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次の冬ごもりは百年  作者: MUMU
第一章 汝、遠吠えを恐れよ
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第二話


ニールはそのまま夜まで戻ってこなかった。


ようやく姿を見せたのはとっぷりと日が落ち、夜闇に遠く風のうなりが聞こえる頃。


ネルハンシェラは自分の小屋にケルトゥと一緒におり、雑穀とわずかなひき肉のスープで食事をとっていた。


「二人とも、家を移りましょう」


越冬官は出し抜けにそう言う。ネルハンシェラはきょとんとして尋ねる。


「家を……ですか? でも、村の家を勝手に使ってはいけないと言われていて……」

「構いません。二人とも、寝具を持ってついてきてください」


二人はわけがわからぬままに、毛布と木の枕を持って移動。ニールが案内したのは商人の家だ。なんと鍵が壊されている。ネルハンシェラは足を止める。


「いけません……私たちの家ではありませんし、お叱りを受けます」

「いいのです。あの本の封印は、冬が終わるまでけして解けることはない。咎める者はいません」


ニールは何かを確認するように周囲を見る。このあたりは家が密集しており、高い塀がそこかしこにある。


「村には家具なども残されています。集めておくといいでしょう」

「騎士様、そんなことしたら泥棒だよ……」


ケルトゥも困惑している。幼さの残る顔を泣き顔のように歪め、誰かに殴られるのではと怯えるように首をすくめる。


「二人とも、こちらへ」


ニールはストーブのある居間に入る。鉄製の薪ストーブには火が焚かれており、どこからかギンワタネコも入り込んで、ソファの上で丸くなっている。


「あれ、この薪ってうちにあるやつと違う……細くて黒っぽい」

黒槍樹ジンガルの枝です。ここに来るまでの道すがらに集めたものです」


黒っぽい、硬そうな薪である。越冬官は薪すらも自前のものを使うのか、とネルハンシェラは舌を巻く。


家には毛足の長い絨毯が残されていた。三人はそこに座り、視線を交わす。


「お二人は、永き冬のことはご存知ですか」

「ええ、村長さまとか……村の大人から説明を受けました。これから何年も、冬だけの時期が続くのだと……」


ニールは巨大なザックを置くと、そこから書物を取り出す。黒革張りの分厚い本である。旅の荷物に入れるには重そうに見えた。


「この大陸において、文字の記録を辿れるのは2000年ほど。その間にこのような長い冬がしばしば訪れました」


本はページが取り外せるようになっていた。何枚かのページを抜いて二人の前に示す。わずかに色のついた絵である。狩猟をしている人物。山に分け入って木の実を拾っている人物などの絵だ。細かい字でびっしりと文章が添えてあるが、非常に古くさい言い回しで、ざっと見ただけでは読めない。


「一度に厳冬に至るわけではありません。これから数年は、春と呼べる程度に暖かい日も訪れます。新芽は寒気の隙をうかがいつつ芽吹き、獣や鳥も少なからず残るでしょう」


また別のページを示す。今度は雪の中の絵だった。防寒着で着ぶくれた人物が、雪をかき分けて何かを探している。


「やがて春も失われます。しかし命が絶えるわけではない。雪の中に眠る子ねずみ、凍った湖に住む魚、冬枯れの木の樹皮を剥がして、煮て食べる、そんな日々が続くでしょう」

「越冬官さま、樹皮は食べられるのですか?」

「外側のざらざらした部分ではなく、外皮をはがして内側にある部分を食べます。食用樹皮というものです」


また別の絵が。


今度の絵は白一色である。広大な雪原。その中に佇む小さな家。嵐の前の蝋燭の火のように、冬の重みに今にも押しつぶされそうに思える。


「数十年ののちに、暖かな気配の一切は失われます。気温は氷点を超えることもほとんどなく、雪は解けることなく、湖は水底まで凍りつく。あらゆる物が深い眠りにつく、永遠のような静寂。そんな日々が続くのです」


ざっと、腕を払うように動かしてページを取り払う。


冬守りの二人は息を呑む。今の絵は寂しく、物悲しく、そして恐ろしかった。心の中に去来するイメージは名状しがたく、沈黙と停滞、あるいは死に近い概念が二人の背をそっと撫でるかのようだった。


「え、越冬官、さま」


ケルトゥが言う。


「冬はそんなに長くないはず……せいぜい10年だって、村の大人が」

「これまでの歴史において、このような長い冬は3年から10年ほど続くことがほとんどです。長いときでは25年ということもありました」


しかし、と、ニールは二人をかわるがわる見る。

重い沈黙があった。その小さな姿に、少年時代の栄華に浴すべき二人に、残酷なことを告げねばならぬと覚悟を決めるかのように。


「次の冬ごもりは、百年」


言葉が、悪霊のようにその場を漂う。か弱き人間たちを見おろしている。


「百年……」

「冬の長さを知るための、魔法の道具が王都にあります。それが示した数字です。このような長い冬は大陸の歴史の中でも一度しか例がありません。それは700年前に起きました」


それの絵は示されない。絵に描くことすら不可能なほどの莫大なる冬なのだと、そう語るかに思えた。


「大陸のほとんどの動植物は滅び、人間はほんの数十人しか生き延びなかった。大陸が元の姿を取り戻すまでに、途方もない年月を要したのです」


越冬官はそこで右方を向く。そちらにはネルハンシェラの家があった。「本」の置いてある家だ。


「冬を避ける方法は二つ。一つは船ではるかに南の大陸まで渡ること。しかし適当な風も海流もなく、一年がかりの航海です」


また黒革張りの本からページを抜く。そこには大勢の人間がいた。

老人が大きな本を捧げ持ち、それに皆がひざまずく絵である。


「もう一つが「魔法の本」に入ること。これには人間と、ある程度の物体や家畜を入れることができます。この2年あまり、王都から配られた「本」に大勢が入りました。富豪も庶民も、行商人も旅人も、無法者や囚人すらも入ったのです。今現在この大陸に、冬守り以外の人間はほとんどいません」


そのような説明は二人も知っていることだったが、二人のそわそわとした様子は消えない。百年という時間が巨人の手のように二人を押さえつけている。


「魔法の本には守護の力があり、ある程度は自身を守ることができます。風雪や火事などでは破壊されず、仮に海に捨ててもひとりでに戻って来る、そういう力があるのです」


それは知らなかった。少年と少女はただ本を守れとだけ言いつけられていたのだ。


「しかし絶対に安全という保証はない。長い冬の間、魔法の本を、そして村を守るために残されるのが冬守りです。王の発布する法によれば、人口が百人に満たない村では二人。それ以降は百人を超すたびに二人ずつ男女を置くこと、と定められています。残された冬守りのために、十分な食料を残すようにとも」


シェズ村の公的な記録での人口は138人、だから本来は四人の冬守りを置くことが求められる。


しかし冬守りは常に定めより少ない。多くを残せばそれだけ多くの食料を残さねばならないからだ。一人の人間の数十年ぶんの食料というのは、百人かそこらの村では到底賄えるものではないのだ。

ネルハンシェラは口内が渇くのを感じた。おずおずと口を開く。


「え……越冬官さま。百年を生きるためには、どのぐらいの食べ物が必要なのでしょうか」

「重量で答えるのは適当ではありませんが、人は70年あまりの生涯で13トン。13000キロほどの食料を食べます。倉庫にあった大樽を満杯にしておよそ100キロ。あれが130個必要なのです」


話に出てくる数字があまりに大きすぎて、冬守りの二人には受け止めきれないようだった。視界の果てまで続く大樽の行列、それを幻視するかのように視線を泳がせる。


「そして、あなたがた二人だけではありません」


ネルハンシェラがはっとなる。シェズの村において、二人が知るもっとも年長の人物でも70を超えるか超えないかである。


「百年の間にあなた方は世代を重ねなければなりません。村に新たな人間が増えれば、その人物にも生きるすべを教えるのです」


ネルハンシェラはつと横のケルトゥを見る。並んでみると二人はかなり年の差があるように思えた。長生して見えるネルハンシェラに対すると、ケルトゥはまだ形が定まっていない、柔らかな粘土のように思える。


その二人の関係性にはまだ名前がなかった。二人は恋人でもないし家族でもない。赤の他人でもなければ幼なじみと言えるほど親しくもない。ケルトゥが自分にとって何なのか、ネルハンシェラは言い表す言葉を持っていなかった。


「越冬官さま、冬守りは、たくさんの村に残っているはずです。その方が訪ねてくることはないのでしょうか」


ネルハンシェラが言う。何かに追われるように言葉が早くなっていた。


「……長い旗竿に、赤い布をつけて掲げるといいでしょう。それは人が不足しているという知らせです。大きな街では十人以上が冬守りになることもある。そのような街から旅に出る者がいれば、いつか旗を見つけるかも知れません」

「では、この村を訪れた誰かを受け入れて……」

「ですが、百年の間、一人も訪れないかもしれない」

「ど、どうしてですか?」

「道です」


越冬官は絨毯の上に線を引く。毛足の長い絨毯にわずかに指の跡が残るが、それを手のひらでこすって消してしまう。


「道は永続しません。数十年のうちには山々を渡る道は消え失せ、村の位置を示す看板も、旅人の休む小屋も、石造りの橋すらも消えてなくなる。深い雪が降りれば、もはや山を一つ越えることすら困難になるのです」


ニールの語り口はゆっくりとしており、二人がすべて理解していることを確認しながら話すような口ぶりだったが、それだけに二人に降りる感情をひしと感じるようだった。話すうちにニールの目は沈痛な色を帯び、二人に同調するかに思える。


「百年……」


その言葉を、概念を、ネルハンシェラは生まれて初めて意識した。

果てしなく長い川、終わりの見えない道、そんな言葉を聴く時、どれほど具体的にイメージできるだろうか。


あまりに巨大な概念は、ネルハンシェラにもまだ完全には見えていない。意識したのはもっと前にあるもの、すなわち自分たちの生死に関して。

獣は絶えて、草木も雪に埋もれる中で、自分たちはどう生きていくのか、生き延びられるのか、それを思い浮かべると背筋がぞっとする。


「大丈夫です」


ニールは、それは二人を元気づけるためだとはっきり分かったが、つとめて力強く言う。


「そのために越冬官がいるのです。私は数日ここにとどまり、永き冬を生きるためのすべを伝えようと思います」

「越冬官さま……で、でも、私」


「なるようになるわよ」


ふいに女性の声が聞こえたので、二人はぎょっとする。


暖炉の近くにうずくまっていたギンワタネコが、くああと短いあくびをした。


「大人は楽観的というより、悲観に耐えられないのよね。どうせ冬なんかすぐに終わる。いざとなれば王都から助けがくる。財産だけ本に持ち込めば問題ない。そう考えて冬守りを一番弱い子に押し付ける。どうせあなたたち身寄りがないんでしょ。そういう子が押し付けられるのよ。どの村も似たようなもんだったわ」


やたらと艷やかな、それでいて快活なものを感じる声。独立独歩で人生を歩む勝ち気な女性、そんな声だ。


「まあニールの話をよく聞くことね。百年の冬ってのは700年前にもあったことだし、記録はたくさん残ってるのよ。ニールはそういうのたくさん読んでるから。ああ、私はギンワタネコのドナよ、ニールの手伝いをしてるの」

「あの、越冬官さま、何を……」

「何よ、猫がしゃべるのがそんなに珍しい? 都会では常識よ。女はいたずら猫みたいなものって言うでしょ」

「え、あの……」


ネルハンシェラが困惑するのも無理はなかった。

ドナと名乗ったその声は、間違いなくニールから出ているのだ。声の方向から言ってもギンワタネコではありえない。

旅芸人の腹話術を見たことがあるが、ニールはそれを行っている。


「ところでそっちの坊や」


ケルトゥに呼びかける。


「ぼおっとしてるのは駄目よ。不安なのは分かるけど、話はちゃんと聞かないとね」


「狼に」


豆のさやを押さえたら中身が出てきた。そんな具合にケルトゥが言う。


「狼が村に来るよ。それで僕たちはおしまいなんだ」

「狼? そうね、獣よけの対策もちゃんと教えるわよ。罠の作り方もね。狼を狩れるようになれば食料の助けになるし、毛皮も骨も有用で……」


ケルトゥには言葉が浸透していないようだった。不安定な様子を見てドナも言葉を止める。



「狼が来るんだ……。いつか、きっと……」

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