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次の冬ごもりは百年  作者: MUMU
第四章 斑の迷宮
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第二十話



楽園。その言葉はほとんど見えないほど遠くに感じられる。記憶の底からようやく引っ張り出すイメージも、絵本のようにチープなものだ。


「楽園が……シナト村にある?」


この地図を誰が残したのか。順当に考えればアルジアしかありえない。


ではこれを書いたのは彼女だろうか。木箱からは他にも手書きの文書がいくらか見つかったが、どれがアルジアの筆跡なのかは分からない。奇妙な地図との比較もできない。


「……アルジアが、ここにいる」


それは確信や予感というより、祈りに近いものだった。


もしアルジアが誰かに攫われていないなら、どこかに閉じ込められてもいないなら、この雪の平原で迷い、行き倒れたという結論にしかならない。

皮肉な帰結。アルジアがシナト村にいるならば、彼女の生存にわずかな可能性が見えてくる。


「……待ってろ。俺が必ず助ける」


ルダンは、前にも増して濃密な訓練に明け暮れる。

何本もの弓を壊し、的を潰して、矢を作り直す。

集中力が、筋力が、視力すらもが向上していく感覚。

冬守りのために用意されていた穀物と、クマの肉を鍋で煮る。ゼラチンと脂で白く泡立つそれに塩を振って食べる。味などほとんど意識もしていない。腹に詰め込んだらすぐに布団をかぶって眠る。


年齢、というものを思考から排除する。


自分はまだ若い盛りであり。射ったぶんだけ技が磨かれ、食べたぶんだけ肉が分厚くなる。そういう錯覚を持とうとする。


貯蔵庫のクマの肉は減っていくが、過剰なほど狩りに明け暮れていたことが幸いした。蓄えはまだまだ残っている。マダラグマを数頭分も腹に収めた頃。ルダンの右腕は鉄のように硬く。大木のように厚ぼったくなっていた。


「……もう少しだ」


攻め込む日は決まっていた。風が強く雪の多い日。できれば吹雪の日が望ましい。ルダンは訓練を続け、弓と防具の改良を続け、そして村の雪おろしをも続けて、来たるべき日を待ち続けた。





北から南へと、一瞬で吹き抜ける風。

それは皮膚を切りさいなむような冷たさ。湿り気のある雪が顔の露出した部分を打ちつける。

その中をゆっくりと進む。あらゆるものに注意を払いながら。


スキーを履いていても、積もったばかりの雪にはすぐに沈み込んでしまう。わずかに足先を挙げて段差を踏み越える動き。だがこの動きは足への負担が大きく。ルダンは1時間進んでは30分休むというペースを繰り返した。


シナト村まではかなりの距離があり、イールウォーグの村から見れば登りが多かった。ルダンは強い風雪の中をクマのように進む。


進むほどに緊張は高まる。自分はガランに捕捉されているだろうか。やつの剛弓はこの強風の中でも狙えるだろうか。


理想は夜のうちにガランの横をすり抜けてしまうことだった。だが思ったよりも雪が柔らかく、速度が上がらない。罠にも警戒せねばならない。


そうするうち、妙なものが見えてきた。


「……壁?」


壁というよりは雪を適当に盛り上げただけの構造物。高さは160ほど。横はどこまでも続いている。その上に少し雪が積もり、畑のうねのようなものを形成している。


「……目隠しの壁か。おそらく。この向こうにガランがいる」


言葉が白い息となって立ち上る。風と雪は少しだけ弱まりつつあった。ルダンは口当ての布を鼻のあたりまで上げ、もう二度と喋るまいと心に決める。


ひゅん、と鳥が遠鳴きするような音。


視界の果て、暗闇の中に何かが打ち上がり、するどい放物線を描いて少し前の地面に。


「!」


身をかがめる。雪の地面に矢羽根が露出している。わずかな月明かりの中で見えるのは白い羽根だ。


(射ってきた)


視線は上げない。雪に身を沈める。


ど、ど。

雪に矢が突き立つ。


(落ち着け、動くな)


距離を測る。風切りの音の長さから見ておおよそ80から90メートル。風は弱まりつつあるが、まだ旅人の帽子を飛ばすほどの強さがある。どれほどの達人でも曲射で狙えるはずはない。


(俺の接近に気づいたのか)


おそらくは壁に覗き穴がある。壁に張り付いて接近する人間を見張っていたのだ。


つまり狙うべき点は、壁のわずかに向こう。


雪上に仰向けになる。大弓に矢をつがえ、曇天の空を狙う。


(想像しろ、矢をきっちり90メートル先に落とせ)


射つ。


矢は空気をかき乱して飛ぶ。白く塗られた矢じりは透明な死神。雪に刺さる音がする。


2秒と置かずに音が返る。ルダンのものより大きな太矢。鉄の矢じりが深々と雪に突き通る。


ルダンはその場にいない。数メートル前進している。


地形を意識する。ガランとの間には壁を挟んでいる。どちらもまともには狙えないはず。


(音を聞いてみるか)


雪に耳を当てる。凍りつきそうな冷たさの向こうに音がする。大柄な人間が雪の中で身構える音に思えた。


(下の方は氷になってるけど、完全に固まってるわけじゃないな。おそらくここが高所だからだ。雪が固まらずに少しずつずり落ちてる)


氷は空気よりも音を伝えやすいが、音の方向までは分からない。位置を知ろうと思うなら、矢の放物線を見て射出地点を推測するしかない。


(向こうも防具をつけてるはず。50メートル、いや、40メートルまで接近しないと致命傷を与えられない)


音がする。


ぎっ、と雪を押し固める音。大きなものが這いずる音。金属が氷をひっかく音。


(ガランも動いてる。こっちに近づいてるのか、遠ざかってるのか)


逃げるはずはない、と考える。

敵はルダンを「楽園」に近づけまいとしている。ここで殺しに来るはずだ。


だが。音が止まる。


(……?)


耳を澄ます。何も聞こえない。


びん、と空を切る音。


空に矢が見える。かなり上空まで打ち上げられている。それが大きな放物線を描いて落下してくる。ルダンから10メートルほど。雪の中に刺さる。


(……そうか、あいつ、雪洞の中に入ったな)


おそらくは雪を縦に掘り、横穴を作って固めた空間。そこには寝具もあれば食料も燃料もあるはず。


音が消えてから射ってきたのは、やつが自分の陣地で迎撃の構えを作れたからだろう。おそらくは矢を防げる簡易的な盾もある。燃料を金属の懐炉カイロの中で燃やし、暖を取っているだろうか。そう推測する。


びん。


何度目かの矢が打ち上がる。さっきとは違う位置に着弾した。


(……こんなことで当たるはずがない。おそらく、俺が動くのを待ってる)


ガランが何をしているのか想像する。おそらくはルダンがゆっくりと壁に近づき、乗り越える瞬間を待っている。ルダンに動きがあるまで、適当な位置に矢を打ち続けるつもりか。


十本ほど矢を射たれる。ルダンは頭部を守りながら耐える。


矢は射たれなくなったが、一切の音が消えた。氷に耳を当てても何も聞こえない。


(俺を誘ってるのか……)


想像する。陣地の上で弓を水平に構え、耳は氷につけてルダンの足音を探っている人物を。


(雪はまだ降っている……)


しんしんと降る雪。顔料を塗り重ねていくように壁が分厚く、なだらかなものになる。

そのまま数時間を待つ。雪の壁をさらに雪が覆い、なだらかな丘のような眺めに近づく。


(覗き穴は埋まったはず)


(クマ皮を貼ったスキーならほとんど音はしない。やつに近づける)


ゆっくりと身を起こす。彼我を隔てる壁は十分に高い。身をかがめていればけして向こうからは見えない。


太く短いスキーで雪を踏みしめる。服が軋む音すら立てぬよう、そろそろと進む。


目の前にはいくつかの矢。雪の上に突き立って尾羽根だけが露出している。ルダンはそれに当たるのを避けて進む。


ぎしり、と。


矢をつがえる音が聞こえた気がした。強烈な力で弦を引き、矢の躯体がきしむ音が。


(……! 待ち構えてるのか、乗り越える瞬間に射る気か)


引き返すべきか。また風が強くなるまで待てば、何度でもチャンスは。


(……違う・・!)


ど。


壁が爆散する。大量の雪をはね散らす一瞬。ルダンは後方へ転がり、その肩を矢がかすめる。


っ!」


風切り音。


さらに二射、三射がすさまじく短い間隔で襲う。マダラグマの毛皮に突き立ち、内臓にまで突き通る衝撃。


窪みに隠れる。あらかじめ掘ってあった簡易的な穴だ。


それ以上射っては来ない。けして必要以上には近づかないつもりなのか。


(あいつ、最初から壁を撃ち抜くつもりだった!)


(俺が壁の向こうで、矢羽根の間を通ることを読んでいた!)


ガランが作っていたのは道。

未熟な弓手を自然に誘導し、射線上に立たせるための矢羽根の道。


(だ、だけど、雪が積もっている壁。厚みも1メートル近くあったぞ。そんなもんを射ち抜いた上であれだけの威力を残すなんて) 


あるいは、壁の中に空洞でも作っていたのか。


壁は防御の陣地というだけではない。罠としても機能するのか。そのような思考が散発的に浮かぶ。


今の攻防で、互いを隔てる壁に穴が空いた。向こうはルダンのおおよその位置を掴んだはずだ。だが射ってこない。

肩に出血があることと、胴にダメージがあることを見たからか。何もしなくても優位が崩れることはないと踏んだのか。


それきり、持久戦が訪れる。


(くそ、肩に力が……)


肩の傷の処置は最優先で行わねばならなかった。


毒が塗られている可能性が高かったため、傷口を絞って血を強く押し出し、筒を使って吸い出す。その上でアルジアの作っていた軟膏を塗り、きつく包帯を巻いて止血する。窪みの中は赤黒い血で汚れていく。その中で体を揺らして雪を固める。


傷口はやがて火であぶるような熱を持ちだす。やはり毒が塗られていたが、以前のトラバサミほど悪い状態にはならない。ルダンは呼吸を速めながら耐える。


(かすめただけだから毒の量が少なかったのか? それとも、雪の壁をぶち抜いたから矢じりが洗われたか)


傷は左肩、弓を支えるほうの腕だが、力がまともに入らない。矢を撃てたとしても威力は七割も出るかどうか。


そこから、およそ30時間。


どちらも動かない。日が昇り、夜が至り、また次の日の太陽が訪れても動くことはない。


風も雪もやんでいた。雲もなく、透き通るほどに美しい蒼天。何の音もない時間を緊張が満たす。


ルダンはけして意識を途切れさせなかったし、敵の気配に対する集中も切らさなかった。極力音が出ぬように移動し、最初に倒れた地点から20メートルほど横に動く。己の体重だけで作った窪みではあるが、少なくとも向こうからは見えないはずだ。


(動かない……音も立てない。悔しいが、さすがだ)


毒で弱ったことを見越して、ガランが攻めてきてくれた方がよほど戦いやすかった。


敵の陣地は不気味なほど沈黙している。


何の音も伝わらない。あるいはもういないのかと油断しかける。物音はおろか、殺気や観察の気配すら感じない。


クマの肉をかじる。煮込んだ砂糖に松の葉を混ぜた飴玉を舐める。雪の中の持久戦では、通常より多くの食料を取る必要がある。たっぷりの水も飲まねばならない。

簡易的な雪洞を作り、慎重に炭火をおこす。横穴の中で焚かれた黒槍樹ジンガルの炭はほとんど煙を出さず、じっくりと長時間燃える。


だが煙が皆無というわけではない。懐炉から漏れてくる煙を息を吹いて吹き散らす。


(熱が足りない、このままじゃじきに動けなくなる。手足も腐ってくる……)


退却することも考えた。

だが、次に吹雪が起こるのがいつになるか分からない。ガランに90メートルの距離まで接近できる機会はもう二度とないかも知れない。


(それに、やつが退却を許すだろうか)


(やつが動かないのは、まだギリギリ、こちらの弓が有効な距離だからだ)


(いい猟師は無駄に動かない。相手が動くまで待ち続ける。そういうことかよ)


ガランが曲射で狙ってこないのは、ルダンに死に物狂いの突撃をさせたくないからだ。


ルダンの体力と気力が消耗するのをじっと待っている。


ならばむしろ勝ち目が低いながらも攻め込むべきか。分厚いマダラグマの毛皮を盾にして雪上を進むべきか。


(だめだ)


それは捨て鉢に近い。たとえそれが最善だとしても選びはしない。戦略というよりは、ルダンの猟師としてのプライドがそれを許さない。


(何か……打開の手があるはずだ、何か)


集中だけを高める。

全身の神経がささくれだつような感覚。

寒さに逆らわずに同化する。

雪の中で雪のひとひらになる。


(……)


数分が、数時間が矢のように流れる。


その中で、何かが。


(……何だ?)


伝わってくる。ごくわずかな振動。数メートル先に羽根が落ちるようなかすかな音。あるいは大地下にひそむ幻想の獣。その鼓動にも思える音。


(まさか)


これだ、と思った。


肩からの出血を吸わせていた包帯。それをちぎり取って、鹿の脂と混ぜて矢に結わえつける。


寒さのために固化した白い脂、懐炉の中の炭で火をつけ、射つ。


ガランの反応はない。おそらく防具で身を固めているのだろう。蒼天の中に仄白い煙を引いて火矢が打ち上がり、ルダンともガランとも関係のない場所に落ちる。


血と肉と脂。それが混ざった泥のようなものが燃焼する。周囲の雪をわずかに溶かしている。


肉と脂の焼ける匂い。炎の熱。異音。それが雪の奥深くまで染み通り。


音が大きくなる。


地中を魚が泳ぐような不気味な音。呼吸音。がりがりと凍りついた雪を削る音。


沸き上がるように、現れる。


大量の雪を跳ね上げて。


(いた! 本当に眠ってやがった!)


それは灰色の体毛、白の体毛、双方がまだらに入り混じった巨体。数十年も眠り続けてなお、数トンの雪を押しのけて現れる獣。



(マダラグマ……深冬眠個体!)


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