第二十一話
それはルダンとガラン、双方から50メートルほど離れた地点にいる。吐く息は白くならない。体温を極限まで低下させて眠っていたからだ。
本来なら百年あまりも眠るはずだった個体。それが起き出すことがあるとはルダンも知らなかった。血と脂と熱、どれに反応したかは分からない。
そいつは全身をぶるぶると震わせている。体に溜めておいた脂肪を燃焼させ、体温を取り戻しつつあるのだ。
(深冬眠個体、見るのは初めてだ、普通のマダラグマとどう違う)
ルダンはその巨体に直接意識は向けない。常にガランのいる方向から注意を逸らさない。どんな音も聞き逃さぬように耳を澄ます。
もしガランがマダラグマを打とうと矢を引き絞れば、穴の外に体を出すはず。その瞬間を狙う。あるいは窪みから出て前進する。
だが、ガランは動かない。何の音もしない。鉄の矢じりが触れ合う音すらも。
(マダラグマ、どっちへ向かう)
マダラグマは二人に気づいているはず。そして捕食対象であると認識しているはず。
あのマダラグマはおそらく人間を見たことがない個体。猟師の恐ろしさを知らないはず。体温が戻ったならば、迷いなく駆けてきて食らいつくだろう。
そしてマダラグマは動きつつある。息が白くなり、ごふごふと霜の混ざった咳をする。じりじりと二人のいる方向へ近づきつつある。
(ガラン、やつに矢を射て)
わずかに頭を出す。ガランのいる方向、雪壁の向こうには何の動きもない。
(もしマダラグマのほうに矢を射てば、二の矢をつがえる前に仕留めてやる。マダラグマがあんたを襲えば、俺は穴を出て一気に近づく)
マダラグマは雪壁のあたりに至る。ちょうど双方の中間地点。
おそらくマダラグマ自身も迷っている。二つの獲物のどちらに向かうべきか。その殺気とも戦慄ともつかぬ気配を吟味するかのようだ。
そして。
くるりと鼻を向ける方向は、ルダンの陣地。
「……」
聞いたことがあった。いい猟師が持っているものはすなわち才能、体格、良き指導者。
そして何よりも、運であると。
あるいはガランの猟師としての格に、何者も寄せ付けぬ殺気に、マダラグマも無意識のうちに威嚇されたものか。
近づくほどに、その体躯の威容が分かる。
8メートルを超える個体。おそらく15歳を超えるオス。あらゆるものを食らってきた山の王。その爪は氷を土くれのように砕き、人間を紙のように引き裂く。
そして雪上の走りは人間など及ぶべくもなく、力は分厚い雪の層を押しのけて上がってくるほど。
(……かなり高齢。落ち着いてる。血の匂いを嗅いでるはずなのに興奮していない)
ルダンは山刀を取り出す。研ぎ澄まされた刃渡り30センチの反りのある刀。
ルダンはマダラグマの毛づやを想起する。濡れた体毛、分厚い脂肪と頑健なる骨。もし山刀でマダラグマを討つならば、眉間の急所、骨と骨のつなぎ目に一撃を打ち込み、確実に脳を破壊せねばならない。だがルダンにそれは不可能である。両手で打ち込まねばならないが、ルダンの左肩の傷がそれを阻む。
(マダラグマ、こんな人間同士の戦いの場に呼んで悪かったな)
(今の俺じゃあ、お前に勝てない。食べたいなら食べるがいいさ)
(だけど……)
影が下りる。
数メートルの距離に、マダラグマの姿がある。
立ち上がって、窪みの中のルダンをじっと見下ろす。黒い瞳と黒い鼻がその存在を嗅ぐ。
次の瞬間。
マダラグマはぐるりと振り向き、そして雪を蹴立てて駆け出した。
ガランのいる方向へ。
「よし」
ルダンは起き上がり、血をこぼしながら駆け出す。もはや打てなくなった弓は捨て、山刀だけを持って。
ガランの姿が見えた。上半身を雪の上に出して弓を構えている。ルダンと同じく白い毛皮をまとった強面の男。歴戦の猟師が持つ凄絶な目、眼輪筋を限界まで引き絞るような目が。
一秒、ガランは逡巡する。マダラグマとルダンのどちらを狙うべきか。
マダラグマしかありえない。だが一瞬の迷いが手元を揺らがせる。射ち出された矢はマダラグマの頬をかすめ、背中の盛り上がった部分に突き刺さる。マダラグマが吠える。
ガランは足元に置いていた矢筒から矢を引き抜き、つがえるのと引き絞るのをほぼ同時に行い、細かな狙いを放棄して放つ。信じがたい早業。矢が放たれる瞬間、それはマダラグマの眼球から数センチの距離にあり。矢が食い込みながら脳に届く瞬間、短剣を並べたような爪がガランの肩から腹部を切り裂く。
傷は浅い、斬り裂かれたのは膠で固めた鹿革の防具か。だが次の瞬間にはマダラグマの巨体がのしかかる。駆けてきた勢いのままに、岩のような超重量が。
どう、とマダラグマが倒れる。ガランがその下敷きになる。
ガランは潰れはしなかった。肉体の頑健さか、防具がつっかい棒になっているのか、だが身動きは取れないようだ。
顔は青ざめ、痛みに顔をしかめる様子がある。いくつかの骨が砕けたのか。ルダンは山刀を納め、そこへ近づく。
「な、なんでだ……」
ガランが言う。
そしてルダンを見て、その奇妙な姿に目を見開く。ルダンの体は全身が血にまみれていた。左手首に複数の裂傷があり、今も出血が続いている。
「賭けだった。手首を切って、全身に血を浴びた。マダラグマから見て死体か、少なくとも瀕死に見えるように息を殺した」
「し、死んだふりなんて……迷信だろう。血と脂の匂いがする獲物を、マダラグマが無視するわけが」
「普通ならそうだ。だけどマダラグマはあんたにも気づいてた。殺気を放っている誰かの存在。あんたはマダラグマにとって放置できない存在だった」
「……! そ、そうか」
普遍なる野生の掟。
腐っていない死体があるなら、迷わずそれを食べる。
だが周囲に敵がいるなら、獲物を横取りされる可能性があるなら、それを潰そうとする。
起死回生の一手と言うにはあまりにも無謀。マダラグマが何も考えずにルダンの頭にかじりつく可能性のほうが高かっただろう。
だが、立っているのはルダン。
たとえいくつもの深手を負い、大量の血を失って青白くなっていようとも。
「あんた、シナト村のガランだな。前に祭りで見たことがある」
「あ、ああ、お前はイールウォーグ村のルダン、か」
「楽園という言葉を知ってるか」
「し、知ってるさ」
シナト村の方を眺める。やはり白くのっべりとした山並みが続いている。
だがその中に、赤い点のようなものが。
建物の屋根だと認識される。地図で確認していたシナト村の位置とは少しずれている気がする。雪上を歩いて一時間ほどの距離だろうか。
「こ、殺せ」
ガランが言う。
「あ、足が折れてる。もうお前を止められない。お前が、ら、楽園へ行くところを見せないでくれ」
「……? 何を言ってるんだ? いや、それともう一つ聞きたい。アルジアをさらったのはお前か」
「そ、そうだ。楽園へ、招待した」
頭がかっと熱くなる。では、やはりこいつが。
「なぜだ! お前にも嫁さんがいたはずだろう! ミシュナとかいう美しい薬師が!」
「み、ミシュナが、一人で寂しそうだった。だから、イールウォーグ村の薬師を呼んだ」
疑問符が浮かぶ。ガランの言っていることが分からない。
「お前……アルジアに手を出したのか」
「だ、出していない」
ガランは意識が遠のきそうになっている。おそらく骨が折れた痛みのためか。内臓が潰れていれば、この永い冬では手のつけようがない。それ以前に半日もあれば凍死するだろう。
「……」
ルダンは手首の傷を見る。大きな動脈は避けたつもりだが、血は止まっていない。
懐炉の中の炭を取り出し、押し当てる。じゅうと音がして傷口が焼かれる。
そして雪をすくい取り、血で汚れた顔をぬぐうとスキーを靴に取り付け、赤い屋根の方向に向かって歩き出した。
「た、頼む。殺してくれ。情けをくれ」
「知るか」
ガランはずっと何かを叫んでいた。だがやがて、高空を吹きすさぶ風の音に紛れる。
血を失っていたが、意識は明晰であった。生と死の狭間を乗り越えた昂揚か、あらゆるものの輪郭がくっきりと見える。干し肉をかじるが唾液が少ない。乱暴に噛みしだきながら歩く。スキーで滑ることはしない。警戒はずっと続けている。
太陽が中天に至るころ、赤い屋根の建物にたどり着いた。
「……何だろう。妙に暖かくなってきた」
赤い屋根の建物はかなり大きい。いくつもの建物が廊下で繋がっており、周囲には土が露出している。
足元に水が流れており、それはもうもうと湯気を放っていた。その川に沿って雪が溶けており、はるか西の果てまで谷ができている。
「温泉? 硫黄の匂いはしないけどな……」
シナト村には温泉があるのだろうか。それを指して楽園と表現したのか。しかし、温泉があるなどという話は聞いたことがないが。
建物には正面入口と思しき大きな扉がある。黒壇で造られた両開きの扉であり、ドアノッカーがついていた。
「……誰かいるのか」
ドアノッカーは無視して扉を引く。途端に、中から暖気が流れ出してきた。
甘い匂いと適度な湿気。ちちちと鳥の鳴き声もする。
そこはホールになっており、奥側にカウンターがある。大型の植物の鉢植えがあり、つるで編まれた椅子があり、女性の裸体をかたどった大理石の像がある。絵画があり、飾り物と思われる白磁の壺も。
「いらっしゃい」
女性がいた。カウンターにもたれかかり、豊かな胸に長い髪を垂らしている。化粧っ気があり彫りが深いため年齢が分かりにくい。元より女の年齢を見分ける眼など持っていない。アルジア以外の女性を見るのは本当に久しぶりのことである。
「あんた……ミシュナだよな、前に祭りで……」
「あなたイールウォーグ村のルダンね。ここに来たってことはガランを殺したのかしら。なんだか血なまぐさいし」
「殺しちゃいない。あいつは動けなくなったから……」
鳥が飛んできた。尾羽根が長く、オレンジ色のくちばしを持つ鳥。ルダンはこの鳥を見たことがない。
「まずお風呂に入ったら。右に行くと浴場があるわよ」
「俺はアルジアを……」
「彼女なら先に入ってるわよ。脱衣場は男女別だけど浴場は共通だから、行ってあげたら」
ルダンは一瞬だけ眉間にしわを寄せる。
状況の異様さのためではない。ミシュナの声に違和感があったからだ。平静を装っているが、どこか怯えているように思える。舌の先が震えるような声である。
(……当然か、ガランを殺したと思われてる)
「アルジアを連れて帰る」
「だから浴場よ。ガウンが脱衣場にあるから、適当なの使ってね」
訳が分からぬながらも、言われた方へと向かう。
じっとりと汗をかいてきた。気温が非常に高いのだ。永い冬にはとくとなかったほどに。
廊下には柱時計やタイルのモザイク画などが何気なく飾られ、あらゆるところに植物が置かれている。一度も見たことのない花も多い。
脱衣場というのは床にラシャを張った部屋であり、編み籠の中に服を脱ぐらしい。それは無視して奥の扉を開ければ、もうもうと湯気が流れ込む。
建物に囲まれた中庭である。熱帯を思わせる緑の濃い植物が群れなしており、果樹もあれば大輪の花もある。
そして湯の張られた石組みの池に、女性が。
「アルジア!」
「あ……ルダン」
彼女は湯から上がって駆けてくる。ルダンは彼女を抱きしめようとして少しためらう。血と脂で汚れた姿がひどく場違いなものに思えた。
そしてなぜか肩と手首の傷が痛み出す。熱を受けて肉体が活発になったことと、痛みを止めていた気力が影を潜めたからだろう。
「待ってくれアルジア、俺は汚れてて」
「ルダン、ひどい怪我」
アルジアは奇妙なほどに肌に張りがあった。毎日の雪かきと仕事で擦り切れていた手、それが水を吸って膨れているかのようだ。
「待ってて、ここには薬草もたくさんあるの。それと血の気が足りてないよ。そこのお湯を飲んでおいて」
見れば獣の石像があり、口から湯が噴き出している。ルダンは急に喉の渇きも覚えた。湯を手ですくって飲む。
「温泉じゃない……硫黄の匂いもしないし、完全な真水だ、それを沸かしてあるのか……? どれだけの燃料を使えば、こんな……」
「ルダン、ごめんね」
傷の手当てをされながら、アルジアが言う。腰にだけ布を巻いたアルジアは分厚い葉の薄皮を剥ぎ、緑の濃いどろどろした物体を傷口にすり込む。不思議なことに一瞬で痛みが引いた。出血も止まっている。
肩の傷には長い葉を何枚も貼り付ける。ひやりと冷たく、さわやかな香りが鼻に届く。手の指を動かしてみると、引っかかる感じもなく自然に動かせる。何かの薬効というより、筋肉の無意識な緊張が取れたためのようだ。
「おい、こっちの温泉、魚が泳いでるぞ」
透明な湯の中を、大小さまざまな魚が泳いでいる。湯を囲む石には亀などもいる。
「そう、温水養殖って言うんだって。ここはすべてが完結してる環境なの。向こうには鶏もいるし、離れた場所で豚も飼ってるの」
「ここは何なんだ。シナト村にこんな場所があったなんて聞いたことないぞ」
「ここはね、楽園なんだって」
アルジアは言う。
その言葉に奥深い感情があると感じた。だがルダンには、それが何なのかまでは読み解けなかった。
「そしてたぶん、地獄なの……」




