第十二話
冬に歌はあるのでしょうか
きっと 冬には歌がありません
大地を彩る花が 胸を焦がすような香ばしい風が
きっと冬にはないのです
だから私は 冬に歌います
この身にたくわえた春の息吹を
見てきた美しい花を 耳にした優しい鳥の声を
歌へと変えて放つのです
息が尽きるまで歌うのです
※
ライラザの村は海に面しており、かつては切り立った断崖絶壁だったという。
それに何万回も、何億回も波が打ち寄せ、バターケーキをフォークで突き崩すように断崖に切れ目を入れる。その切れ目の一つ一つはとても大きく、幅広く、その中に村を作れるほど広かった。
海へと至る絶景の谷。それがライラザの村。
谷底にはフジツボがはりつくように民家がある。漁師の家が多く、農家はほんの僅かだ。
断崖に営巣する鳥などを捕る家もあり、そういう家は少し高い位置にある。断崖に打たれた鉄釘は崖を登るためのもの、かつては何人もの男が1日に何度も崖を登り、鳥や、その卵、ある種の鳥の巣などを採取していた。
海は豊かであり、満潮の時にはたくさんの入り江が海水で満たされる。そして干潮時には逃げ遅れた魚が残され、村の女たちが手づかみで捕まえていた。村では必要以上に魚を捕らず、必要以上に住居を増やさなかった。それが村の在り方だった。
村の入り江は、永い冬には凍りついた。
漁はできなくなり、村はひっそりと息を潜めるしかない。近隣の村では寒冷に強い作物を育てていたと聞くが、岩場が多く、潮風の強いライラザの村では育てることができなかった。
しかし、この村はずっとここにあった。長い年月、何度かの永い冬を乗り越え、魚と鳥を頼りに暮らしてきたという。
その、崖下にへばりつくような家の一つ。
村で一番大きな屋敷に、少女がひとり。
年の頃は10代の半ば。肌は潮風で荒れているが、色は雪のように白い。日照時間のやや短いこの村に特有の肌である。目元は切れ長だが険しい表情を見せ、砂をまぶしたように荒れた唇をきつく噛みしめる。
彼女は槍を作っていた。
材料は屋敷に飾ってあった海獣の角。ねじれて鋭く、先端を研げばサメの背中にすら突き刺さる角。
それに硬い樹で柄の部分を作り、ヤシから採られる繊維で手首に結びつける。短めの投げ槍であり、手首にロープで連結できるようだ。
他にもさまざまなものを作る。貝や甲殻類を加工したナイフ。海藻のぬめりを織り込んだズボンは水中で動きやすく、岩に体をこすっても傷つきにくい。
少女が何かを呟いている。それは誰にも聞かれることはなく、口の中だけで生まれて消える言葉。あえて言語化するならば。
殺さなければ。
そう呟いている。何度も何度も、感情を乗せずに淡々と呟く。
殺さなければ。
人魚を、殺さなければ。
※
「ライラザの村は公的な記録だと人口196人、本当なら四人の冬守りを置く村だけど、あまり期待はできないでしょうね」
道の脇にギンワタネコがいる。足元には魚のくずが散らばっていた。自分で捕ったのか、あるいは誰かに与えられたのか。
「百人までは二人、百人を超える村の場合は百人ごとに二人ずつ追加だっけ。ま、小さな村はたいてい二人よ」
「先日の村では六人いましたよ」
「そのうちの四人は他の村から流れてきた子でしょ。村が雪崩で埋まったとか、ヒグマに襲われたとかで村を捨てる冬守りもいるから」
すりきれた赤い鎧には、長旅の汚れで黒ずんだ布飾り、越冬官のニールは村を見る。
視界の先には海が開けている。巨大な断崖絶壁があり、崖には縦方向に割れ目があった。下り階段がその割れ目の一つへと降りていく、そんな眺めだ。ギンワタネコは昼寝に入りたいのか、体を丸めてぐるぐると低い音を放つ。
「海に依存する村は永い冬を越えるのは難しい。冬守りたちはそこを考えてくれてるかしら」
「賢明な方たちだと良いのですが」
ニールは階段を下る。海がすぐ近くに見えていたがそれは錯覚であり、階段を降りて断崖の割れ目の中に入ると実際が分かる。海は百メートルあまりも下方にあるのだ。
歳月を経た崖は非常に硬い岩盤でできており、しっとりとした質感は崖崩れや落盤という言葉が遠く思える。そこを下っていく。
「どなたか、いませんか」
音が驚くほど反響する。声が谷の間をジグザクに反射していくのが分かる。
そして海風が返る。遥か眼下に見える海面から伸び上がってくるような風。ニールの体を通り過ぎ、目にわずかな塩気を覚える。
「風が強いですね」
階段を降りるほどに風は乱れていた。海を渡ってきた風がこの谷間に殺到し、狭い隙間を無理やりにくぐり抜け、伸びあがり、遥かな地上を目指して駆けていく風。
足音が、背後から聞こえる。
振り向くと男がいた。小脇に野草を抱えており、なだらかな階段を小走りで降りてくる。
痩身だが全身に筋肉のついた美青年。黒髪は塩気で乱れて野性味を放ち、角質化した足にはサンダルなど履いておらず、裸足で歩いている。永い冬に入って何年も経つというのに、腰蓑の他には何も身に着けていない。
「ああ、この村の冬守り……」
ニールのそばを駆け抜けていった。目線を投げるどころか、ニールがかわさなければまともにぶつかっていただろう。
「私を無視した……?」
永い冬に入って以降。冬守り以外に会うことはほとんど無いはずだ。なぜあの青年は無視できたのだろう。
「もし、そこのあなた!」
強めに声を出す。するとようやく止まった。上半身だけで振り向く。
「……」
目はこちらを見ているが、焦点がぶれているのか、眼球がゆらゆら動いている。何かを考えている気配がない、ニールが何者なのかすら考えていないように見える。
「私は越冬官のニール。巡回騎士です。あなたはライラザの村の冬守りですか」
「冬守り……ああ、そう、そうだ」
たどたどしく答えると、また振り向いて階段を降りていく。
「……」
ニールは青年のあとを追う。越冬官を無視するのは珍しいが、冬守りの様子がおかしいというのはよくあることだ。この冬はとても厳しく長い旅路。ほんの数年でも人間の精神を蝕んでしまう。
階段は蛇の歩みのように左右にうねっており、一段の幅は50センチ以上、幅がまちまちなので降りにくい。目算で適当に歩いていると足を踏み外しそうになる。
だが青年はどんどんペースを上げる。自分の重量をステップの中に溶かしているかのような小気味よい走り。ほとんど音もさせずに階段を降りていく。
その前に影が躍り出る。
「?」
女性である。ひとつながりのドレスのような服を着ており、表面がぎらぎらと光っている。
鱗があるのだ。ドレスにサメの楯鱗を縫い付けた服。美しい輝きではあるが、ヤスリのように鋭く、包丁を砕くほどのサメの楯鱗である。抱きしめた男は体がズタズタになるだろう。
女性はねじれた白い槍を持っている。そのような角を持つ海生哺乳類がいることは知っている。その角を加工した短い槍だろうか。
女性はニールに気づかず、男の後を追って階段を降りる。
だが男はさらに速度を増し、ほとんど転がる岩のような速度で一気に小さくなると、海に降りる手前でひょいと消えてしまった。ちょうど段差に隠れて、左右どちらに曲がったのかが見えない。
「くそ! また見失った!」
がん、と角の槍で壁を叩く。村の中ほどまで降りると階段の左右は家が並んでいた。石材を積み上げた石の家だ。
「そこの方」
「うひょわっ!?」
飛び上がって驚いて、こちらを振り向くのは若い女性。
潮風で荒れ気味の肌だが色は白い。髪は金色に近く、そばかすが見える。彼女はニールを見て身をすくませる。
「だ、誰! なんで人が」
「私は越冬官のニール。巡回騎士です。このライラザの村の様子を見に来ました」
「越冬官……? ああ、あれホントだったんだ。ホントにいたのかあ」
「お名前をうかがっても良いでしょうか」
「あたしはイザンナ。網元の娘よ」
この海の村で網元といえばかなりの有力者だろう。そんな人物の娘が冬守りを務めるのは珍しい。ニールは視線を彼女の背後に伸ばす。
「先ほど、降りていかれた人物は」
「あっちはジオ。村で一番の漁師だったんだけど……」
と、後方に投げかけた視線を、はっとニールに向ける。
「そうだ! 越冬官さまってこの世のものじゃないものでも斬れるんでしょ! 怪物を退治できるんだよね!」
「そのような、話も伝わってるようですが」
イザンナは大股で階段を上がってくると、はっしとニールの腕を捕まえる。
その腕に、石でも握りつぶせそうな力がこもっていた。
「人魚を殺して! あいつがジオをだめにしてしまう!」




