第十九話
※
雪山を歩く。
しばらく歩いては立ち止まり、雪の上に痕跡を探す。獣のいなくなった山では雪はシルクのように滑らかな表面を見せる。
耳を澄ます、空気の匂いを嗅ぐ、振り返って目を凝らす。歩いている方向を雪の上にストックで刻む。そしてまた歩き出す。
アルジアが消えてから数日が経っていた。
山はわずかな色も見せなくなり、あらゆるものが白の底に沈み、イールウォーグの村にも綿をかぶせるように雪が積もる。
ルダンは何日も、何週間も山を歩き回ったが、アルジアの痕跡すら見つからない。せめて遺体でも見つかってくれれば、と思い、唇を噛んでその考えを打ち消す。
そんな日々であっても、最低限は村を守らねばならなかった。日に何度も雪を捨て、雪の重みで潰れかけた家を補修せねばならない。
斜面の下に雪を捨てるとき、眼下には白い混濁がある。凍りついた雪が無数のブロックになり、流体のようにうごめきながら下方を目指す眺めだ。数年をかけてゆっくり動く雪の大河は、その中に大木を巻き込んでいる。
もっと低いところに住む人々はどうなっただろうか。もはやおいそれとは下山もできず、正しい地形も分からない。人を見かけることもなく、獣は残り香すら消えている。
最初から何もいなかった。そんな想像が頭をかすめるとき、ルダンは己が狂気の際に立っていると感じた。
ルダンは狩りをしながらアルジアを探し続ける。
すねには黒槍樹の樹皮を巻くようにした。トラバサミを警戒しながら歩き続けることは不可能なため、可能な限り足を守るしかない。
イールウォーグの村の周辺、見渡す限りの山々はきわめて広大である。ルダンであっても慎重に方角を確かめていなければ道に迷う。もはや道と言えるものは存在しないが。
あの罠について、奇妙なことは二つある。
「あの罠には何の目印もなかった。あれを仕掛けた誰かは、どうやって罠を回収する気なんだ」
罠猟では仕掛けた罠の位置を記録しておき、時間を置いてから歩き回って点検するのが当然である。しかし、あの場所はあまりにも目標物がなさすぎる。
獲物がかかれば多少は目立ちもするだろう。だが雪に埋もれた罠を見つけるのは不可能に近い。地図に記録するとは言っても、基準となる目標物がほとんど無いのだ。
もう一つは、自分が生き残ったこと。
ルダンはおおよそ24時間で動けるようになった。軟膏や薬湯で処置したとはいえ、あまりにも早すぎる。
マダラグマの大きなものは体重1トンを超える。もしマダラグマを長時間動けなくする量の毒なら、ルダンは即死してもおかしくなかった。
「つまり……あれは殺すための毒じゃないのか? 動けなくしておいて誰かが仕留めに来るはずだった? そんな感じでもないよな」
すねの傷は大きなものが二つ、小さいのが一つ。食い込んだトラバサミの形までありありと思い出せる。かかり方が不完全で、たまたま少量の毒が入ったわけでもない。
「警告なのか? うかつに歩かせないための罠……?」
罠の回収など最初から考えてもいない。誰がかかっても構わないという罠。痛みと毒の苦痛を体に刻み込むための罠。
何のために? 何を警戒させている?
「……」
あまり健全な想像は浮かばない。あれを仕掛けた人間は頭がおかしくなったのか、山に縄張りでも敷いているのか。あるいは罠にかかったのが女子供なら、そのまま連れ去って奴隷にするための。
「アルジア……」
彼女は捕まったのだろうか。
あの日、ルダンはスキーを履いていたとはいえ、かなり出血していた。何者かがその血の跡を追ってイールウォーグの村まで来た。ルダンを捕まえるはずが、村から出てきたアルジアの方を。
「そうなのか……? この俺を……?」
だがそれは迂遠な話だ。ルダンを捕獲したいなら、トラバサミに鍵でもつけて人間用にすればいい。
アルジアが消えたことと、トラバサミは関係してるのかも知れない。しかしそれは、何というか「たまたま」のことだという気がする。
「それにやっぱり、他の村は見つからない……俺以外の猟師も」
生命のない白の世界。ルダンは顔を上げて。
何かが目に入った。
最初はそれが何か分からなかった。
地平線の果て。目が何かに焦点を合わせている。
風はない。雪もちらついていない。空の青と大地の白。世界を構成するのは二色のみ。
その果てに、何かが。
びん。
そんな音を聞いて。
接近。
大きく。
飛来し。
矢じり。
「!」
どん。と腹部に強烈な衝撃。内臓がねじれる。全身の筋肉が剛直する。意識が飛びそうになる。
「が、はっ……!?」
猟師の身につける腰帯は鹿革のものであり、胴部を頑丈に締め付けている。それでも肉を貫通したかと思うほどの重い一撃。
「ぐ……野郎」
ルダンは十数年ぶりに悪態をつき、雪の中に転がる。柔らかい雪はすぐに全身を埋める。
(射ってきた、あれは狩人)
(だけど、どうして)
「答えろ!!」
ルダンは空に向けて叫ぶ。あきれるほど澄んだ蒼穹。雪の冷たさが全身から染み込んでくる。
「お前は誰だ! アルジアをさらったのはお前か!」
「近づくな」
声はくぐもっている。口に布をあてているのか。だが他に何の物音もないため。奇妙なまでにはっきりと聞こえる。
「この山に近づくな。これ以上西に来るな」
「質問に答えろ! アルジアをさらったのはお前なのか!」
「踏み込めば、容赦なく殺す」
がぼがぼ、と雪をかき分ける音がする。ルダンは顔を上げられない。音で立ち去ろうとしてると見せかけて、ルダンが身を隠したあたりに弓の狙いを合わせていたとしても不思議ではない。
そのまま小一時間も伏せていただろうか。
ようやく顔を出して周囲を確認したときは、すでに誰もいなかった。
雪の上には人の歩いた痕跡。それがずっと西まで続いている。
その足跡は追えない。あの射手の前に身をさらす可能性が高い。
「西……」
このあたりはあまり来たことがない。ルダンが狩りを行う範囲よりかなり西にはみ出した場所である。
西には波のように山が続いている。あまりにも単調な線のために距離感が失われるが、永い冬でなければ、どの山も数百頭の鹿を抱えていた大きな山だった。
「そうだ……トラバサミが仕掛けられてた場所も、ここからさほど遠くない」
そして、生きた人間がいた。
ルダンはそれを敵と認識する。
西の山々を睨みつける。ルダンは踏み込んだことがない山。だがそこには確かに、一人の敵が。
※
村に戻ると、ルダンは村にあった地図を確認する。
「これだ、シナト村。ここから西にある村」
縮尺の非常に大きな地図であり、山の一つがボタンほどの大きさしかない。ここに描かれている道も川も、森も林も今はほとんど役に立たない。
「このあたりは狩りでも行ったことがない……じゃあ、あいつはシナト村の猟師なのか。俺に近づくなと警告を」
では、アルジアをさらったのもあの男か。
検証するつもりなど無かった。あいつはいきなり他人に矢を射かける危険な男。あまりにも危険な猛獣だ。生かしておくわけに行かない。それが世の中の摂理であると感じる。
矢を用意する。研ぎ直したばかりの矢じり、アルジアが用意していたハリカブトの毒を塗る。
マダラグマの毛皮を背負い、装備を腰に巻いて、雪の中に出ていかんとして。
「……」
冷静になろうとする。
意図的に口で呼吸し、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで火照りを鎮める。
「相手はクマじゃない。人間だ」
ルダンの行っていた狩りでは、まずは獣の痕跡を見つけて追跡する。
見つけた場合は十分な距離を取って射かける。野生の獣にとって負傷は死と同義である。その場から逃げたとしても、あとは血の跡をひたすら追跡すればいい。
人間はそうはいかない。人間は矢を抜いて、出血を止め、毒を中和させる技術を持っている。それに致命点を保護する防具も身につけるだろう。
それ以前に、何の用意もなく立ち向かえば、向こうが先にこちらを発見するはずだ。雪に覆われているとは言え、地の利は向こうにある。
「今のままじゃ勝てない……」
ルダンは家に引き返し、囲炉裏端にどかりと座り込む。
まずは考えることから始める。
自分に何ができて、何ができないのか、あいつに勝つために必要なものは何か。
その日は一睡もしなかった。屋根は積もる雪の重量できしみ、夜風は村を吹き抜けて戸板をがたがたと鳴らす。
絶え間ない風の音と、雪が屋根から落ちる音。
ルダンはただひたすらに考え続けた。純粋なる殺意と、鋭利なる理性をもって。
※
翌日より、ルダンは大量に矢を用意し、村に置いた遠的に向かって試射を続ける。
ルダンの使っていた弓は扱いやすい小型のものであり、マダラグマの皮と肉を貫通できる距離は90メートルほど。
ルダンは村で一番大きな弓にさらに固めに弦を張る。これであれば有効射程距離は150メートル。矢を届かせるだけなら300メートルを超える。
一射ごとに腕の筋肉がきしみ、骨が悲鳴をあげる。腕の肉を鍛えねばならなかったし、筋肉が切れては意味がない。ルダンは冷静に練習量を見極める。食事も保存してあったクマの肉を多めに食べるようにした。
防具も考えねばならない。マダラグマの毛皮はアルカリで漂白してより白くし、顔を保護する布や、ブーツも白いものを選ぶ。弓にも白い糸を巻き、矢羽根も白いものを選んだ。心臓と頭部を鉄板で守れないか考える。
ーー困難に直面したときには、まずは考える時間をたっぷりと取ることです。
いつかの越冬官はそう言っていた。
ーー冬守りにとっては時間こそが最大の武器なのです。よく考え、鍛錬し、さまざまに用意すれば解決できない問題はありません。
あの男は何者だったのだろう。若く見える割に老人のようなことを言うと思っていた。だが今はその助言をありがたく思う。
一日一日が濃密だった。何度も弓を調整し、自分の肉体を見つめる日々。それでも150メートル先の的に当たるまで一ヶ月ほどかかっただろうか。
だがまだ不足だった。ほとんど点にしか見えない150メートル先の人体。その眼球を撃ち抜くような神業が必要だった。ルダンの腕は腫れぼったくなり熱を持ち、それはやがて引き締まった肉となる。不自然に右腕だけ太くなるような弓師の腕。村一番の弓の名人がこんな腕だったことを思い出す。
ルダンはシナト村のことも調べた。そのような記録は一箇所に集めてアルジアが管理しており、木箱の中に大量にあった。
イールウォーグとシナトの村はともに猟師の村。狩りの途中で出会うこともあれば、凶暴なマダラグマが出れば協力して山狩りをしたり、互いの村で農産物を交換したりもする。そのため、猟師たちはなるべく親交を深めようとしていた。
必要なのはシナト村についての情報。それはすぐ見つかる。公的な書類や覚え書きなどが一冊の本にまとめられていたのだ。
「ええと、このあたりか、永い冬が訪れるとのお触れが出て、それぞれの村で冬守りを選ぶことになった。シナト村での話し合いには我が村からも人間を出して参加させた……」
この付近の村は冬守りを選ぶことに真剣だった。雪の多い土地であるから、建物の保全が重要な問題だったのだろう。
そのため冬守りには優秀な人間が選ばれた。それぞれの村で狩りができる者、怪我や病を処置できる薬師を選ぶべきだと取り決められた。
「シナト村の冬守りは……猟師のガラン、薬師のミシュナ、か」
その二人には覚えがあった。複数の村が参加する収穫の祭りで見かけたことがある。
ガラン。大人でも引けない剛弓を軽々と扱い、矢の一撃で杉板五枚を貫通してみせた。
ミシュナは美しい薬師だった。妖艶なと言うべきか艶めかしい雰囲気があり、まだ7つか8つだったルダンもどきまぎしたのを覚えている。
「ガラン……イールウォーグでも音に聞こえた猟師、あいつが俺を射ったのか? なぜあいつが。シナト村はどうなったんだ」
はらり、と。
ページの隙間から白い紙が落ちた。ルダンはそれを拾い上げる。
描かれていたのは簡単な地図と短い言葉。
「? これ誰の字だ? アルジアの字なのか」
そういえばアルジアの字というものを見たことがない。
地図は山の形などを簡単に記してある。森や川の記述がないから、永い冬に入ってから書かれたものか。
矢印が一本だけ書かれ、それが示す地点は。
「ここからずっと西、シナト村の周辺……!」
このメモは何なのだろう。誰が何の目的で書いたのか。今、シナト村についての古い記録から出てきたように思えた。なぜここに挟んであったのか。
そして、メモの中央にある短い言葉。
「……楽園?」




