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次の冬ごもりは百年  作者: MUMU
第二章 百枚の花園
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第十話



機織りの音が響く間も、村をいくつもの困難が襲った。


その一つは雪。何度か大雪が降って村を白く染める。


永い冬にあって雪は溶けることがない。ラウルバンの村は降雪が少ない土地だったが、もし豪雪の土地だったなら、何十年も溶けることのない雪が積もり続けたら何が起こるのか。それもロゼレッタの想像を超えていた。


雪はどこからともなく現れた。樹上から落ちる雪。いつの間にか積もっている雪。

山すそから降りてくる雪はパンケーキの上のバターのよう。亀の歩みで村へと押し寄せる。


ロゼレッタはタペストリを織りつつも、たくさんの雪を片付けねばならなかった。ゴーが三頭で曳く大型のそりを作り、雪を谷に捨てていく。


一つのことには専念できない。仕事は数え切れぬほどあり、予期せぬことも起こる。

落雷で火事が起きたことや。地震で山の一部が崩れたこと。窪地に落ちて足の骨を折ったこともあった。骨つぎも、松葉杖を作ることも一人でやった。軟膏の代わりに貼ったゴーの肉は熱をよく吸ってくれた。


一頭のゴーが高熱を出して動きがおかしくなり、村の柵を壊して遠い山まで逃げていった。その子を連れ戻すことは不可能だった。

それから数ヶ月ほどは、山の方からゴーの声が聞こえるような気がして胸が締め付けられた。


月は巡り、雲は流れて、季節は曖昧になって、一年の区切りを数えることもやめてしまった頃。


百枚目のタペストリを倉庫に積み上げて、ロゼレッタは己の手に気づいた。


ひび割れて黒ずんだ手。古い椅子のように硬い質感。いつからこうなっていたのだろう。目はかすんで、足腰がひどく重い。


達成感とか、開放感は薄かった。当然たどり着くと分かっていた場所に至ったという実感だけがあった。


ロゼレッタは村で一番高い建物に登り、その屋根に時計を置く。


屋根には数え切れないほど登っているのに、その時は妙に怖かった。落ちたら死んでしまう、ということを初めて意識したような気がした。


三日後の昼。空はずっと曇天が続いていたが、東の空から急に雲がかき消えて、それでいながら乾いた雷音が響く。ちぐはぐな天候が訪れる。


ロゼレッタはそりにタペストリを積んで、ゴーに曳かせて東の丘へ登った。


果たして、商人はそこにいた。


巨大な黒い馬に乗り、柔らかくほほ笑む人物。あどけなくも見えるのに、切れ長の目には息を呑むような凄絶な美がひそむ。山高帽にも夜会服にも皺ひとつなく、最後に会った日から一日も経っていないような錯覚が襲う。


「おお、ロゼレッタさま。けなげでたくましく、働き者という至上の称号に恥じぬロゼレッタさま。またお会いできた幸運に感謝いたします。タペストリが完成したのですね」

「はい」


商人はするりと馬を降り、そりを曳くゴーはなぜか身震いをしていた。今日は永い冬の中でも比較的おだやかな日で、ゴーが寒がるほどではないのに。


「拝見してもよろしいでしょうか」

「どうぞ」


すると商人はすらりと背すじを伸ばして、白手袋に包まれた手を軽く打ち鳴らす。


ぱん


音を鳴らすためというより、空気を捕まえるような穏やかな拍手。何度も繰り返す。


「おお、時の御石みいしの積み重なりて、誠実なる日々の愛しさや。喜怒哀楽は酒宴のにぎわい。時こそは我がかてなりて、我ががらんどうの心を満たすものなりや」


ぱん、ぱん。


規則正しく繰り返されるリズム。大きくも小さくもない音。詩を吟じるような商人の口上。


商人は同じようなフレーズを何度も何度も繰り返す。聞くうちに頭がふらつくような、眠たくなるような心地がする。商人の声はあまりにも美しく、抑揚は極上のオルゴールのように安定している。


タペストリが。


ふらり、と立ち上がる。ぴょんと飛び跳ねてゴーのそりから降りる。

下半分が少し曲がっていて、まるで膝を曲げるようだった。雪の上を楽しげに歩き、見えない階段を登るように飛び跳ねて、ロゼレッタの目の高さに来る。


続けざまに何枚も、列を作り、輪を作り、商人とロゼレッタを囲うように跳ね続ける。拍手の音に合わせて、商人の吟じる言葉に合わせて踊る。


百枚のタペストリが並ぶさまは壮観だった。その一枚一枚のことを覚えている。図案にはロゼレッタの意思がある。思惑があり感情があり、悩みや決断がある。特に、後半の40枚のことは編み目の一つ一つまで覚えている。


そのすべてが、虹色の光に包まれる。


光の粒のようなものがタペストリにまとわりつき、それは繊維の一つ一つにまで染み通っていた。光は炎の揺らぎとなり、極彩色となってロゼレッタの網膜を焼く。


燃えているのだ、ということを遅れて認識する。炎はあまりにも美しかった。暖炉の火とも、ガラスを溶かす炉の火とも違う。煙もなく熱すらもない。不純なもののない純然たる美しさ。糸のひとすじまで大気に溶けていくような、まばゆき炎の祭典。


「おお、おお、美しきかな。代えがたきかな」


ロゼレッタは少し驚く。商人が泣いていたからだ。うるわしく微笑みながら、見たこともないほど涙を流している。商人は恍惚としながらも手袋で涙をぬぐい、さらにハンカチーフをあてる。それでも涙は流れ続け、夜会服の襟まで届く。男が泣くのを初めて見た。それも、これほどの美丈夫が。


やがて炎は消え、商人は名残惜しそうに空を眺めて、そして百枚のタペストリは、チリ一つ残さず消えていた。


「ああ、素晴らしい仕上がりでした。特に、61枚目からの独創的なデザインに胸を打たれない者がありましょうか。あれはどなたかの姿を花にたとえたのですね」

「はい」


もう商人は泣いていない。あれだけ涙を流していたのに、手袋にも夜会服にもその痕跡がない。


「タペストリを百枚。確かに納めていただきました。おお、では改めておうかがいしましょう。ロゼレッタさま。あなたが望むものは何でしょう。いかようなものでも都合いたしましょう。春から秋に届くほどの豪邸でも、あらゆるものが実る果樹の森でも、星と虹を編み込んだティアラでも」

「商人さま」


声が。


己の声が、言おうとしている言葉よりも低く発音される。声が老いていることを自覚する。

それはずっと言いたかったこと。あの日、商人と初めて会った日から、ずっと心の中で繰り返してきた言葉。


「カッタヒルを返してください」


言葉には少女のけなげさがある。莫大な時の流れを背景にして、煮えたぎるような思いがロゼレッタの中にあった。


「あの日、あなたと取引した少年を。十頭のゴーと引き換えに、あなたに連れ去られてしまった男の子を返してください」


己は老いてしまったけれど、言わんとすることだけは分かっている。あの日に商人に望んだこと、その言葉から一言一句変えてはいない。


「村にはいま、子供も入れて12頭のゴーがいます。それもすべてお渡しします。だからカッタヒルを」

「ロゼレッタさま」


その時。

商人は口を大きく横に裂いて笑った。耳まで、あるいはもっと大きく。一瞬だけ認識される異様なシルエット、ロゼレッタはびくりと身をすくませる。だが目をしばたたくと、変わりのない高貴な姿がそこにある。


商人はうやうやしく礼をして、ロゼレッタへと片手を差し出す。


「ええ、もちろん、よろしいですとも。どのような物でもご都合いたします。その言葉にけして偽りはありません。おお、ゴーを返していただく必要などありましょうか。あなたが育てたゴーは、すべてあなたのものです」

「商人さま……」

「時を凍らせる銀の筒よ。今すぐこの場に」


ぱん、ぱんと2回手を叩く。


背後に現れるのは筒である。村長の家の大黒柱より太く。表面は白墨チョークのように白い。


それが煙のようにかき消えて、あとにはただ、麻の上下を着た少年がいた。ぱたりと雪の上に倒れる。


「カッタヒル!」


ロゼレッタが駆け寄ろうとするところを、商人の長い腕がそれをさえぎる。


「お待ちくださいロゼレッタさま。ついでと申しては何ですが、あなたに降り積もった時の綿雪を取り除いて差し上げましょう。あの少年との失われた時間をあがなうために、ロゼレッタさまにも若さが必要でしょう」

「え……」

「ほら、ご覧ください。あなたの手はフキの葉のようにみずみずしく。足は若鶏のごとく躍動せる」


はっと、己の手を見る。日々の仕事で細かな傷はあるが、老人の手ではない。


「これ、は」

「肺は長き人生の煙を吐きつくし、髪は夜のうるしを浴びて黒く、目の奥にひそみし蜘蛛の巣は、いますべて取り除かれし」


五感が。輝いている。

筋肉が、神経が、骨すらも若さに震えるかのようだ。ほんの数秒前までの自分が夢の中の存在だったように思える。


己の顔に触れる。足に触れる。吸い込む息が甘く、内臓は強い熱を持っている。


「さあ、かの少年を抱きしめてあげるのがよろしいでしょう。実に良い取引でした」


商人の長い腕が持ち上げられる。自分が少し背が低くなったことを理解した。あの日。カッタヒルが商人を呼び、取引をした日にすべてが戻ったのだと感じた。


「か……カッタヒル!」


ほんの数秒ではあるが、カッタヒルの存在すら忘れてしまうほどの若さの輝き。ロゼレッタは慌てて彼に駆け寄ろうとする。


「しかし、惜しむらくは」


最後の一瞬。


商人の悲しげな、あるいは残念そうな。

それともどこか可笑しそうな、つぶやきが。



「人は、花ではないのですがね」


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