースを指でそぎ取る。
「あのね、動いてるものって魅力的なんだよ」
「動く?」
「そそ、今ってほとんど動くものがないでしょ。でもあそこはずっと動いてる。力強くて、大きくて、生きてるものみたいに暖かいの」
ドロワははにかむように笑う。その説明にはぼかした印象があった。言葉にしにくい概念を、あえて正確な言葉を探さずに舌で舐めるように味わう。己の内から浮かんでくる言葉を楽しむ、そんな気配。
「セルバンにも分かってほしいなあ、あの場所はほんとにすごいんだよ」
「まあなあ……氷がぶつかり合う光景なんて、きっと珍しいんだろうな。観光客……って言うんだったか、春の時代にはもっとたくさんの人間がいて、珍しいものを見る旅をしてたって聞くけど……」
「んーふふ」
ドロワは浮かれているようだ。絵に取り組める日はいつもこのような感じである。
「いつか、セルバンにもわかってほしいな」
「ああ、分かりたいと思ってるよ、ドロワの好きなものなら……」
「じゃっ、また夕飯でね」
ドロワは円盤型の部屋を出ていく。
セルバンは今の一幕を考えて。自分が言いかけた言葉に頬を赤くした。
※
強い風が吹いている。
上空の雪雲は大きくうねるように思える。南からの風と、北からの風がぶつかり合うために雪雲は渦のような模様を描く。
ベルネルクの町にはだいぶ雪が積もっていた。雪は海からの風に吹かれて煉瓦に吹き付け、漆喰のような湿った質感となってがちがちに凍りつく。
「雪が片付けられていないわ。路地に積もってしまってる」
通りには膝丈まで雪が積もっている。雪は踏み固められてもいない。誰も町を歩いていないのだ。ギンワタネコは塀の上に寝そべっている。
「冬守りがいなくなってしまったかしら」
「人の気配はあります」
赤い鎧の騎士、ニールは町の中央に向かう。町の中央では雪が風にさらわれることもなく、膝までを埋めるほどに積もっている。ニールは背負った背嚢が壁にこすれないように歩く。
中央から白い煙が立ち上るのが見えた。暖炉に火が焚かれているのだ。一本道の町では迷うこともなく、やがて中央の家に至る。
木戸はやはり雪に埋もれていた。ニールは小手に覆われた手を突き入れ、雪を押しのけながら声を上げた。
「どなたか、おられますか。私は冬守りたちを訪ねる旅をしている越冬官です。さまざまな町を巡察しています」
返事はない。だがニールは何かの確信を持ったのか、扉を強く引く。凍りついた雪がばりばりと剥がれて、中からわずかな暖気が流れ出る。
円形の空間。暖炉があるが、火は消えかけている。食料の入っていた麻袋が投げ出され、紙くずが散らばっている。寝台からは毛布がずり落ちて、台所では鍋が横倒しになっている。陶製のマグが割れており、破片が散らばっていた。
椅子に腰掛ける男がいた。ニールを半目で見て、また目を伏せる。
「越冬官さまか……本当にいたんだな」
「あなたは冬守りですね。どうかなされましたか」
「もう終わりなんだ」
「ドロワがいなくなってしまった。ベルネルク海峡を渡って、海の向こうに消えてしまった……」
章タイトルの読みは「はくどうせしもの」です




