第十七話
光が溢れる。
肉と鱗を貫いてほとばしる光。覆いかぶさっていた人魚たちを衝撃とともに吹き飛ばす。
ずるりと、立ち上がる姿は血にまみれている。
赤い鎧をさらに紅く。赤い布飾りをさらに朱く染めて立つのはニール。剣のみが白く輝き、あらゆる穢れと無縁に思える。
「人魚の歌に妬心あり、真珠の眼には羨望の輝き、魔性の美には執着と情念、鱗の輝きに蟠る心あり」
風切りの音。四方八方から飛来する錆びついた銛。
三度の閃光。ニールの周囲にひらめく剣閃。最小限の斬撃で十本以上の銛に干渉。斬りもせず落としもせず、そっと触れるような動きで軌道をそらす。銛はあらぬ方向に飛んでいく。
「剣の輝きより逃れるすべなし」
「う、ぐ」
人間業ではない。
イザンナも、フィーナもそれをはっきりと認識する。
「なめるな!」
高音。空間をかきむしるような不快な音。岩に染み通り人魚を生む。あらゆる場所から生白い影が這い出てくる。
「人魚は無限に生まれる。いつかお前の力も尽きる!」
「無駄です。輝きの剣は斬るべきものに肉薄しつつある。この剣は斬るべきものが明確であれば、それを必ず斬る」
答えの代わりに歌を重ねる。フィーナは飛び上がって後退、段差を降りて逃げんとする。
ニールは押し寄せる人魚を斬る。剣が触れる刹那、人魚たちは風船が割れるように粉砕される。
視界が違和感をとらえる。イザンナが走って遠ざかっている。
「イザンナ、どこへ」
「ここは第三貯蔵庫の近くなの!」
言って、彼女が建物の一つから持ち出すのは小型の樽。樫の木で組まれ、鉄の輪で補強された頑丈なものだ。その天板部分に手布をねじ込む。
「精製した亜麻仁油よ。揮発性が高くて、樹脂で密閉した樽に保管していたの」
ランタンからハンカチに火を移し、そして階段を転がす。
急な階段である。樽は数秒でかなりの勢いとなるが、鉄輪で補強された樽はそれだけでは壊れない。
やがて転がりからバウンドに代わり、樽の弾性を示すように大きく跳ねて、内容物をひび割れた隙間からこぼし、こぼれたものにハンカチの火が引火して、火の塊となって突っ込み。
爆発。
巨大な炎が上がり、村の下方部分を火が包む。フィーナの歌が途絶える。あるいはそれは風のうなりか歌に聞こえただけであり、その風が断ち切られたとも思われた。
ご、と木質を蹴る音。
イザンナがさらに数個の樽を蹴り飛ばす。炭の粉が詰まった樽。油の詰まった樽。火酒の詰まった樽も。イザンナを止めようとする人魚たちにニールが素早く割って入り、さらに数体を斬る。
十あまりの大樽を落とすと息が上がってくる。いくつかは途中で壊れて内容物をぶちまけているが、大半は炎の中に突っ込み、下方でさらなる爆発を起こす。
「イザンナ!」
下方から声がする。火の勢いにかき消されそうな中で、さらに喉を裂くような叫びが。
「無駄なことを! 私は谷間にうなる風の音! 人を惑わす人魚の歌!火で殺すことはできない!」
「フィーナ……」
「私がやりましょう」
さっと、建物の屋根に飛び上がるのはニール。その髪を火の粉の混ざった風が乱している。
「越冬官さま、でもどうやって」
「人魚の正体は、複雑な地形を吹き抜ける風の音です。吹き抜ける風に形はなく、地形のどの部分が原因なのかも分からない。しかし存在は認識できる。人魚の歌と仮の名前で呼ぶこともできる」
「ど、どういう……」
「この村を斬ります」
「な……」
剣を抜く。
その刀身は白銀の輝き。
濡れるような流れるような光、表面が揺れ動いて見える。光や煙を剣の形にしたような、個体とも液体とも、気体ともつかない輝きが。
「待ちなさいニール。村を切ってしまったら冬守りは生きていけるの? 魚や鳥の恵みは得られるの?」
「いいえ、やってください」
イザンナが言い、唇をきゅっと結ぶ。
ギンワタネコは高いところに飛び移り、炎の規模を眺める。
「いいのイザンナ? 村がどうなるか分からないのよ。もう村に住めなくなるかも」
イザンナは大きく息を吸って、次々と誘爆する炎を見つめる。
「村は捨てます。魔法の本を持って、森へ移り住みます」
「良い覚悟です、イザンナ」
ニールが剣を振り上げる。
何かを探るように切っ先が動く。ニールの目は焦点を失い、忘我の境地にいるかに思える。
ある一瞬、全身の力が抜ける。
手も足も骨を失い、一秒後には液体のように流れ落ちてしまうと思えるほどの脱力。
ゆらりと、剣が振られる。
振り上げた剣が右へ傾き、そして斜め下へと振り抜かれる。ニールが倒れる寸前で踏みとどまる。
音が止まる。
それは極小の時間。しかしイザンナにもはっきりと知覚できた。とてつもなく大きな何かを斬ったという感覚。
変化は左右で起きた。村の両側にそびえる断崖に斜めの亀裂が走り、それが一気に壁面全体に広がる。
破壊が崩壊へ、崩壊が崩落へと瞬時に成長。左右で岩が雪崩となって降り注ぎ、下方へと殺到していく。
一瞬だけ、人魚の姿が。
ありえざることに瞠目する姿が見えて。
そして、巨大な質量と巻き上がる砂塵の中に消えていった。
「輝きの剣は斬るべきものをけして逃しません。それが地形であろうと、風の流れであろうと、歌であろうと……」
ニールは剣を収める。不思議なことにその顔には血の跡が無かった。人魚の死体も消えている。
しかし鎧と、鎧を飾る布飾りだけは赤みを増したように見えた。炎はまだ上がっており、その炎が照らすからだろうか。
「イザンナ。村の半分が埋まってしまいましたが……」
「構いません。さっき言った通りです。前々から考えていたことを実行に移すだけです」
「移住ですね」
「はい、あと10年もすれば海が凍りついて魚は捕れなくなる。鳥の巣を捕るのは危険すぎて、医者もいない環境ではやれない。ライラザの村はいつか消える運命だったんです」
まだ細かな落石は続いている。イザンナはふと思い出したように周囲を見る。
「ジオ」
若い漁師は建物にもたれていた。目はうつろで、海風にも反応していない。
「イザンナ、ジオは虚脱状態になっています。こういう場合はまず安静にさせて」
イザンナはニールの呼びかけを無視して駆け寄り。まずその頬に思い切り平手。
「あ」
ニールがあっけに取られる前で三発、四発。そして抱き寄せて唇を重ねる。
情熱的というより何かの捕食行動のような接吻。唇が完全に隠れるほど口腔を重ね合い、やがて苦しくなってきたのか、ジオが手足をばたばたと動かす。
「ぶわっ」
ようやく解放されると、ジオは目を丸くしてあたりを見る。
「う、さ、寒い。何だ、何があったんだ」
「ジオ、夢でも見てたの。仕事さぼって入り江で寝てたからここまで運んだのよ」
「え、夢」
ジオは頭でも痛むのか、こめかみのあたりをがんがんと叩く。
「ええと、あれ、何してたんだっけ。なんか、何日もずっと夢うつつだったような……あれ、というか夜……」
その頭の上。前髪に一枚だけ光る魚の鱗。
ニールの手がさっと動いて、次の瞬間には鱗は真っ二つにされている。ジオの目がだんだんと焦点を取り戻し、イザンナの顔をまじまじと見る。
「……夢の中でフィーナに会ってたよ。どっかの海で人魚に生まれ変わって、群れで楽しくやってるみたいだった」
「ジオ、私もフィーナの夢を見たよ」
「え、イザンナもか?」
「うん、この村に長くはいられない。やがて海が凍ってしまう。凍てつく風が吹き抜けるだけの村になる。だから今のうちに森に新しい村を作りなさいって、そう教えてくれた」
「そう……なのか?」
「そうだよ。そう決めたの。私が決めてもいいんだよ。私がフィーナに負けたと思ってたら、フィーナは私の中で怪物になってしまう。だからフィーナが何を考えてたかは私が決めるの」
「? い、言ってる意味が」
イザンナはジオを思い切り抱きしめる。冷たい石の床でもつれあって、そこに下方からの熱風が吹いている。
「い、イザンナ、どうしたんだよ」
「別に、ただこうしたいだけ。私の好きにさせなさい。もう村には私たちしかいないんだから」
「と、というかなんか崖崩れが起きてねえか? 火の粉も飛んでるし何なんだよ」
「些細なことよ」
「そんなわけない……」
ニールは二人を視界に入れない程度に石段を降り、念のため下方を警戒する。
「どれほど魅力的でも、同情を引いても、死者は生者に勝てない、それがこの世の道理というものね」
ギンワタネコは火が眩しいのか、炎から影になる位置で丸くなっていた。
「生き残りさえすれば勝ちというのも風情のない話ですが」
「そうかしら。人は死の壁というものを軽んじているのよ。死んだ相手と心で繋がる? この世から居なくなっても誰かの心に生き続ける? 美談ではあるけど実はとても恐ろしいことよ。死を尊ぶことは、けして死者に屈しないということよ」
海風が弱まった気がする。爆発と崩落によって、海から吹き付ける風の流れが変わってきたようだ。
「永い冬では、死という理すら絶対ではないけれど」
「……そうですね」
※
翌日、イザンナとジオは朝から荷運びをしていた。
「ぜ、全部運ぶのか?」
「そうよ、第二と第三が埋まっちゃったから、それ以外の貯蔵庫のものを全部ね。村に残ってる家具とかも全部運ぶから」
二人は荷車に樽を乗せて運ぶ。移住先は数キロ先の森の中。水場は近いが、まだ家の一軒すら建っていない。
「猟師が使ってた小屋があるから、まず最低限だけ運び込むわ。その後は村から物資を運びつつ、家を作っていかないとね」
「家を作るって、一からか」
「そうよ。私たちの家も必要だし、鶏を飼ったり炭を焼いたりする場所。それに冬が終わったあとに村のみんなが住む家も必要。50棟ぐらいは建てないとね」
「ひええ……」
「ちゃんとやっていけるかしら」
ギンワタネコが伸びをして、ニールはイザンナたちを遠くから眺める。
「なんとかするでしょう。イザンナもジオも優れた人物です」
「あの子たち木で家を作った経験ないのよ。村にいくらか本があった程度だし、道具も限られてるのに」
「時間はかかるでしょうが、きっと何とかしますよ」
「だといいけど」
ギンワタネコは普段と何も変わらない。猫らしく道端にうずくまり、猫らしく耳を寝かせて眠っている。
「それにしても今回は無茶しすぎ、敵にやられたフリをして話を引き出すなんて」
「そうしなければ人魚の実体に迫れませんでした」
「迫る必要ある? ニールなら根こそぎ斬り捨てて本体を叩けたでしょう」
「それでは真の解決にはなりません」
「命がいくつあっても足りないわよ」
ニールはまた巨大な背嚢を背負っていた。重そうな様子も見せず、崖に沿って歩き出す。
眼下には波の打ち寄せる岩場が見えた。切り立った断崖絶壁の地形がしばらく続くようだ。
ぱしゃ、と水音がする。
下方を見れば魚の尾ひれが見えた。距離感が分かりにくいが、かなり大きく思える。
「……永き冬の時代。夢と現実の入り混じり、生と死の垣根が曖昧になり、伝説にのみ名を残す者たちが這い寄る時代」
もうギンワタネコの相槌も聞こえない。ニールはただ一人歩く。
「……ですが、彼らはずっといたのかもしれません。伝説であり夢である生き物。人々が気づかなかっただけで、それはずっと、我々のそばに」
旅は続く。
冬を旅立ちて、また次の冬へとーー。




