第二十二話
※
浴場を出ると、アルジアはゆったりとした白のローブに着替える。レース模様のちりばめられた高価そうなローブであり、前は腰の高さ、結び紐一つで留めている。胸元が大きく食い込んだデザインとなっており、それを自然に着こなしていた。
ルダンもさすがにマダラグマの毛皮は脱ぐべきだと感じた。まず着ていられる気温ではない。入り口カウンターの横に衣装部屋があり、毛皮のたぐいはそこに置いておけばいいと言われた。
「お食事をどうぞ」
ミシュナに案内され、たどり着くのはやはり暖かな部屋。いくつかテーブルがあるから食堂のようだ。
音楽が鳴っている。広間の片隅にあるピアノの鍵盤が沈み込み、静かな曲を奏でている。誰も座っていないのに。
並ぶのはたくさんの野菜と一緒にローストした羊肉、色彩豊かな蒸し野菜、凍りついた状態の魚を半解凍して薄く切ったもの。凍った魚は体を壊すから必ず解凍して食べていたが、この気温の中では冷たさがむしろ贅沢なものに思われた。
ルダンはそれらの料理をなんと呼ぶのか分からなかった。生まれてから一度も見たことがない。
「どういうつもりなんだ。食べると思ってるのか」
「毒なんか入ってないわ。心配なら食べなくてもいいわよ」
「……」
匂いがルダンの鼻梁に絡みつく。気が張り詰めていれば空腹など何でもないが、今は胃が動揺して細かく震えている。アルジアはルダンに対して申し訳なさそうにしながらもチーズをつまんでいる。
「ルダン、心配ならこのフルーツを食べなよ」
アルジアが差し出すのは黄色く、湾曲した実である。皮が分厚く、縦方向に裂くように剥ける。
食べてみると柔らかく、口内にへばりつくような独特の甘さがあった。酒香にも似た退廃的な芳香が鼻に抜ける。
「うまい、けど、こんなの見たことないぞ」
「お料理、ルダンが食べないなら私も食べないよ。ここには珍しい果物もたくさんあるから」
「いいわよ食べなくても、動物たちが食べるから」
ミシュナは銀色の台車に皿を乗せる。どうも食べないことは最初から分かっていたような態度だ。
ルダンはあらためて部屋を見る。高級な調度に汗ばむほどの気温。数十人が一度に入れそうな中庭の風呂。そしてあのカウンターとミシュナ。
この場所を形容する言葉があるとすれば、「宿」しかありえない。
「もしかして、営業してるのか……?」
「そうよ」
ミシュナは何でもないように言う。だがやはり、どこか落ち着かないような態度が見え隠れする。
「私は村で宿を開きたかった。遠い国からたくさんの植物を集めて、たくさんの家畜を飼って、誰も見たことのない料理を振る舞う宿がやりたかったの。だから絶望したものよ。永い冬が訪れると聞いたときは」
「宿を……」
「何年かは冬守りを務めた。でもだんだん耐えがたくなってきた。冬のシナト村にはあまりにも変化がなくて、文化もなかったからね。ある時、私は時計をシナト村の一番高いところに掲げたの。すると商人がやってきた。大きな馬に乗った優男だった。私の願いをじっと聞いて、聞き終わるころには彼の背後にこの建物があった。地下水をくみ上げて、湯にして湧き出させる機械があると言っていた」
「商人……永い冬に訪れる商人、あんなものおとぎ話のはず……」
「実際にこの宿がある。それは証拠にならない?」
アルジアの方を見ると、彼女は楕円形の果物をナイフで開いていた。赤に近いほど濃いオレンジ色の果肉。果汁を口の端から垂らしつつ食べている。
「ここには何でもある。食べ物も、美術品も、本もある。何よりも暖かい空気がある。宿を維持するための物資もたっぷり百年分あるの。私は冬守りの役目から解放された」
「……じゃあ、ガランはこの宿を守っていたのか」
それは奇妙だと感じる。この宿には想像を絶する豊かさがある。ここをガランとミシュナが使っていたとして、他者を拒むのは理解できない。数人増えたところで問題ないはずだ。
「商人は二つのルールを課したの」
ミシュナが言う。
「一つ、この宿には人間は二人しかいてはならない。三人以上になったまま36時間が経過すると、宿は煙のように消えてしまう」
「何だって」
「この36時間というカウントは一瞬でも三人以上になった場合に始まる。宿にいる人間が二人以下になってから一万時間が経過すると元に戻る」
もう一つ、と指を立てる。
「このルールは宿を訪れた人間すべてに教えなければならない。それが商人の求めた対価。商人は人の人生を食べていると言っていた。このルールによって冬守りの人生に生まれる妙味、それを食べるそうよ」
「……」
この宿が、煙のように消える。
あまりにも酷な話だと感じる。これほどの豊かさを、心地よさを、安全を、二人しか味わうことができないとは。
「だから……ガランはこの宿を守っていたのか。山に罠まで撒いて」
「そう、ガランはあなたが訪れるのを恐れていた。毎日、イールウォーグ村との中間地点まで行って、誰かがうろついてないか見張ってたの」
「そんなことのために……何もしなきゃ、俺だってシナト村まで来ることはなかった。宿だって隠しようはあったはず……」
「ガランはあまり宿に居着かなかった。マダラグマの肉は十分すぎるほどあったのに、それでも毎日狩りをしてたの」
「居着かなかった?」
「二人いれば、やがて三人になることもある、それを恐れたのかもね」
ミシュナは己の下腹部のあたりをさする。ルダンは無意識に眉をしかめていた。
「アルジアをさらったのはなぜだ」
「一人は寂しいからね。こっそり地図を送ったりもしてたのよ。でもアルジアは来なかった。何年も待ったのにね。しびれが切れたからガランにさらってもらった。ガランは山で行方知れずになるようにしたいと考えていた。だからアルジアが一人で村を出るのをひたすら待ったのよ」
ルダンはトラバサミの罠にかかった。
毒が塗ってあるからしばらくは動けない。アルジアが村の外に出る可能性が高かった。だから村の近くまでやってきて彼女をさらった。そういう事かと理解する。
「さあお二人さん、宿は三人いると消えてしまう。あなたたちのどちらかが村に帰ることね」
ミシュナは両手を広げて言う。
やはり様子がおかしいと感じる。声にはっきりと怯えが見える。
その理由をルダンは考えない。
本能的な忌避が働いていた。ミシュナの心情を理解することはおそらく難しくはない。しかし考えてはいけないことに思えてならない。
ルダンはテーブルを立って言う。
「少し、アルジアと話がしたい」
「どうぞ、アルジアの客間は奥の部屋よ。二人用の部屋だからゆっくり話して」
「アルジア。先に行っててくれ」
「……うん」
アルジアは何か言いたげだったが、席を立って食堂を出ていく。
ミシュナは困惑するような、落ち着かないような様子である。複数あるテーブルの一つに腰を預け、唇を人差し指ではじく。
そこには葛藤があると感じた。ルダンに言うべきことを言えずにいる。言おうとする言葉が、ミシュナという人間にあまりにもそぐわないから言えない。そんな解釈が浮かんだ。
ミシュナに聞きたいことが、問い詰めたいことがあったような気もしたが、それは言語化される前に消えてしまった。
彼女とは何も話すべきではない、そう結論づける。
「ルダン……よく考えてね」
「……ああ」
結局、それ以上言葉を交わすことはなかった。部屋を出ていく。
「よく考えてねルダン……お願いだから」
残響のようなミシュナの声。
何か、この宿のすべてが虚構に、あるいは舞台に思える。
何者かが人間という登場人物を置き、自由に演技をさせて悦しむための、悪魔の舞台であると。
※
客間は広々としており、やはり暖気が満ちている。
「なんでこんなに暖かいんだ……?」
「床に管が通ってるんだって」
アルジアがベッドに腰掛けて言う。スプリングの音がして、ふかぶかと腰が沈み込む。白いローブの裾が足元に広がった。
「温い水を流してるの。それにガラスもすごいんだよ。厚手のを三つ重ねて空気の層を挟んでる。だから外の冷たさがまったく届かない」
窓の外は雪原しか見えない。空からも少しちらついてきたようだ。
「アルジア。お前はここに残れよ」
考えてみたが、その結論しか無いと感じる。あるいはその結論以外を思いつくまいとしている。
「俺は村に戻る。冬守りを続けなきゃいけない」
「ルダン。ねえ。ここにいようよ」
アルジアの声は奇妙なけだるさを帯びていた。
ゆっくりとした動きでルダンの服を掴む。こびりついた血が褐色になりつつある麻の服。アルジアの爪は丁寧に研がれてオパールのように輝いている。
「冬守りはもういいよ。冬は百年も続く。私たちはどうせ春までは生きられない」
「そうかもしれないけど、でも」
「ねえ、ルダン」
抱きよせる。ルダンは中腰になって首を抱かれる。アルジアは燃え上がるほどに熱を持っていた。肌はみずみずしく、髪から立ち上る香気は桃のように甘い。相当に年齢を重ねているはずなのにそれが感じられない。冬守りを任じられた頃からまったく年を取っていないような錯覚が襲う。
「二人でいようよ、ここにいよう」
「アルジア、でも三人いたら宿が消えるんだろ」
「ミシュナを」
「こ」
瞬間。
その言葉が氷の粒のようにルダンの耳に刺さる。ぎょっとしてアルジアを見れば、彼女は激しく上気している。すさまじい恍惚が彼女を包んでいる。あるいは自分を燃え立たせて、言葉から現実感を抜こうとしている。
「アルジア、そんなことを言うな」
「私、ルダンが冬守りで良かったと思ってるよ」
そんなことを言う。
「いつも思ってた。頼りになるし、かっこいいし、強いよね。ガランも したんでしょう」
その単語が聞き取れない、アルジアが言う言葉とは思えない。
だが間違いなく現実。この夢と現実の境目のような宿で、アルジアがこぼすのは現実に立脚した、凄まじく鋭利な言葉。
「私が主人をやるよ。ルダンはずっとお客でもいい。たまには旅人が来るかも知れない。その時は二人でもてなそう。1日だけならお客さんを受け入れられるからね。きっと楽しいよ」
至近距離でアルジアと目が合う。輪郭が溶けるほどに潤んだ目。真っ赤な肌と、すさまじく速い鼓動。
「それ以外の日は、ずっと二人で過ごそう。楽しく笑いあって、いろいろなことをして」
「アルジア……俺は」
「ねえルダン、ここは楽園でもあり、地獄でもあるの。それってね、きっと矛盾しないんだよ」
腕にぎゅっと力を込めて引き寄せる。ルダンは彼女に覆いかぶさるように倒れ、ベッドに手をつく。
「楽園はね、ほんの数人しか入れないから楽園なの。この世のすべてが楽園なら、誰もそれをありがたいと思わない。この世が地獄だから、安らげる場所が楽園になる。分かるでしょう。楽園は、幸福は、奪い合うことがその本質」
「やめてくれアルジア、そんな恐ろしいこと」
「今なら」
吐息には甘い匂いがした。果物の匂いか。それともこれが地獄の匂いなのか。
「今なら、何でもできる気がするの。ルダンも、きっとやれるよ。もう。できなかった、なんて、言わないよね……」
沈黙が下りる。
とても長い沈黙。
あるいは百年も続くかのようなーー。
※
雪が降っている。
風もだんだんと激しくなりつつあった。数時間後には、山々はまた吹雪に閉ざされるだろう。
大柄な体をマダラグマの死体から引き抜く。下敷きになっていた男は気を失っていたが、折れた足の痛みで目を覚ます。
「うあっ……」
「痛むか、辛抱しろ」
足は奇妙に曲がっており、とても歩けそうにはなかった。ルダンは男の装備をすべて剥ぎ取り、両腕で抱え上げる。
「ぐっ……肩が痛えな。肉がえぐれてるからな……」
「お前……ルダン」
ガランの体温はかなり低下している。急ぎイールウォーグの村まで行き、火で温めねばならないだろう。ルダンはスキーを履いた足ですり足のように歩く。
「あんまり動くな、俺も体がガタガタなんだよ」
「なぜ助ける……楽園へ行かなかったのか、お前の妻が……」
「行ったよ、けどまあ、俺には必要ない楽園かな」
振り返りはしない。
あの赤い屋根の宿で、アルジアとミシュナがどのように日々を過ごすのかも興味はなかった。考えたくなかった。
「お前、ミシュナのことが重荷だったんだろ。美人だからな」
「……」
「プライドが高くて頭が良くて、料理もうまいんだな。本当なら冬守りなんてする人じゃないんだよ。村長たちが人選を間違えたんだ」
「そう、かもな」
「宿にいたくないなら、イールウォーグ村に住めばいいさ。足が治ったら雪かきを手伝え、骨接ぎもちゃんとやってやるから」
「……いいのか。お前を殺そうとしたのに」
「いいさ、永い冬だ。一緒にいれば殺し合うこともある。笑い合うこともな」
ルダンは己の心を見つめる。
もうあの宿には二度と戻らない。おそらくはアルジアに会うこともない。
そのことに焦りを持たずにいられる。受け止められている。あの宿の豊かさが惜しいとも思わない。
その背徳的な自由を、ルダンはひそやかに噛み締めた。
「俺たちの楽園は、ここにあるだろ」




