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次の冬ごもりは百年  作者: MUMU
第一章 汝、遠吠えを恐れよ
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第一話



狼の声。


振り向けば、視界の果てにのこぎりのような山。冠雪した山脈は世界の果てを示す壁のようだ。


明確に聞こえたわけではなかった。遠く山脈を駆け上り、駆け下る風のうなりかも知れない。そう思って男はまた歩を進める。


険しい山道には木の葉が積もり、黒ずんで泥に変わりつつある。そこを歩く人物はゆっくりと、足全体で地面を確かめるように歩く。


いくつかの尾根を越え、山すそをぐるりと周り、男がたどり着いたのは山に囲まれた村だった。


建物の数を数える。見下ろす範囲でまばらに20あまり。冬枯れの木に隠れてその倍ほどあるだろうか。


地図上での名前はシェズ村。記録の上では最後に確認された人口は138人。そんなことを思い出す。


男は鎧を身につけていた。鈍く光る鉄鎧に赤い肩掛けが縫い付けられ、手甲と脚甲を毛皮で覆っている。腰には木製の鞘と、そこから露出する剣の柄が見える。

だが大きく重い背嚢はいのうを背負っており、それは人間が一人入れるほどもあった。騎士なのか商人なのか、判断するものはここにはいない。


「それなりに活気があった村ね」


男の近くに猫がいる。銀色の毛並みを持つ、ふかふかとした印象の猫。ギンワタネコと呼ばれる寒冷に非常に強い猫だ。道の端にうずくまっている。


「ここは林業と、果実酒の醸造が盛んだったそうです」


騎士が言う。


「冬ぞなえも十分だといいのですが」

「どうかしら。冬ぞなえが十分だった村なんて見たことないわ。家はそれなりの邸宅もあるけど、高い塀できっちり囲って財産を守ってる感じよ。「冬守ふゆもり」に物資を渡すような村かしら」

「偏見はよくないですよ」

「偏見じゃないわ、経験則。それじゃ、私は適当にのんびりしてるから」


ギンワタネコは長いあくびをして、どこかに歩み去ってしまう。


同時に、目の端に影が見えた。


視線を向ければ少年がいる。


年の頃は10にも満たぬほど。耳にかかる程度に伸びた黒髪と赤ら顔。痩せていて小柄。綿入りの上着はすり切れて、手指と口の周りにあかぎれが見える。背中には細い枝を積んだ背負いカゴがあり、それは少年の体格の割には重そうに見えた。


「こんにちは、私はニール。越冬官えっとうかん。巡回騎士です」

「越冬官がほんとにいたんだ……おとぎ話かと思ってた」

「どうぞ、私のことは気にせず荷を運んでください」

「うん」


少年は重そうなかごを身を揺らすように背負い直すと、ぬかるんだ道を慎重に歩く。ニールと名乗った男はその後についていく。


「儀式をやるんだよね」


少年は細かく歩を刻む。背後のニールを何度か振り返り、ニールはゆっくりとした足取りでついていく。


「ええ、食糧庫を見せていただきたいのです、案内していただけますか」

「この枝を炭焼き小屋まで運ばないと……もう一人いるから、その子に案内してもらってよ、ガダの実を潰す音が聞こえるはずだよ」


少年の声は甲高く、冬着を着ていても手足の細さは隠しきれない。働く姿にも、幼さと同時に脆弱な印象が潜んでいた。


「お名前を伺ってもいいですか?」

「ケルトゥ、やせっぽちのケルトゥ」


二つ名を自虐気味につぶやく。二つ名というよりは、はっきりと悪口だろう。彼にそんな名前をつけた人間ももはや残っていないだろうが。


「ねえ騎士さま、狼を見なかった?」

「狼ですか。ここに来るまでは見かけませんでした」

「ふうん」


ケルトゥは山の方を見る。そこには剣ヶ峰の並ぶ見事な山脈がある。


「狼が出るのですか」

「いや、なんか気になって」


二人は炭焼き小屋との分岐点に至り、それぞれ別方向に向かう。


「また後ほど、ケルトゥ」

「うん」


村には白い漆喰の壁を持つ邸宅があり、商店らしきものもあった。役場があり、酒蔵があり、馬車駅もあった。厩舎は獣の匂いが薄れつつあり、馬は1頭もいない。


大きめの倉庫があり、その前に少女がいた。石臼と、シーソーのような足踏み式のきねで木の実を潰している。迷路のような模様が編み込まれた長いスカート。体中を飾る刺繍の布かざり、キルティングの帽子には赤い花の意匠が描かれている。体に巻き付ける服の上から、正方形の刺繍入りの布をいくつも留める、そのような伝統的な衣装らしい。


年の頃は12、3だろうか。ケルトゥよりも少し背が高い。


「あ」


少女はニールを認めて、足踏みの杵から足を下ろした。

乱れたスカートの裾を丁寧に直す。その顔は寒さと労働のために赤らんでおり、頬は膨れて見えた。


「もしや、越冬官えっとうかんさまですか」

「はい、巡回騎士を務めるニールと言います」


まず騎士という人種があり、巡回騎士や越冬官というのはその上から貼られる肩書である。ニールは丁寧に礼をして、少女もあわてて礼を返す。


「食糧庫を見せていただけますか」

「ど、どうぞ」


元は酒蔵だったと思われる建物。重い木の扉を開けば階段にして五段ほど掘り下げられており、左右に大ダルが並んでいる。  


「こちらにあるもので全部ですか」

「はい、あとは私とケルトゥが住んでいる家に少しありますけど……」


内容を吟味するより先に思う。まるで足りない。


「目録は作成していますか」

「あ、ありません」


そうだろう。目録の作成は義務ではないし、証拠が残ってしまう。


ニールは蔵に入る。少女がランタンに明かりをつけてくれた。


「お名前は何と言われますか」

「ネルハンシェラです」


タルの大きさは揃っている。酒樽を利用したのだろう。ニールは白手袋をはめて、ポケットから透明なビンを取り出すと、中身を手袋にふりかけてから作業に入る。


「ガダの実が約60キロ。レンズ豆が5キロ。塩が15キロ。塩漬けの肉が20キロ、小麦粉が126キロ」


ネルハンシェラは不思議そうに首をかしげる。


「あの、重量が分かるのですか?」

「おおよそです」


乾燥させた豆類や芋類、塩漬けの野菜。固く焼いたビスケット。それに油と酢と、小さな樽に一つだけのワイン。


「薬品類はありますか」

「私の家に置いています、あとでお見せします」

「家畜は残されていますか」

「いえ、一頭もいません」

「すべて「本」の中に?」

「はい」


ニールは一つ一つの樽を見ているが、奇妙なことには白手袋にビンの液体を振りかける動作を定期的に繰り返している。


「それは……何か、魔法の力が込められた水でしょうか」

「火酒ですよ。悪いものが樽に入らないようにしています」


倉庫には棚もあり、瓶詰めが並んでいる。かんきつ類を蜂蜜に漬けたもの、魚のオイル漬け、シロップに漬けたリンゴなど。


「このビンは蓋が良くないようです」


ニールが指差す。厚手の布にタールを塗って蓋にしてあるビンだ。


「新しい蓋が必要ですね。それと、そちらの小瓶は一度湯煎したほうがいいです。この二つはあなたの家に運びましょう」

「わ、わかりました」


ネルハンシェラは少し面食らう。そんな指摘が出るとは思っていなかった。越冬官はただ食糧庫に来て、腐らずの儀式をやるだけと教えられていたから。


じゃら、と金属の音。


ニールが剣を取り出したようだ。それは柄の部分に鎖が結ばれており、腰のベルトに繋がっている。


儀式をやるのだと理解し、ネルハンシェラは少し下がってひざまずく。


「あるがままの姿を示せ」


声は体の下の方から出すように重くなり、倉庫の中にいんいんと響く。


「時の流れに時の形あり、愚かしき心に法理の光あり、生において死の流転あり、光は明暗であり虚無こそ理である。つるぎの輝きより逃れるものなし」


鞘から抜き放ち、すいと空中を斬る。

だがその剣には刀身の部分が無かった。柄だけが空気の中を泳ぐ。何かを斬るように、大きく斜めに動かす。


「終わりました」


かちり、と何かの留め金を鳴らして剣を納める。


ネルハンシェラは少し目を丸くする。ものの一分も経たずに終わるとは思っていなかった。


「あの、終わりなのですか」

「はい、腐るという事象を斬りました。永き冬の間、食べ物に悪いものが取り付かないように」


ニールは棚の上からビンを二つ下ろす。


「では、あなたの家に行きましょうか」

「は、はい」


家は村の片隅にあり、煮炊きのかまどが一つ、物入れの木箱が一つあるだけの簡素な家だった。


「あの、越冬官さま、何か召し上がりますか」

「いいえ、私に食べ物を渡さないでください」


ニールはその巨大な背嚢を置くと、布についていた細かな葉や棘をはらう。


「越冬官は必要があるとき以外は決して冬守りの食べ物に手を付けない。そういう決まりなのです」

「ですが、何日か滞在されると聞いています」

「自分のことは自分で面倒を見ます。それに、あなた方には豆のひとつぶ、塩のひとつぶすら貴重なものです」


ネルハンシェラはニールの置いた背嚢を見る。とても年季の入ったもので、分厚い布をさらに革で補強してある。背負いベルトも馬革の丈夫そうなものだ。自分の食料を持って旅をしてるのだろうか。そう理解する。


「「魔法の本」はありますか」


ニールが尋ねる。


「はい、こちらに」


案内するのは壁に吊ってある棚である。金属でできたケースが置いてあり、やや高い位置にあったためニールが下ろす。


中にあるのは褐色の装丁の本。ずっしりと重く分厚く、ネルハンシェラの上半身が隠れるほど大きい。


ニールが指で触れる、ぴしり、と火花のようなものが散った。


中にあったのは絵である。背景はなく、真っ白な中で整列した家族の絵、家畜の絵、家具や金貨の絵、楽器や書物、積み上げられた食料に果樹の木、大型の動物や鳥の絵、何かの書類までが絵になっている。


家族一人あたり、見開きの2ページ。


そこに背景のない、人間と物だけの絵が図鑑のように並んでいる。


この村にはこのような人々がいて、このような財産を所有していた、それを示すカタログのように見える。


「わかりました」


ぱたり、と本を閉じてケースにしまい、また棚の上に。非常に重い本だが、扱い慣れていると思えた。


「先ほど、ケルトゥという少年に会いました。この村に他の冬守ふゆもりはいますか」

「いえ、私とケルトゥだけです」

「……そうですか」


ニールはつと入り口から外を見る。まだ日は高く。わずかに暖かな気配が流れてくる。

反応したのは暖気ではなく、足音がしたからだ。


「あ、ここにいたね」


現れる少年はケルトゥ。白い息を吐いて、空になっていた背負いかごをするりと下ろす。


「ケルトゥ、しばらく逗留させていただきます。冬の備えについて、お二人の行っていることを見せていただき、僅かながら助言させていただきたく思います」

「そ、そうなの? わかりました」


ニールという人物は騎士であるはずだが、ずいぶんと丁寧というか、へりくだった物言いをするのだなと思った。ネルハンシェラもケルトゥも、自分たちにそのように接する大人を見たことがない。


「では私は村を見てきます」


と、外に出ていってしまう。スパイクつきの靴を履いているのか、ちゃりちゃりと小さな金属音が鳴った。


その姿を見送ってから、ケルトゥが言う。


「ねえネル、あの人ってほんとに騎士さまなの?」

「そうだと思うけど……だいぶ擦り切れてるけど、上等そうな鎧だし、腐らずの儀式もちゃんとやってくれたし」


それに、かなり若く見えたが、子供ではない。


いま現在、村々を訪ね歩くような人間は越冬官の他にはほとんどいないと聞いている。


越冬官は本に入らずに冬の時代を過ごす人であり、冬守りたちを導く存在であるという。とても若く、地味な人物に見えたが、きっと優秀なのだろう。


そのような話をネルハンシェラがするが、ケルトゥはどこか腑に落ちない様子だった。ニールの出ていった入り口を見つめて、足元に落とすようにつぶやく。



「でもあの人……なんか変だったんだよ。ネコを見つめてぶつぶつと、独り言を……」


というわけで新連載を初めました。

ゆっくりとした連載になると思いますが、どうかしばらくお付き合いください。

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― 新着の感想 ―
読みました。 冬守りというワードがとても神秘的でいいなと思いました。
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