6 秘密
「やっと戻ってきたわ!」
昼下がり。ロンドンの通りを馬車で揺られながら、私は思わず両手を上げて叫びたくなった。
隣に控えているエミリーに叱られるのは嫌だったので、控えめな声で喜びを表わすだけにしておく。
「そんなにロンドンに戻ってきたのが嬉しいのですか? 確かに、魔物を狩る機会が見つけやすいのは呪いの進行を止めるのに良いのでしょうけど……」
御者には聞こえない声の大きさで、エミリーが私に聞く。
「それもあるけど、単にロンドンが性に合ってるのよ」
都会というものはとかく懐が広い。
雑多な空間は私のような異物もそのまま受け入れてくれるような気がした。
「そういえば、今日ルーファス様は何をされてるんですか? 発つ時にはもう屋敷にいらっしゃらなかったようですけど」
「急ぎのお仕事が入ったそうよ。気になる事件があるとかで」
「式の翌日にですか」
エミリーがあからさまに渋い顔をする。
エミリーは昨夜の件から、ルーファス様本人と周囲のあらゆることに厳しい目を向けがちだった。
「仕方ないわ。むしろ早速家のことを放り投げて一人で買い物に出ようとしている新妻の方が失礼に当たるんじゃないかしら」
明るくそう言ってみたものの、エミリーの表情は晴れない。
「……ルーファス様は奥様に何かを隠しているように見えます」
「秘密に関してはお互い様よ。それに、事件に携わる仕事なら、関係者ではない私には話せないこともきっとたくさんあるでしょうね。……ところで、奥様というのは私のこと?」
実感がなさすぎて一応確認をとってみる。
「あなたに呼ばれると、まるでお母様になったような気分でなんだか居心地が悪いわ」
「では今まで通りベラ様とお呼びしましょうか。旦那様がほかの方でしたら、奥様と呼ばないのは失礼になるとお断りするところでしたが……あえてベラ様とお呼びすることで、ルーファス様に対する私の鬱憤が少し晴れるような気がします」
ルーファス様はすっかり嫌われてしまっているようだ。
エミリーにも好意的に接してくださるぶん、なんだか可哀想な気もした。
「確かにルーファス様は一般的な貴族の紳士とは少し違うような気がするけれど、きっと悪い方じゃないわよ」
「ずいぶんルーファス様に対する評価が変わったようですね。出会ったばかりの頃はあんなに興味のないようなそぶりをしていたのに」
探るような眼差しに、思わずぎくりとする。
確かにそうかもしれない。
ルーファス様は私が想像していたよりもずっと善良な人だった。
隠し事だってきっと道徳に反するものではないだろう。
仕事の事については詳しく話さないから私も聞かないようにしているが、情熱と正義感を持って取り組んでいるように見えた。
ようは、裏表がないように見えるのだ。
嬉しい時には嬉しそうな顔をするし、申し訳ないと思ったらそれがそのまま顔に出ているように見える。
生来の素直さというものはなかなか演技でごまかせるものではない。
私にはないまっすぐさをまぶしく感じ、好ましく思っていることも事実だ。
ただ私には、異性に対する愛情や、ましてや恋のことはよくわからない。
そういう感情は私には不要だった。
やがて馬車がテーラーの前に到着する。
看板にはレディバード・ベルベットという店名が書いてあった。
式の準備の際に屋敷に出張してもらった店だ。
1階は接客や採寸のためのフロアになっており、2階の窓からは、お針子たちがドレスや帽子を縫っているのが見えた。
エミリーと一緒に店内に入ると、仕立屋の女主人が笑顔で私達に歩み寄る。
「ブラッドワース夫人! わざわざお越しいただきありがとうございます。お待ちしておりました」
慣れない呼称で呼ばれて、どうにも落ち着かない気持ちになる。
私はそんな内心を微笑みで覆い隠して仕立屋に挨拶をした。
ウェディングドレスの直しを頼んだ後、実は一度式の準備の合間にこの店を訪れている。
「以前新しくご注文いただいたドレスが仕上がっております」
「見させていただくわ」
杖を立てかけて勧められた椅子に座ると、お針子の一人がドレスを持って来てくれた。
エミリーの手を借りて試着をし、細かな箇所を確かめる。
レースが少なめで、あえてすっきりとしたシルエットに仕立てたドレスだ。
――動きやすそう。
そして武器が隠しやすそう。
喜びのあまり喉まででかかった感想をなんとかこらえる。
一緒に仕立ててもらったペチコートは軽やかなモスリンで出来ていて、義足にまとわりつかないよう工夫されている。
そういえば、この店は女性用の乗馬用服も扱っていると聞いていた。
そのため機能性もよく考えて仕立てているのだろう。
動きやすい服は、魔物と戦う際にも役立ってくれるかもしれない。長くお世話になりたい店だった。
「とても素敵ね。気に入ったわ、ありがとう」
控えていた仕立屋とお針子に声をかける。
ぱっと表情を明るくしたお針子も、フェーンベリーに出張してくれたあの子だった。私がぜひ今回も彼女にと指名したのだった。
歳は16歳ごろだろうか。まだ少女のあどけなさがある。
そしてやはり、糸くずのようにかすかな魔力が彼女のブラウスやスカートにまとわりついていた。
初めて見た時よりも魔力の痕跡が濃い。
あの時はまだ側に気配を感じるくらいで実害はなさそうだったが、こうなってくると魔物の正体を急いで探った方がいいかもしれない。
私は改めて彼女を観察した。
顔色は良く、特に体調を崩しているような様子も見当たらない。
彼女が直接何かをされているわけではなさそうだ。
けれど接触があったということなのだろう。
目を閉じると、魔力の質がさらによく見える。
乾いた血のような濁った色だった。
私の中の魔女の魂と、母が手帳に遺した様々な魔物についての記録が、わずかな痕跡から魔物の正体を推測していく。
おそらく悪意のある精霊の類いだ。
実体化するほどの力は持たない。
けれど悪戯と言える程度の悪さで済むかどうかは疑問だった。
もうじき何か起こるのか、それともすでに起き、彼女がなんらかの形で関わっているのか。
残念ながら、今はこれ以上の情報が得られることはなさそうだった。
もしかしたら、夕暮れ以降に来てみればまた何か新しい情報が見つかるかもしれない。
闇が濃くなればなるほど魔物の影響力は増す。
お針子の家がわかるのならそちらを探りたいところだが、さすがに探偵ではない私にそこまでの調査能力はない。
店が閉まる時に合わせて、帰宅しようとしているお針子の様子を見ることができればそれが一番だ。
何か理由を付けて、今晩か明日にでも来てみることにしよう。
完全に夜がやってくる前なら、ルーファス様には義足の調整のための診察だと言って、エミリーを連れて出掛けることもできる。
……そこまで考えてから、そういえば本当に診察にいかなければならなかったことを思い出す。
傷口はもう問題ないが、義足の方をこまめに調整しないと痛むのだ。
ついでに済ませてしまおう。
そう決めて目を開けると、お針子の顔が思ったよりも近くにあった。
痕跡を観察しているうちに、無意識に近寄ってしまったらしい。
「あ、あの……」
「ベラ様」
お針子の戸惑ったような声と、エミリーの淡々とした呼びかけに、私ははっと我に返る。
「ごめんなさい。あなたの服も素敵ね。もっと近くで見たくなってしまって」
こんな言い訳はさすがに無理があるだろうか。
けれど実際、お針子は優美な刺繍をほどこしたブラウスを身に纏っている。
花と蝶が、額縁の中におさまっているような繊細な刺繍だ。
何らかの絵画をモチーフにして、自分で縫い上げたのだろうか。
デザインに優れていながらも仕事着としての体裁を損なわないよう施されたそれはセンスが良く、エミリーだったらもっときちんと言葉を尽くして褒めるだろう。
しかしあいにく私はお洒落に疎いので、これ以上の言葉で場を繋ぐことはできない。
けれど、お針子は私の言葉足らずな褒め言葉にも嬉しそうに表情を綻ばせた。
「ありがとうございます。実はこの後、会う予定の人がいるんです」
頬を染めてそんなことを言う。
「だからお洒落をしているのね」
嬉しそうな表情を見て、ひと目で想い人のことだとわかった。
恥じらいを含んだ笑みが可愛らしくて、私もつられるようにして微笑む。
すると仕立屋の女主人がからかうように口を挟んだ。
「グレイス。私はあなたが心配だわ。うぶで悪い男に騙されそうなんだもの」
「そんなことはありません。あの方はとっても素敵な方なんですよ」
グレイスと呼ばれたお針子は少しむっとしたように言い返してから、はっと我に返ったように私を見た。
「申し訳ございません。褒めていただいたのが嬉しくて、つい余計なことを」
「いいのよ。あなたにとって良い時間が過ごせるといいわね」
恋についてはよくわからないが、恋をする女性が可愛らしくて美しいということは私にも分かる。
私はグレイスに笑みを返し、ドレスを受け取って店を出ようとした。
その時、ドアが開いて長身の男性が入ってくる。
その顔を見て、私は思わず目を見開いた。
「ルーファス様? どうしてここに」
「用が済んだから迎えに来たんだ。どこに行くかは事前に聞いていたから」
「わざわざ来てくださったんですか?」
「ああ。妻との時間は大切にしたいからな」
ルーファス様は爽やかな笑顔で答えた。
夫婦として形式的に正しい受け答えをしているともとれるが、どこか自分の言葉に照れているような表情を見る限りは心からの言葉のようだ。
またかすかに罪悪感を刺激される。
共に店を出ようとしたところで、いったん奥に下がっていたグレイスがこちらを見て驚いたように声を上げた。
「ルーファス様!」
「……! ああ……」
ルーファス様が振り返って、曖昧な笑みを浮かべる。
グレイスは頬を染め、どこかそわそわした様子で口を開いた。
「今日は夜にお越しになる予定ではなかったのですか?」
どういうことだろうか。まるで知り合いのような口ぶりだ。
しかも、この後に会う約束をしていた……?
グレイスが誑かされている悪い男というのは、まさかルーファス様のことなのだろうか。
ルーファス様を見上げると、何かを誤魔化すような笑みが返ってきた。
微かに焦りが見える。あやしい。
「今はベラを迎えに来ただけだよ。例の件についてはまたあとで」
「そうでしたか。かしこまりました」
グレイスがはっとしたように口元を押さえて引き下がる。
フェーンベリーでウェディングドレスを仕立てるための採寸をしてもらった日、確かその直前にルーファス様も私を訪ねてきていた。
入れ違いに顔を合わせていてもおかしくないのかもしれない。
けれど『例の件』というのは……?
やはり、二人の間に何かあるように思える。
「妻との時間を大切にしがてら、他の用事もあったようですね」
店を出てからルーファス様に言うと、ルーファス様はぎくりとした顔をした。
「い、いや、これは……」
「構いませんよ」
私はふっと微笑む。
本当に、一向に構わない。
愛人を作って遊んでくれるのなら私は自由だ。
妻としての最低限の義務は果たすつもりだが、それ以外はそれぞれやるべきことをやろうではないか。
この釈然としない気持ちは、おそらく私のルーファス様への印象が合っていなかったことに対するささやかな悲しみだ。
グレイスのようなまだあどけなく純粋な女性を誑かすのは、社交界で刺激を求めるご婦人相手に火遊びをするのとはまったくわけが違う。
「ベラ様、外出のついでに義肢の具合を診てもらいましょう」
エミリーが気まずい空気に助け船を出すようにそう言った。
「ええ、そうね。ルーファス様、せっかくお迎えに来て戴いたところ申し訳ないのですけど、ここで失礼するわ」
◆
イザベラとエミリーが馬車に乗り込む。
走り去って行く馬車を見送った後、ルーファスは頭を抱えてその場に崩れ落ちた。
「ああぁ……」
情けない声が零れる。
馬車が走り出す直前、妻の侍女であるエミリーがこちらにちらりと冷たい視線を寄越したのが見えた。
これはまずい。絶対に妙な誤解をされている。
ルーファスはなんとか立ち上がると、テーラーのドアを開けようとして、誤ってそのまま体をぶつけた。
鈍い音がする。
仕立屋と針子が慌てたようにこちらに駆け寄り、ドアを開けた。
「ルーファス様、どうされましたか? もしかしてお加減でも……」
「……いや、なんでもない。大丈夫だ」
ルーファスはぶつけた額に手をやりながら、二人に引きつった笑みを返した。
新妻に秘密がある自分が何よりも悪い。
理由を隠して突然申し出た婚約を、彼女はどう思っていたのだろう。
思いがけず初回の訪問で快く婚約を受け入れてくれたおかげで、自分はずいぶんと舞い上がってしまったような気がする。
それはきっと、彼女の心を置き去りにした反応だった。
昨夜と今朝のイザベラの様子を思い出す。
いつも背筋を伸ばし、小柄ながら堂々とした印象のイザベラだが、ルーファスが触れようとするたびに戸惑ったような顔をしていた。
だからこそあまり性急に距離を縮めるべきではないと退いたのだが、もしかするとこれは悪手だったかもしれない。
自分の振るまいが正解なのかどうか、こうも不安になるのは初めてだった。
「驚かせてすまない。それよりも例のものは……」
聞くと、針子がぱっと表情を明るくした。
「仕上がっております。とても良い出来なんですよ! 早くお見せしたいと思っていたところなんです」
はしゃぎようを抑えきれない針子の隣で、仕立屋が困ったような顔で微笑む。
「さきほどは申し訳ございませんでした。奥様には内緒にしてほしいと言われていたのに、ついうっかりグレイスが余計なことを言ってしまって」
「構わない。こちらこそ、夜に来ると知らせていたのに驚かせてすまなかったね。ところで……」
ルーファスはいったん言葉を切って、いつもよりも着飾っている様子の針子を見つめた。
「もしかして、君は今夜仕事の後に『彼』と会うつもりなのかな」
「あ……。ええ、そうなんです。私ごときが気軽にお会いして良い方ではないとわかっているんですけれど」
針子がさっと頬を染めてうつむく。
ルーファスはどう伝えるべきか言葉を選びながら口を開いた。
「いや、そんなことはない。彼もきっと君から良い影響を受けている。だが……彼からの誘いには、簡単に乗らない方がいい」
針子はきゅっと唇を噛んだ。
思い当たる節はありそうだ。
辛そうなその表情に、こちらまで胸を締め付けられるような思いだった。
「知り合ったばかりなのに、余計な口出しをしてすまない。その刺繍は彼の作品をモチーフにしたものだろう? よく似合っている」
少しでも明るい表情を取り戻させたくてそう言えば、針子は少し驚いたような顔をした。
「実は、さきほど奥様……イザベラ様も褒めてくださったんですよ。ルーファス様とイザベラ様はどこか似ていますね。素敵なご夫婦です。少し憧れてしまいます」
「……ありがとう」
ルーファスは顔が熱くなるのを感じながら曖昧に返事をする。
感情が全て顔に出てしまうこの性格は難儀なものだと、今更ながらにそう実感した。




