第十一話
「カッタヒル……」
少年を抱き起こす。彼の体には霜のようなものが張り付いていたが、不思議なことにはだんだんと体温が高くなっていく。心臓も鼓動を速めていく。
「う……あれ、ロジー?」
少年が目を開ける。少しめまいがするのか、ロゼレッタの顔を見る目がぶれて、焦点が定まらないようだ。
「ああ、カッタヒル、ようやく……」
「なんだ、どっかで頭でも打ったのかな。商人が丘に来てた気がしたんだけどな」
カッタヒルはロゼレッタの腕を押しのけ、立ち上がる。不思議そうに周囲を見る。
「あれ? なんか雪がすげえ多いな。それに村の感じもなんか変だし……あんな土壁なかったよな。なあロジー」
ロゼレッタは。
彼女は、どこか茫然とした様子でカッタヒルを見ていた。
不思議なものを見るような。驚くような、理解が及ばないような。ただ目を丸くして、幼なじみの顔を見ている。
口元のわずかな震え。小ぶりな少女の鼻は大気の匂いを嗅ぐかのように震える。
自分がいま、何を考えているのか分からない。そんな顔。
「なあロジー、商人は来たのかな」
「うん……来たよ。たくさんのゴーを与えてくれた」
「そうなのか? だめだ、頭が回らないや。なんか腹も減ってきたよ。なあロジー、何か食べるもんないかな」
「あるよ……一緒に行こう。村にはたくさんのゴーもいるし、食べるものもたくさんあるから」
二人は手をつないで、丘を降りていく。
その間も、ロゼレッタの顔はずっと揺らいでいた。戸惑いの色に染まっていた。
何に戸惑っているのか、何に驚き、動揺し、感情がひとつに定まらないような気がするのか。
ロゼレッタは頭を振る。
自分が考えようとしていたことを、心の奥底にしまい込む。
すべて元に戻ったのだと、その確信だけを考え続ける。
余計なことを考えない、それもまたロゼレッタの強さだった。
考えないようにしたことは、果たしてどこへ行ったのか。
※
「そら、がんばれ」
ゴーがヒヅメを地面にめり込ませて荒縄を引く。縄の先は切り株に結ばれており、やがて土を波打たせて切り株が抜ける。
「よしよし、だいぶ広がったかな」
カッタヒルはロゼレッタからひと通りの説明を受けた。自分が商人にさらわれていたこと。取り戻すためにタペストリを用意したこと。タペストリと引き換えに、ロゼレッタには若さが与えられたこと。
「考えてみりゃ運がよかったよな。冬ももう半分過ぎてるらしいし、俺が年とって死ぬまでに牧場が作れそうだ」
カッタヒルが開墾しているのは村から大きく離れた荒れ地。まず雪を取り除き、岩をハンマーで砕き、切り株をゴーの力で掘り起こす。のちのち植えるための牧草は温室で育てており、集めた種は大ぶりの壺に何杯分にもなっている。
牧場を作るとなれば何年かかる仕事か分からない。カッタヒルはゴーとともに働き、少しずつ牧場となる土地を広げていった。
懸命に働く少年と、その彼に従うゴー。
それが芥子の一粒のように見える距離。
二つの森をへだてた遠方。丈高い山の上には黒い馬。
大きな馬に乗った夜会服の人物が、カッタヒルを見下ろしている。
「おお、うるわしきことです。彼もまた善良にて壮健。誰に恥じることもない村の働き手。やがては立派な牧場が生まれることでしょう」
その笑顔には、しかしロゼレッタに対峙した時とは違う冷たさが張り付いている。蛙を食らう蛇の笑みか、あるいは吹雪や氷壁に笑みがあるならこのようなものか。
「しかし、あのタペストリは美しすぎました」
ほう、と息を吐く。熱い吐息のような音がして、吐き出されるのは氷の粒。
「果てしない優しさ。非の打ち所のないたくましさ。光にあふれた笑顔。およそ生きた人間のそれとは思えない。竜の討ち手か、海を歩く賢者か。人間のそれを超えた美しさでした。称えるべきはロゼレッタさまの創造力。人を超えるものすら生み出せる創意のすさまじさでしょうか」
皮肉げに笑う。彼の笑顔には人あたりの良さなどかけらもなかった。もしその笑顔を見たものがいたなら、彼を何と見ただろうか。仕事を終えた暗殺者か、あるいは囚人を拷問する刑吏か。
視界の果てで、カッタヒルは村へと帰っていく。今日の分の仕事は終わったようだ。
「ふ」
低く笑う。
直後にあわてて口元を押さえる。誰も聞いてるはずはないし、誰かが見ているはずもない。それでも隠す。
「あの凡庸な若者が、あれほどの、ふ、ふ」
隠してなお笑いを抑えられない。
この慇懃無礼で謎めいた商人が、その仮面をかなぐり捨てるような、腹をくの字に曲げての笑い。
「ふふ、お二人とも、どうぞ健やかに、睦まじく、互いを思いあってください。できるものなら。いえいえ、ロゼレッタさまならきっと可能でしょう。どうぞ勤しみなさい。ひとときの油断もなきように。あの凡庸なれど素朴で慎ましい、路傍の石のような若者と共に過ごしてください。冬はまだまだ続くのですから」
どこかから一陣の風が吹いてきて。
風がやんだとき、商人の姿はどこにもなかった。
※
「ロジー、戻ったぞ」
ゴーを厩舎に戻し、温室のストーブに黒槍樹のチップをくべる。
「ロジー、どこにいる?」
「ここだよ」
たんたん、と音がする。機織り小屋は温室の近くにあり、注意を向ければ機織りの音が聞こえた。
「そうかタペストリ織ってんのか。冬が明けたら俺が売ってくるよ。金も必要だからな」
「うん」
「何か食べるものあるか」
「食糧庫から適当に食べて、私はいいから」
「そっか」
ロゼレッタはあいも変わらず働き者である。
ゴーの世話も温室の世話もこなし、カッタヒルの服をつくろったり、村の周りを見回って雪崩や崖崩れの兆候を探すことも忘れない。その働きぶりに感心する。
「機織りしてる時間がだんだん増えてるよな。というかいつ寝てるんだろうな、ロゼレッタのやつ」
カッタヒルは小首を傾げたものの、心配するとまでは行かなかった。食糧庫にチーズと固く焼いたビスケットを取りに行く。
「でもなんか、あいつのタペストリ変なんだよな」
カッタヒルはつぶやく、つぶやきながらも牧場のことを考えている。
あの大きな岩をどう砕こうか。あの穴はどうやって埋めようか。ロゼレッタのことよりも、今は牧場の方が気がかりだった。
だからタペストリについての疑問はただ一度きり。その場限りのものだった。
「なんなんだろうな……歯車みたいな花とか、現実にはないような花ばっかり……」




