第十四話
夜が明ける頃。数人しかいないライラザの村がゆるゆると活動を始める。
ライラザの村にはまともな水場がない。川は2キロほど離れており、そこまで行って水を汲んでくるのは日々の日課であった。
ジオはどこか上の空の様子ながらも、朝一番で天秤棒に大きめの桶を担いで村を出ていき、1時間もしないうちに戻ってくる。口には野草をくわえており、細かく口を動かして繊維を噛み切っていた。
イザンナとの共用の水桶に水を移し、自分の家まで降りてくると陰干しにしてあった魚を手に取って、骨ごと噛み砕いて食べる。豪快というよりは、骨について考えることも面倒くさい、という様子だ。
それを離れた場所から眺める二人。
「あんな感じなんです……言ってくれればジオのぶんのご飯も用意できるのに……」
「いつも干潮の時刻に入り江に降りるのでしたね」
「はい、今日の潮だとあと1時間ぐらいで干潮になります」
「下の方で待ち構えましょう。イザンナ、あなたは村で待っていてください」
ニールは階段を降りる。降りるほどに左右の崖が高さを増していく感覚があり、濃い陰の中に入っていく。谷の幅はもっとも広い地点で30メートルほどだろうか。
海風は強くなるが、海との距離はあまり縮まってる印象がない。
それは階段の角度のためだ。幅が広かった階段が少しずつ急になり、斜面が急角度になって、海までの距離が長くなるような錯覚が働いている。
四角四面の石造りの家は少なくなり、岩を掘って造られた洞窟住居となる。その推移は村の歴史を思わせた。この谷に最初に住み着いた人々は洞窟に住んだのだろうか。
そして道は突然に枝分かれしている。荒削りに掘られた石段がいくつかの方向に伸びており、岩の隙間へと吸い込まれていく。その奥はさらに枝分かれしているようだ。
「下の方はほんとに迷路ね」
ギンワタネコが一匹、乾いた魚をかじっていた。どこかで魚を拾ってきたものか。
「風のうなりもやたらにうるさい。上の方は気持ちいい一本の風だったのに、下は複雑に吹いてる。それにしても不便な立地ね。水場は遠いし、岩ばかりで村の中じゃ畑も作れない。しかもあの海の荒れよう。船で漁ができるのはジオだけって言ってたかしら。なんでこんなところに住んでるのかしら」
「イザンナから聞きましたが、干潮時に入り江で魚が拾えるそうです。それと、断崖に巣を作る鳥からの恵みがあるとか」
「ある種のツバメの巣は珍味として取り引きされるけど、さほど高価ってわけでもないのよ」
ギンワタネコは複数匹いる。この村では魚にだけは困らないようだ。
「海沿いに石造りの建築物を建てて、中でツバメに営巣してもらうっていう養殖法があるの。もっと南の方だと海岸沿いにずらっとサイコロが並んでるわよ」
「この村の方々はつつましく生きていたのでしょうか。鳥の恵みと入り江の恵み、それだけで十分であると」
「そうかしら。干潮時に魚を拾うだけ? どれほど拾えるか知らないけど、浜辺で網でも引いたほうがマシな気がするけど」
ニールは階段の上を見る。吹き抜ける風の音の中に、わずかな足音を聞いた。洞窟の一つに身をひそめる。
たん、たんと跳ねるように降りてくる人物。ジオが裸足のままで階段を下ってくる。勾配は急角度であり、次の石段を目視しないままに飛んでいる。
ニールは飛び出してあとを追う。鉄の脚甲と岩が触れ合うものの、ニールの歩き方のためか音は減じられている。
だがジオは周囲の音など気にしていないようだ。階段を転がるように駆け降りて、右へ左へと進む。
追いかけるやがて洞窟になる。そしていよいよ空間の複雑さが分かる。樹木が枝を伸ばすように放射状に伸びる洞窟。ジオは狭い隙間を猫のようにすり抜け、岩の割れ目をかるがると飛び越えて走る。
海面が見えてくる。洞窟の中だが足元は砂州になっている。このあたりは満潮時は海に沈むのだろう。あたりには小魚がぴちぴちと跳ねている。ジオはさらに奥へ。
「この場所……まるで海綿のようですね。人間が入れる空間だけでも大小何十個もありそうな」
ジオの姿は見えなくなる。砂地を走る足音も聞こえない。海風が吹き荒れる中にかき消えてしまうのだ。
砂州の洞窟はまだまだ続いている。村の範囲よりもはるかに広大なようだ。海から見たならば、崖の下に大小無数の入り江が見えるのだろうか。
「……」
ニールは砂を見ている。水の流れがあるために足跡は残りにくい。しかし皆無ではない。ミリ単位の窪みを見いだして追跡する。
「……いましたね」
岩陰に身をひそめる。
その先にジオがいる。生気が衰えているとは聞いたが、たくましい背筋が小麦色に輝いている。
直径にして10メートルほど、ほぼ円形の入り江である。
入り江の右側に水面があり、岩の下から波が押し寄せている。その岩壁にはいくつか穴が空いており、円形の採光窓のような光源になっている。崖の中に生まれた泡のような空間である。
その入り江のみ砂の色が違う。雪よりも白く、きらきらと光る砂である。何らかの珊瑚が砕けたもののようだ。周囲には白化した珊瑚が樹木のように伸びて装飾となっている。まるで貴人の寝所のようである。
「ああ、ジオ、来てくれたのね」
ジオは砂州の中央に座り、ぶつぶつと独り言を言っている。
「嬉しいわ、あなたと会える時間が何よりも幸せなの。また来るって言っただろ、信じてなかったのか。ううん、そんなことはない。一度も疑ったことはない。だってジオだもの」
ぶつぶつと、口の中だけでつぶやかれる言葉。
その首に、誰かが。
「……?」
ニールの視界が歪む。ジオの周辺だけが蜃気楼のようにかすんで、誰かの影が見える。
首に抱きつくのは、しなやかな腕。
黄金を溶かしたような金色の髪、潮風を含んで豊かに波打つ。
花が咲くような柔らかな笑み。淡い色の唇。穏やかに細められた目には無限の愛情が潜んでいる。
ジオはその人物を抱き返す。互いに液体となって混ざり合うような濃密な抱擁。その相手は豊かな胸をジオに押し付け、尾ひれで砂を叩く。
裸の上半身に、魚の尾。
人魚。としか言いようのない存在。
その美しさは絶世のものだった。完璧という言葉しか浮かばぬ目鼻立ちと、生命力の塊のような豊かな体。あらゆる部分が魅力に溢れている。魚の尾という特異さすらも神秘的なものに思える。
「ジオ……!」
はっと、ニールが振り向く。
人魚に気を取られていた己を猛省する。彼女がここまで来ていたことに気づかなかった。ジオのわずかな足跡は追えなくても、鉄の脚甲でつけたニールの足跡なら追える。
「イザンナ、待ってください、いまジオを刺激しては」
「ジオ! やっぱり人魚と会っていたのね!」
ジオはぎょっとしたように振り向く。
その傍らに人魚はいない。右側の波の中に飛び込んだのだろうか。ニールがその痕跡を探す前にイザンナが声を張る。
「しかもフィーナと! やっぱりあの子は!」
「だめだイザンナ! 逃げろ!」
ジオが叫ぶ。ニールが柄だけの剣を抜き、飛来するそれを打ち落とす。
びいん、と音をさせて突き刺さるのは鉄の銛。錆びついているが、岩にすら突き立つほど鋭利な銛。
「えっ……」
「イザンナ! 逃げなさい! 村に戻って!」
ニールが叫ぶ、波打ち際からいくつもの影が飛び出す。
それは人魚。
豊かな髪と女性らしい体を持ちつつも、その目は赤い殺気にみなぎり、手にした銛がぎしぎしときしむほどに力を込めている。
「早く!」
「う、うん」
イザンナは振り返って駆けていく。その背に銛が飛ぶ。
「剣よ!」
ニールが叫ぶ。柄だけの剣に刀身が生まれている。銀色に輝く刃が銛を弾き飛ばす。
「人間」
「覗き見た」
「フィーナの邪魔をした」
「許さない」
端的な言葉にも怒気がみなぎっている。
次々と現れる人魚。すべて錆びついた銛を持っている。跳ねるような這うような動きで迫る。
「ーー密かなる海辺に聖域あり、隠された逢い引きに守護者あり、体は女体にして足は海なるもの。剣の輝きより逃れるすべなし」
1体がニールに踊りかかる。目を血の色に輝かせ、一息に銛を突き立てんとする一瞬。ニールの剣がその胴を両断する。
鉄の銛が上下に分かたれて砂に転がる。
人魚の姿は斬った瞬間にかき消える。砂地の上にわずかな泡だけ残して。
(実体ではない。やはり夢現の者)
銀の閃光。
ニールの剣がひらめく。人魚が次々と両断されてかき消える。さらに後方から押し寄せる数体。ニールは砂地の上を後退し、迫らんとした1体を斬る。
奥からの投擲。極限の集中の中で銛が止まって見える。ニールの剣が先端をとらえ、その又に刀身をねじ込んで、手首の返しによって弾き飛ばす。
更に二体。左右から繰り出される銛。ニールが体をひねって銛の隙間に体をねじ込み、一本の銛を掴んで人魚の脇に腕を入れるまで一瞬。体を回転させ強引に投げる。
その背中に銛が襲いくる瞬間。雷速で反転。銛の先端をはじき、返す一撃で斬る。
「突け」
「心臓を突け」
「肉を突け」
連続的な刺突。一撃で2本以上の銛をさばかねば追いつかない。ニールが砂を踏みしめる。砂が固まって一瞬の重心を得る。人魚たちの動作の起こりから、自分が振るうべき太刀筋を見出す。
しかしそれでも後退せざるを得ない。人魚たちはどんどん数を増している。銛に込められた力も強くなっていくかに思える。
「ジオ!」
ニールは叫ぶ。人魚の柔肌が洞窟を埋めている。その奥にいるはずの人物が見えない。
「ジオ! 人魚を拒みなさい! これは現実と夢の境目の存在! あなたの想念が生み出そうとしているもの!」
「ジオは渡さない」
「愛している」
「フィーナが愛している」
「二度と離さない」
人魚がさらに密度を増そうとして。
それらが、ふいに動きをにぶらせる。
ここはまだ無数にある入り江の一部。村の階段までは百歩ほどの距離がある。ニールから距離を置き、踏み込んではこない。
(追うことを躊躇している。なぜ。海から離れることを嫌うのか。それともジオから離れられないのか)
「夢の彼方へ去れ!」
剣を大きく振る。
瞬間、洞窟全体がわずかにずれたように見える。
そして人魚たちの姿が消える。あとにはただ、波と風の音のみ。
「……夢と現実の境界を斬るしかなかった。だがこれではジオを見失うことに……。いえ、今はイザンナを」
ジオを探すべきか、イザンナを追うべきかで迷うが、イザンナを選択する。彼女のもとに人魚が来る可能性があった。
いくつもの入り江と砂州を渡り、村の中央を通る階段に至って、そして先を行くイザンナの背を見つけて、ニールはひとまず安堵した。
※
「駄目ですね、見つかりません」
ニールはそれから日暮れまで村を探した。洞窟にはすでに人魚はおらず、歩ける範囲はすべて回ったと思われるが、ニールの痕跡すらない。
錆びついた鉄の銛はいくらか落ちていたが、それは人魚が投げたものか、それとも村の漁師が放置したものか判別できなかった。
「おそらく夢と現実の境目に連れ去られたのです。見つけ出すのは簡単ではありません」
網元の家にて、イザンナと火を囲んで話す。
彼女は沈痛な様子で膝を抱えている。彼女にはけして入り江に降りるなと指示していたが、できれば自分で探しに行きたいという感情が伝わってくる。
「越冬官さま……ジオは戻って来ないんですか? まさか人魚に連れ去られて、海の底へ……」
「ジオを連れ戻すためには、人魚について知らなければなりません」
イザンナの目を見て言う。彼女の表情には悲壮と戸惑いと、そして秘密の露呈を恐れるような、わずかな怯えが見えた。
「イザンナ、あなたは言っていましたね。フィーナと」
「……はい」
「フィーナとは誰なのですか、いえ……」
ニールは問い詰めるような空気を避けた。あえて肩から力を抜く。
座ったままで腰を深くし、イザンナと視線の高さを合わせ、それが必要なことであると理解を求めるように言う。
「話してください。あなたが知っていることを。人魚とは物語の存在。それに立ち向かうためには、物語のすべてを知らねばならないのです」
「……フィーナは」
火はちろちろと揺れ、イザンナはゆるゆると話し出す。
火を囲んだ世界は物語の領域。膝を突き合わせる二人の間に、物語という幻想の時間が流れ始める。
「フィーナは、冬守りになるはずの子でした。本当なら、フィーナとジオの二人だけが……」




