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次の冬ごもりは百年  作者: MUMU
第三章 歌満つる谷
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第十六話


風が強くなっている。暗闇の中ではそれを音だけで知る。

雪まじりの風が村の中央を駆け上がり、塩の粒が岩に衝突しているように思える。


「この地形の存在はだいぶ前から知られてたみたい」


資料にあたり始めて数時間。調べる価値のありそうな本はさほど多くなかった。フィーナの父親の書き付けも思っていたほどの量ではない。ライラザの村についての調査は早々にやめてしまったらしい。


「人間が住み着き始めたのは200年ほど前から……急に大勢が住み着いて、人口は150から200ぐらいの範囲で現在までずっと続いてる……でもこれ」


イザンナは主に村の古い記録を追っていたが、気になる記述がいくつか見つかる。


「人魚の入り江に魅せられたって記録が何度か出てくる……人魚の入り江ってさっきの場所のことかな。確かに綺麗な入り江だったけど、海が岩の壁で見えなくなってて、必ずしも眺めがいいって感じじゃなかったけど……」

「こちらにもあります」


ニールはフィーナの父親の書き付けを調べていた。その箇所に指を這わせる。


「私もまた人魚の入り江に魅せられた。この村でずっと暮らしていく覚悟ができた。そのような記述が一行だけ」

「何なのかしら。洞窟状の入り江がそんなに珍しいの? それとも砂になったサンゴとかも落ちてたし、昔は宝石サンゴでも採れたのかな」

「いえ、このあたりの記述……」


フィーナの父親は入り江の形状を克明に記録している。大まかな地形、干潮時と満潮時の水位、砂と岩について、風の強さについて。

そのような詳細な記録は、人魚の入り江に魅せられたという一文の後には見られなくなる。村人と交わした雑談のことや、食べたものなど、日記のような記述が多くなる。


「激しく海風の吹きつける夜、村の老人が入り江に誘ってくれた。そして私は人魚の入り江に魅せられた。具体的に何が起きたか記録していません。不自然です」 

「どういうことかな……」

「音、ではないでしょうか」


音? とイザンナが聞き返す。


「私があの人魚を見たとき、視界が歪むような感覚がありました。そしてふと気づくと人魚が現れていた」

「? 現れたって、いきなり?」

「あの場所では夢とうつつの境界が曖昧になるのです。おそらく洞窟事態に原因がある。あの入り江の洞窟では、狭い隙間を通り抜ける風が複雑な音を鳴らしている。それに幻覚を見せる作用があるとしたら」

「……!」


まさか、という表情を見せるイザンナだが、しかし奇妙な符合を感じる。


この村になぜ人間が住みついたのか。あの入り江の洞窟を村人が大切にしているのはなぜか。魚が拾えるという以外に理由があるとしたら、それは何か。


「こういう話があります。ある谷では常に火山性のガスが噴き出し、軽石のように穴の開いた岩から噴き出している。その時に笛の原理で音が鳴るのですが、この音は人間に聞こえるよりも遥かに高い音であり、この谷に降りた人間は平衡感覚を破壊されて立てなくなったり、幻覚を見ることもあるとか」

「天然の幻覚装置……まさか、そんな」

「明確に幻覚を見せなくても良いのです。多少の酒精や薬物、あるいは火を見つめることや、音楽と舞踏、そんなものでも人間の精神は不安定になり、幻覚を生じます。それは」


それは、この永い冬のように。


吹雪と寒気、日々の不安、いつ終わるともしれない永い冬。それが夢と現実の垣根を破壊する。ニールはそのような話をする。


「村の方々は、風の強い日に入り江の洞窟に行き、不安定になる神経を、幻覚そのものをたのしんでいた。それがライラザの村なのです」

「じゃあ、ジオも」


ぴく、とイザンナが動きを止める。

首を巡らせて入り口のほうを見る。すでに日は落ち、照明のない村には暗黒が降りている。


「いま、女の子の声が……」

「私も聞こえました。イザンナ、明かりを持って」


村にはいくつかの明かりがある。網元の家を中心として四カ所に置かれた大きめのカンテラ。鳥の脂を使っており、ガラス容器の中で炎が揺れる。


この時代、闇夜に慣れた人間が最低限歩き回れる程度の明かり。砂漠に落とされた一粒の真珠ほどの光。


「イザンナ」


今度は明確に聞こえた。ニールは警戒を示すように片手を顔の前に持ち上げ、闇に目を凝らす。


「越冬官さま、誰かが」


姿が見える。


石段のはるか下。左右にうねり、角度も変化する階段にわずかに見える黒い影。


「イザンナ、ジオは私の腕の中にいる」


声が真横から届くような気がする。両側の岩壁に声が反響する。この風のうなりの中でさえ、確固たる輪郭を持って。

緊張感が急速に高まる。イザンナは人影の不気味さに耐えかねるように声を飛ばす。


「フィーナ! あなたなの!」

「ジオは私のもの。あなたには渡さない」

「ふ……ふざけないで! あなたは死んだはず! 人魚に生まれ変わったとでも言うの!」


だんだんと、その姿が見えてくる。やはり女性、豊かな髪を垂らした人影。そしてジオを抱えている。

愛おしそうにジオの頭を撫でている。ニールが手近にあった篝火台に火をともす。傘のような覆いをつけた篝火台は横風にも強く、ニールたちの影が一気に伸び上がる。


「そうよ、私は人魚になった。ジオもやがてそうなる。ジオは水の底に連れて行く。二度と帰りはしない」


だん、と火かき棒を握りしめたイザンナが石段を降りんとする。ニールがその肩を捕まえる。


「危険です、下は人魚の巣です」

「越冬官さま、でもこのままじゃジオが!」

「……」


「ねえ、おかしくない」


背後にいたギンワタネコが言う。


「ジオを求めるならそのまま海の底へ連れていけばいい。なぜ姿を現したの。何が狙いなの」

「分かりません。彼女はなぜか、イザンナと話をしたがってるように見えます」


イザンナはニールのそのような声色はもはや気にしなくなっていたが、それゆえに、ドナと名乗っていた女性の声が、確かにギンワタネコから聞こえていたことに気づかなかった。


「イザンナ、よく見ていて」


フィーナと呼ばれた影が言う。


「あなたがどう思おうと、もうジオは私のもの。ほら、このとおり」


フィーナはジオに覆いかぶさり、唇を重ねる。ジオは半眼で朦朧としており、人魚が己の口をこじ開け、異物を流し込むのをされるがままになっている。


「こ、この……!」


降りていかんとするイザンナを抑える。彼女の肩は怒りで熱を持っている。火かき棒を握る手が注力にわななく。


「人魚よ。挑発は無駄です。分かっています。あなたは入り江から遠くへは行けない。ライラザの村の幻想は入り江に吹く風の音から生まれている」

「そうかもね」


フィーナの声には距離感というものがない。山の向こうから届くようにも、耳元で囁くかのようにも聞こえる。フィーナは顔を上げ、あごをつんと反らして笑う。


「でも、今宵はそうとは限らない。海風が吹き荒れ、凍える寒さが降りる、こんな素晴らしい夜には」


歌が。


それは直感的に歌と分かるが、人間の歌うそれとはかけ離れていた。鋭い高音にさらに高い音が被さるような連続的な発声。耳の奥を突き刺すような音色。道端の石ころがカタカタと震えだすほどの声量。


「!」


ニールがそれに反応する。剣の柄を振り上げ、上から・・・飛来した三叉の銛を弾き飛ばす。


「何……!」


見上げる。崖に張り付くような石造りの家。その上に人魚がいる。魚の尾を振り、錆びついた鉄の銛を構えて。


「イザンナ、伏せなさい!」


真上から二体の人魚。銛を真下に突き出して一撃必殺の刺突。身をかわす直後に石段の一つが砕ける。


視界の端に次々と人魚が生まれる。

石壁からぬるりと生まれ出る。建物の隙間から這い出てくる。屋根の上には数体、階段の下からも押し寄せてくる。村のすべてが水面に変わったような眺め。


つるぎよ!」


瞬時に現れる白刃。迫りくる一体を斬る。

その姿は煙にならない。鮮血と臓物をばらまいて強烈な血の匂いを放つ。


「ひ……!」

「イザンナ! そこの路地に!」


飛来する銛。闇から来るそれは視認できない。があんと石壁にぶち当たる音が鼓膜を押す。


(実体を得ている。夢とうつつの天秤が傾いている)


走るイザンナの前に影。ニールが素早く反応し、瞬間的に膝をかがめ、力を一瞬で溜めて跳躍。イザンナの頭より高く飛び、路地の壁を蹴って三角形の軌道で前に出る。そして降りてくる勢いのまま人魚を斬り飛ばす。


「す、すご……」

「イザンナ、頭を低くして、この闇では銛を防ぐ手段がありません」


風切りの音。ニールは霊感じみた反応でかわす。頭のそばを通過する銛が建物の壁に突き刺さる。


「逃げても無駄よ。歌の響くところに人魚の姿がある。私の歌はこの村のすべてに響く」


ギンワタネコは走ってついてきている。ニールの足元で叫ぶ。


「ニール! どこか狭いところに逃げ込まないと!」

「いいえ、それでは持久戦に持ち込まれる。歌の続く限り人魚が現れるのでは勝ち目がない」


雷速の剣。初速から目視できぬ速度の剣がひらめく。光の線が人魚を数体まとめて斬る。

その剣は速度と重さを併せ持っていた。人魚が繰り出す銛に食い込み、銛を弾き飛ばすのと胴体の切断を同時に成す。


風とも金属のふるえともつかない歌。岩に染み渡り人魚を生む。ニールが駆けながらそれを両断していく。


「……どうすれば」

「越冬官さま! 右から!」


はっと体を向ける先から人魚の銛。突き出されるそれとニールの体が交錯。


ぎいん、と音がしてニールの手からものが飛ぶ。それはがらんがらんと鳴りながら下方へと落ちていく。


「う……剣が」

しかかれ!」


フィーナの声。瞬時に殺到する人魚たち。人間の肌と魚の腹の中間のような生白い体でニールに覆いかぶさる。


「越冬官さま!」


がん、と複数本の銛が突き立つ。イザンナとニールを分断する。


「う……」

「ああ、イザンナ。これで邪魔者はいない」


歩み出る。鱗のある半身をずるりと動かし、上がってくるのはフィーナ。絶世のとも言える美しさは生来のものか、それとも異形の持つ凄みのゆえか。


「イザンナ。今宵はいい夜。風はてつき岩肌は氷のよう。死に絶えるような夜にようやく私は満たされる」

「フィーナ……何を、何を言っているの」

「私は気づいたの。長い冬とは長い眠り。肉体が滅び精神が支配する時代。私は体が弱かったけれど、この時代なら強い力を持てる。あなたにだって勝てる」

「フィーナ……目を覚まして。ジオが悲しむよ、こんな、強引に」

「イザンナ、あなたは一つ誤解している」


ジオは背後にいた。数体の人魚が前後から挟み付けるように抱きしめている。どの人魚も妖艶な笑みを浮かべているが、人間味の薄い笑い方である。


「誤解……」

「私が本当に憧れてたのはジオじゃない」


にまりと、柔らかい面を引き伸ばすような笑い。人間らしい慎ましさなどすべて捨ててしまったような笑い。


「あなたよ、イザンナ」

「……!」

「私はあなたにずっと憧れてた。あなたは強くて、知的で、誰からも好かれていた。この村ですべてを手に入れていた」

「そんな……! 私なんかより、フィーナの方がずっと」

「傲慢なイザンナ、何もかも持っているイザンナ、だから目が見えていない。憐れみと親しみが同じようなものだと思っている。あなたの方がずっとたくさんのものを見てるのに、本しか知らない私を賢いだなんて褒めたてる」

「フィーナ……」

「ジオもそうだった。ジオは誰にでも優しくて、あなたもジオも私の病気をよく知っていた。いずれ死ぬと分かっていたから優しかったの。ジオは最初からずっと、あなたと結ばれると決まっていたのよ。ジオ自身も、村の大人たちも、あなた自身だってそう思っていた」

「ち、違う、そんなこと……」

違わないの・・・・・。いいことイザンナ。どっち・・・が真実なのかは私が決めるの。それがあなたに勝つということよ。さあ、あなたの血を村に捧げて。人魚の歌で腐りきっていたこの村を、あなたの血で清めて」


じり、と人魚たちが迫る。

錆びついた三叉の銛。イザンナの心臓を貫くであろう切っ先が、暗闇の中で見えた気がした。



「ようやく、分かりました」



声が上がる。フィーナが見れば、十体からの人魚が山のように積もっている。声はそこから。


「この村には人魚の歌が流れている。人間の感覚を侵し、人魚伝説という共通幻覚を植え付ける歌。風の強い日は村にまで届く」

「越冬官。無駄口を叩くな。あなたもすぐにイザンナの後を追わせる」

「強い口をきくものではありませんよ。あなたの動機は嫉妬に過ぎない。イザンナは強い人です。強い人間は嫉妬の視線など跳ね返してしまう。私も、少女のささやかな嫉妬の火などに負けてはいられない」

「何を言うの、怪しげな剣はもうない、そんな状態で……」

「剣を失った、そう思わせたから、あなたから話を引き出せた」


はっと、フィーナが闇を見る。

先刻、金属音が鳴ったあたり。建物の隙間に転がったもの。異形であれば夜目も効くのか、神経を研ぎ澄ませ、落ちたものを見んとする。


そこには、切断された銛の先端が。



「まさか」

つるぎよ!」


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