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次の冬ごもりは百年  作者: MUMU
第四章 斑の迷宮
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第十八話



世界は白く染まっている。


真綿のように柔らかい雪が山々に降り積もり、霞がかった世界で稜線すらもかき消えている。


天は白く地はしろい。光の色に近いほどの純粋なる白。


そこを進む若者の名は、ルダン。


短めのスキー板が取り付けられたブーツ。白木の樹皮を巻いた長弓を背負い、防寒着はマダラグマの毛皮。白と灰色の混ざった毛皮が豪雪に同化している。


雪よけのゴーグルを外して周囲を見れば、あたりは360度の白の絶景。時間と空間の概念を喪失しそうになるような単一なる世界。


「どこにいるんだ……アルジア」


方位磁針を見る。この世界に黒いものはこれ一つしかないかと思わせるような、あまりにも細い磁石の針。


72時間の山岳行を終えて、ルダンは下山を選択した。





イールウォーグの村に冬守りは二人いた。猟師のルダンと薬師のアルジア。どちらも10を少し過ぎた頃に冬守りに任じられ、わずかな食料と家だけを残されて村を守ることになった。


「どうってことないさ。イールウォーグは猟師の村だ。食いもんは俺が獲ってくるよ」


ルダンは山に分け入り、あらゆるものを仕留めた。山鳥にウサギ、オオカミにヤマネコ。まだ春の名残が残るころには山菜や川魚も。

その中で最大の戦果はマダラグマである。見上げるほどに大きく、毛皮から爪まで利用できないものはなく、肉はもちろん内臓もすべて食料となる。


村を訪れた越冬官はこう言っていた。


「大いなる冬の時代、マダラグマは冬眠よりもさらに深い眠りにつきます。これを深冬眠しんとうみんと呼ぶ学者もいますが、おおよそ10平方キロあたりに2頭から3頭、このようなクマが眠っていると言われます」


永き冬の時代には生物は活動せず、死んだように眠る。大半の個体はそのまま命を終え、わずかな個体だけが永い冬を生き延びて、百年後の春に姿を現すという。


日々は厳しくも穏やかに過ぎ、冬守りのつとめを始めて10数年。


山で採れる獣はだんだんと姿を消していた。最初にネズミやイタチが見られなくなり、次にシカやイノシシなどの大型の獣が数を減らす。いつかはマダラグマが歩き回る姿も見られなくなるだろう。


鳥はわずかな数が南方から飛来してくる。星の果てまでも渡ると言われるソラアジサシ、矢が届くギリギリの高さを飛ぶコキュウツバメなどを射落とし、冬の貴重な糧とする。


歳月は過ぎる。亀の歩みで。あるいは矢の速さで。


山は、雪以外の景色を見せなくなっていった。


雪は気温が上がる時期になっても溶けることがなく、自重によってゆっくりと斜面を降りていき、村の遥かに下の方では氷河の眺めとなって海に注いでいく。

海が凍りついていたなら、そのまま何百キロも氷の上に広がっていくのだろうか。海を見たことのないルダンには想像の及ばない話だった。


「ルダン、もう狩りに出るのはやめようよ」


アルジアはそう言っていた。


「食べ物ならあるよ。薬もあるし」


薬というのは村に伝わる丸薬である。雪をかきわけて灰色がかった野草を見つけ、薬研やげんですり潰して丸薬にする。この丸薬を食べていなければ、やがて手足がむくんで紫色になり、冬の寒さの中で体が腐っていくと言われていた。


ルダンは弓の弦を張り替えながら言う。


「マダラグマの足跡がめったに見つからなくなった。もうすぐ歩き回る個体がいなくなる。今のうちに貯めとかなきゃ駄目なんだ」


貯蔵庫には10頭ぶんのクマの肉が保存され、他の獣の肉も氷室ひむろに、あるいは塩漬けで保存してある。しかしそれでも十分とは言えない。

越冬官は冬が100年続くと言っていた。獲物が狩れなくなれば、いつ食べ物が尽きるか分からない。


「山菜を食べようよ。雪は陽の光を透かすから、雪の下を丁寧に探せば見つかるよ」

「ほんの少しだろう。雪が分厚くなればそれもそのうち生えなくなる」


このあたりには雪が多すぎると感じる。

あらゆる緑の恵みは白に埋め尽くされ、森すらも雪に埋まりそうになっている。


「この数年かなり雪が多い。山の方は何メートルって高さまで積もってる。黒槍樹ジンガルの樹が完全に埋まったら薪が採れなくなる」

「村の雪かきはできてるよ。村にいれば大丈夫だよ」

「村でずっと過ごすわけにはいかないだろ。森の雪も取り除かないと……」


アルジアの日々の仕事は雪かきだった。

木の車輪がついた荷車に雪を乗せ、村から離れた斜面に捨てに行く。斜面の雪は自重でさらに下に落ちていく。


すべての家には登りやすいように木組みの階段を設置し、アルジアは1日の半分ほどの時間を雪かきに費やした。雪が1週間ほど降り続くときはルダンも手伝ったが、それでもすべての屋根から雪を降ろすのは並大抵ではない。

本当であれば黒槍樹ジンガルを植えた森も雪を除きたいところだったが、なかなか手が回らなかった。


「ねえルダン。子供を作るのはどうかな」


アルジアは年に一度か二度、そのように提案した。子供がいれば雪かきを手伝ってもらえる。村を維持するために人手が必要だと。


ルダンの答えはいつも変わらない。


「とても無理だろ。子供が育つまでアルジアはそれにかかりきりになる。食料だって十分じゃないんだ。食い扶持が増えるのは不安だ」

「でも、冬は百年続くんでしょう? 私たちはいつかは死んじゃうよ」

「どちらかが死んだら村に赤い旗を出すよ。村が人を求めてるって合図旗だ。来るかどうか分からないが、来た人間に村を守ってもらおう」

「ルダンは、それでいいの?」


声に奇妙な響きがあった。

ルダンは顔を上げてアルジアを見る。いつものように薬研で丸薬を作っている女性。もう三十の坂を越えていたが、顔立ちはもっと年老いて見えた。雪の照り返しのため肌は黒く、着ている織物は泥の黒ずみが取れずにいる。


奇妙な感覚だった。いま、自分に話しかけたアルジアの声は少女のように思えた。しかし外観は明確に年を取っている。自分も同じようなものだろう。


年を取るとはどういうことだろう。そんな疑問が浮かぶ。

ルダンは猟師としての技術は持っていたが、村の大人たちの寄り合いに出たことはない。他の村まで獲物を売りに行ったこともないし、ベテランの猟師だけが聞かされるという村長からの口伝。村の成り立ちについての話を聞いたこともない。


大人になるための階段、それを登っていないと感じる。

人間が集団に帰属していくための通過儀礼、社会的経験、それが欠如している感覚。むろん、子供の時分に冬守りとなったルダンにそんな言葉の持ち合わせはない。


「ルダンはそれでいいの?」


アルジアがまた問いかける。ルダンには意味がわからない。


「それでいいって?」

「子供とか欲しくないの?」

「子供……」


その言葉が頭の中で反響している。一般的にはそれを欲しがるものなのだろう。ルダンにもそれは分かる。だが、今はそんな欲求を持っていない。忙しい日々のどこかに置き忘れてしまった。


「何度か試したじゃないか、若い頃に……でもできなかった」

「そうだね。でも、もう一度試してもいいよ」

「もう無理だ。春もなくなって、雪は溶けなくなった。赤ん坊を抱えてる余裕はないんだ」

「そうかな」


アルジアは目を伏せて、また薬研を動かし始める。

白い装束が意識される。マダラグマの毛皮をある種の樹液につけて柔らかくし、カミソリで毛を剃った室内用の上着である。マダラグマは皮までも白いが、使い込むうちにさらに色が抜けて白に近づく。

10年も使えば雪よりなお白く、白磁器のように透明な白い革となる。灰色の毛が部分的に残り、まだらの模様になっている。

それは美しいと感じた。白を美しいと思ったのは、本当に久しぶりのことだった。


そしてさらに数年後。


山からは色が消えていた。


雪は深く、柔らかく、マダラグマの毛皮を貼り付けた大型のかんじきでようやく歩ける。イールウォーグの村を離れればそこは360度の純白。方向感覚を一気に消し飛ばすような絶無の景色。


まだわずかに獲物はいる。豆粒のような足跡を残すユキテン。雪の下を移動するカクレウサギ。そしてマダラグマ。

しかし猟果は目に見えて落ちていた。ルダンはスキーを使って広大な範囲を動き回った。


「トポラゼの村はどこだろう。シナトの村も、コーデルミエの町も……」


ルダンは行ったことのない村ばかりである。冬守りを務めて幾年月、どれほど足を伸ばしても他の村を見つけられなかった。

雪に埋もれてしまったのか。冬守りたちも村を捨てるしかなかったのか。


あるいは、そんな村は最初から無かったのか。


そんな想像をすると恐ろしくなった。ルダンは下山するために方向転換する。


ぎん。


足から、爆発的な痛みが。


「がっ……!?」


トラバサミに足を挟まれた、ということを遅れて認識する。

強烈な痛みに目がかすむ。バネ仕掛けの牙がズボンをやすやすと貫通し、足の肉に食い込んでいる。雪の上に赤い花が散る。


「ぐ、う」


物入れから噛みタバコを取り出して奥歯で噛む。強烈な苦みに意識が浮上してくる。震える手を伸ばし、歯を噛み合わせるためのバネを外す。だが歯は食い込んだまま外れない。ナイフをトラバサミの歯と肉の隙間にねじ込み、無理やりに外す。


「う、お、うう、ぐう」


数十秒か、あるいは数分か、激痛のために身動きが取れない。頭の中で火花が散って、足が異様に熱を持っている。


「ち、ちくしょ……」


がばりと身を起こし、薬入れから軟膏の入ったブリキ缶を出す。アルジアが作っているものだ。中身は半練り状になっており、寒さで固くなっている。


それを指2本でごっそりとすくい出すと、口に突っ込んで無理やり噛み締める。青臭さと奇妙な甘さ。やがて唾液と反応してドロドロに溶けたそれを、ズボンをまくって傷口に塗りたくる。


これほどの大怪我に使ったのは初めてだったが、痛みは多少治まった。だがトラバサミの錆びた歯は骨にまで達していた、歩くのにかなりの激痛が伴う。


「な、なんでこんなとこにトラバサミが……」


何十年も前の古い罠が残っており、それが運悪く起動した。


そんなはずはない・・・・・・・・


その言葉が浮かぶが、それ以上は言語化できない。ルダンはともかく帰ることを考えた。幸運にも村までの道はほぼすべて下りである。緩やかな坂を選んでスキーで帰ることができる。


だがそれでも大変な労力であった。ストックで自重を支えつつ、けして踏ん張ることなくゆっくりと降りていく。

そうして1時間ほどかけてイールウォーグの村へと帰ると、全身が火で焼かれたような高熱を放っていた。


もちろんアルジアは血相を変えた。


「大変……を、……にないと、……でも」


話してる言葉がほとんど聞き取れない。ともかく毛皮を脱がされて布団に入れられる、そこで一気に疲れが押し寄せてきた。


アルジアは桶に湯を張って足をつけてくれた。何かの薬が溶け込んでいるらしく、染みるというより傷が柔らかくほぐされる感覚があった。

そして苦い薬も飲まされる。たっぷりの白湯も。


「傷はまないと思うけど、毒が体に入ってる。ハリカブトの毒だよ。12時間は脈拍が速くなる。処置が速くて良かった」


ハリカブトはクマやオオカミなど大型の獣に使う毒だ。猟師がトラバサミに塗ることがある。しかし罠に塗った毒は一週間もすれば乾いて変質して毒性を失う。


「誰か……他の村のやつだろうな。雪に罠を埋めてたんだ」


どこかに他の冬守りがいたのだろうか。まだ猟を続けているのか。


そんなはずは・・・・・・


いよいよ脈が速くなってくる。喉の奥が煮えたぎるように熱く、眼球が飛び出しそうな感覚。部屋がぐるぐると回転し、タライの中に胃液を大量に吐いた。


「薬草が……黒槍樹ジンガルの若い葉がいるね。解熱薬になるの。取ってくるから待ってて」


アルジアは毛皮をまとい、防寒の布を手足に巻くと、大きめのかんじきを出して靴底の金具を確認する。


「行くな」


それは言語にならなかった。泡がぶくぶくと口の端からこぼれただけだ。


「ルダン、お湯を沸かしてるからたくさん飲んでね。吐くのはつらいと思うけど吐いたほうがいいの。すぐ戻るから」

「だめだ、行くな」


声は言葉にならない。


なぜ行かせたくないのか。どんな危険があるというのか。


具体的なことは何もわからない。思考が高熱に塗りつぶされる。


行かせてはならないという感情だけがある。


手を伸ばす先で、あらゆるものが回転している。己の内臓すらも。


そしてアルジアは雪の中へと出ていき。



それきり、二度と戻ることはなかった。



章タイトルの読みは「まだらのめいきゅう」です

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