4 変わり者の婚約者
翌日、屋敷は朝から大忙しだった。
「お嬢様、今日は念入りにコルセットを締めますからね」
「緩めにして。お願い」
「このドレスはきゅっとしたくびれがポイントなんです。美しさに我慢はつきものですよ。さあ、息を吐いて」
問答無用で締められて、私は喉の奥からヒキガエルのような声を出した。
エミリーはお洒落が好きな女性だが、普段は私の希望を優先してゆったりとしたドレスを着させてくれる。
しかし今日は婚約者と初めて対面する大事な日だということで、エミリーの美意識は私を問答無用でぎゅうぎゅうに締め上げることに決めたようだった。
エミリーも、あまり表情には出さないが私の婚約を喜んでくれているらしかった。
きっと、両親を失って以来続いている私の妄執が薄れるかもしれないとでも思っているのだろう。
彼女は私を尊重してくれているし、この足首の痣がある限り魔物を狩らなければならないことも理解してくれているが、同時に私に平穏な幸せを掴んでほしいとも願ってくれている。
その親愛の情を思いを嬉しく思わないわけがない。
だから私は、今日くらいは甘んじて締め上げられることにした。
すべての装飾品を身に付け終え、義足の位置を直して立ち上がる。
その瞬間、私の体にピリピリとした感覚が走った。
これは、昨夜張った結界に何かが立ち入ったことを報せる合図だ。
もちろん結界が知覚したのは人ではない。魔物だ。
けれど妙だった。強い魔力は感じない。
かといって、弱い力しか持たない魔物であれば、魔除けの役割を持つ結界には近づけないはずだ。
……誤作動かしら。それとも私の結界に綻びがあった?
こんな妙な感覚は初めてだった。
結界は触れたものの魔力の質をそのまま私に伝えてくれているが、悪意を感じるような濁った感覚はない。
もし綻びがあり弱い魔物が入り込んだとしても、このぶんだとせいぜい他愛ない悪戯をする程度だろう。
魔物は人間の持っているものを奪い、自らの力にする。無害な妖精なら人の手作りお菓子を奪うこともあるだろうし、悪意のある魔物なら血や命を奪うこともある。
小鬼でも、生気を奪うことくらいはするかもしれない。
来客を予定している以上、放っておくわけにもいかなかった。
けれど、わざわざエミリーに知らせて心配させるまでもないだろう。
珍しく嬉しそうに舞い上がっているエミリーに水を差したくはなかった。
「お嬢様?」
私の様子に気づいたエミリーが、不思議そうに名前を呼ぶ。
「いえ……なんでもないわ。お客様が来るまで、少し庭を散歩してくるわね」
私はそう言ってドアの方へと歩いていった。
棚に置いてあったペーパーナイフを手に取り、さりげなくドレスのひだの中に隠す。
「それでは私も一緒に――」
「いえ、大丈夫。少し一人になって心を落ち着けたいの。……結婚がどうなろうと私にはどうでもいいと思っていたけど、やっぱり少し緊張してしまって」
ほとんど嘘だが、ほんの少しは本当だ。
私だって子供の頃は幸せな結婚に憧れたことがある。
私の言葉が意外だったのか、エミリーは驚いたように目を瞬かせたが、すぐにからかうような笑みを浮かべた。
「……そうですね。もうじき旦那様となる方にお会いするんですもの。心の準備は必要ですね」
私は微笑み返すと、一人で庭へと向かった。
強い陽射しに照らされた庭園は、のびのびと茂った木々の爽やかな香りがした。
木漏れ日を受けながら、私はさっきの妙な感覚を頼りに、屋敷の周囲を見渡す。
けれど魔物の魔力の痕跡を見つけることはできなかった。
目を閉じても何も見えないし、肌がひりつくような感覚もすっかり消えている。
一体何だったのだろう。
私は念のため持ってきたペーパーナイフに魔力を通し、魔物との遭遇に備える。
魔物に普通の武器は効かないが、魔女の魔力を通わせたものであれば致命傷を負わせることもできるのだ。
とはいえ、昨日結界を張ることに魔力の大半を使ってしまい、まだ回復しきってはいない。
充分に魔力を送ることはできないが、小物相手ならこれでも充分役立つだろう。
庭の生垣の間をゆっくりと見て回っていると、不意に生け垣の角から人影が現われた。
「……!」
ぶつかりそうになってとっさに重心をずらす。
その拍子に、不覚にも義足のかかとを滑らせてバランスを崩してしまった。
「おっと、危ない」
私の身体を抱きとめたのは、すらりとした長身の青年だった。
一瞬、こちらを見つめる瞳が金色の光を帯びたように見えた。
けれど瞬きをしたその瞬間に不思議な輝きは消える。
きっと陽の光の加減だったのだろう。
漆黒の髪と青みがかったグレーの瞳を持つ青年は、私の顔を覗き込んだまま薄い唇を開いた。
「レディ・イザベラ?」
「あなたは……」
半ばその正体を予感しながら聞くと、目の前の青年が甘い笑みを浮かべる。
私と同じくらいか、少し年上だろうか。
穏やかな物腰だが、笑うと少し尖った犬歯が見えて、やんちゃな少年の面影があった。
「私はルーファス・ブラッドワースです。驚かせてしまったようですみません」
……やっぱり。
「今しがた到着したのですが、あまりにも見事な庭だったので、見せていただいていました。勝手をお許しください」
その言葉を証明するように、門の方から従者と思しき男が歩いてきた。
どうやら馬車の御者に指示を出していたらしい。
従者は私とルーファス様の姿を確認してから、距離を保って控える。
邪魔をしてはならないと判断されたらしい。
「いえ……こちらこそ、お出迎えできずに失礼いたしました」
そう答えつつ、視線をどこに置けばいいのかわからなくなり、目を逸らす。
その腕の中からは早々に抜け出したものの、あまりにも距離が近い。
するとルーファス様は心配そうな様子でますます私に顔を近付けてきた。
「もしかして、脚を捻ってしまったのですか?」
はっとしたように膝をつこうとしたルーファス様を、慌てて押しとどめる。
「いえ、そうではなく……少々お顔が近いので」
「……! ああ、失礼」
ルーファス様は慌てたようにぱっと私から離れる。
甘いマスクからは想像がつかないほどのうろたえぶりだった。
どうやら無意識だったようだ。
私から体を離すその瞬間、太陽の光に透けたグレーの瞳が、またわずかに金色の光を散らす。
角度によって微妙に色が変わるらしい。
「不思議な色の瞳をしていますね」
つい口にしてしまってから、いきなり容姿に言及するのは失礼だったかと後悔する。
ルーファス様はばつの悪そうな顔をして私から視線を逸らした。
「ああ、光の当たり具合によって見え方が違うんです。少し気味が悪いかもしれませんが、あまり気にしないでいただけますか」
「いいえ、気味が悪いとはまったく思いませんわ。子供のころに、金針水晶を見たことがあります。ルーファス様の瞳を見て、その美しさを思い出しました。とてもお綺麗です」
ただ正直に思ったことを伝えたつもりだった。
「なっ……」
ルーファス様はなぜか絶句したあと、なにやら難しそうな顔をして言葉を続ける。
「……あまり初対面の男にそんなことを言うものではありませんよ。口説かれているのかと勘違いしてしまいます」
「全然まったく口説いてはおりませんが」
「なお悪いですね」
ルーファス様はすぐさま私にそう返すと、気を取り直したように小さく咳ばらいをした。
なんだか不思議な方だった。
見た目や振る舞いは女性慣れしていそうなのに、さきほどからやけに動揺しているような気がする。
「今日は、私の方から婚約を申し出るために――つまり、あなたを口説きに来たんです。なので、あなたにそんなことを言われると期待してしまいます」
私はしばしルーファス様の言葉の意味を考えてから、慎重に口を開いた。
貴族社会で交わされる言葉をそのままの意味で受け取ってはいけない。
それは、社交界デビューからこちら腫物のように扱われてきたせいですっかり身についてしまった社交術だった。
「……縁談といえば親同士でまとめてしまう場合がほとんどですのに、こうして直接お話しに来てくださったこと、とても感謝しております。誠実なご対応に応えられるよう、最善を尽くしますわ」
ルーファス様のほうにも、何かしら私と婚約をするメリットがあるのだろう。
それが何かはわからないが、社交界の令嬢たちに噂されるほど評判の伯爵が私に求婚をするなど、そうと考える他ないような話だ。
けれど何らかの思惑をおくびにも出さずに、こうして貴族の令嬢をときめかせるような言葉をくれるというのは、誠実さの一種だと考えてもいいだろう。
中途半端に騙されるよりも、完璧に騙してくれた方がいい。
そうすれば、きっと私も同じように振る舞うことができる。
「あなたはなかなか手ごわそうだ」
私の言葉をどう受け取ったのか、ルーファス様が苦笑する。
そしてふと、地面にその視線を留めた。
「ん? レディ・イザベラ。落とし物をしているようですよ」
「あ……」
しまった。転びかけた拍子に、地面にペーパーナイフを落としてしまったらしい。
ルーファス様はしゃがんで拾い上げようとし、何かに驚いたように一瞬手を引いた。
「……っと」
「大丈夫ですか?」
切っ先で指を怪我してしまったのかもしれない。
急いで歩み寄ると、ルーファス様は笑みを浮かべてペーパーナイフを拾い上げ、私に差し出す。
「大丈夫ですよ。少しちくっとしただけです。それにしても、持ち歩くほど気に入っているものなんですか?」
「え……ええ。ちょうど届いた手紙を庭で読んでいたところで」
「そうでしたか」
苦しい言い訳にも、ルーファス様はすんなり納得してくれたようだった。
私は内心の動揺を押し殺して微笑む。
「きちんとお迎えもできずに失礼いたしました。私のことはどうかベラとお呼びください。さあ、こちらへどうぞ」
ルーファス様を屋敷へと案内する。
もう一度振り返った庭は静かで、相変わらず何の異変もなかった。
結局、結界に感じた違和感は気のせいだったのかもしれない。
前回の舞踏会のことといい、最近は感覚が鈍っているような気がする。気を付けなければ。
屋敷に入ると、使用人たちが応接間にティーカップを用意した。
ルーファス様と向かい合うようにして、ソファーの上に腰を下ろす。
当然叔父と叔母も同席していたが、ルーファス様の方はといえば従者を一人連れているだけだった。
寡黙そうな従者は、ルーファス様が座るソファーの後ろで微動だにせず控えている。
「この度は突然の話で、さぞかし困惑させてしまったでしょう。だからまずは、私の方からあなたを訪ね、こうして話をさせてもらいたかったんです」
ルーファス様は、どこか緊張した面持ちで最初にそう言った。
正式な良家の顔合わせではなく、まずは私の意向を聞きたいというところなのだろうか。
貴族の結婚といえば、一般的には家同士の問題だ。
形だけでもこうして私の意思を重要視してもらえるとは思っていなかった。
私とルーファス様は、軽く互いのことを話した。
といっても、私には探られたくないことがある。
貴族の令嬢として一般的な、当たり障りのないことを話したつもりだった。
まあ、叔父と叔母が私たちの会話を聞きながら時おり遠い目をしていたことを思うと、あまり当たり障りなくもなかったのだろう。
刺繍とピアノが苦手で乗馬が得意だということも話してしまったような気がする。
自分では、片足が不自由なわりに運動神経が良いところがアピールポイントだと思っていたが、確かに一般的には違うのかもしれない。
だからと言って、うわべだけ深窓の令嬢ぶるというのも、わざわざ会いに来てくださった相手に対して失礼というものだろう。
そんなわけで、私は猫を被ることを早々に諦めていた。
しかし、変わり者という点で、ルーファス様と私は似たもの同士らしかった。
「今は内務省に勤めています」
「内務省、ですか?」
貴族の子息が、外交官として外務省に務めたり、指揮官として軍に務めることはままある。どちらも華やかな役職だ。けれど内務省となると、警察や法曹関係の仕事ということだろうか。
若い上級貴族の男性の職業としては、あまり内容が想像つかなかった。
私の反応に気づいたのか、ルーファス様が再び唇を開く。
「ロンドン警視庁と連携を取り、その……解決が難しいとされた特殊な事件の捜査を見直すための監察官のようなことをしています」
「特殊な事件というのは?」
つい興味を惹かれて質問すると、叔父様が私を諫めるような眼差しを送ってきた。
ルーファス様は言葉を選ぶようなわずかな間の後、話始める。
「そうですね……。犯人がどうしても見つからなかったり、不可解な証拠があるにも関わらず諸々の事情で捜査が打ち切られたり……近頃は何かと物騒ですから、そういった事件も多くあるんです。都会では特に」
確かにルーファスの言う通り、ロンドンでは不可解な事件に事欠かない。
猟奇的な事件はおそらく今日もあちこちで起こり、明日のゴシップ紙を賑わせるだろう。
その何割かは魔物によるものだと私は知っているが、まさかルーファス様がそれを知る由もない。
魔物が見えるのは、私のように魔力が込められた特殊な血を引く者と、魔物自身だけだ。
ルーファス様の仕事は、おそらく単にお蔵入りした事件の再捜査を促すようなものだろう。
そして貴族でありながら警視庁に近い位置で監察官として働くからには、ある程度貴族たちの蛮行に目を光らせる役割も持っているに違いない。
実際に、地位ある者が路地裏で市民を相手に犯罪を犯したとしても、諸々の理由で正当に裁くことは難しい。
捜査を打ち切られた事件の中には、貴族の権力によりもみ消されたものもあるのだろう。
「まだ仮の役職をもらっているに過ぎませんが、私にはどうしても成し遂げたいことがあるんです」
ルーファス様はよどみなくそう言って、真っ直ぐに私を見た。
どうやらこの人も使命を負っているようだった。眼差しの強さから決意のほどが窺える。
様々な噂が囁かれていたルーファス様が、こうも正義に燃える男性だとは思わなかった。
私は敬意と好感を抱いた。
もちろん、異性としてというよりも、おそらく人にはあまり理解されないであろう使命を持つ者同士の仲間意識のようなものだ。
貴族らしくない価値観を持って貴族社会を生きるのは、なかなか骨が折れるということを、私も知っている。
「なるほど、大変なお仕事をされていらっしゃるのですね」
控えめに微笑んでそう言うと、ルーファス様は静かに唇を開いた。
「ありがとうございます。ですが、それはあなたも同じことでしょう」
「え?」
こちらをまっすぐに向けられた瞳に、何かを見抜かれているような気がした。
まさか、魔物を狩っていることを知られているわけがないのに。
私が動揺を隠しきれずにいると、ルーファス様は苦笑し、緩やかに首を振る。
「……いえ。そう捉えてくれるのは嬉しいと言っただけです。私は亡き父にも同じことを伝えて、変わり者扱いをされていので」
ルーファス様は穏やかに言葉を続けた。
何か見透かすようなことを言われたような気がするが、私の聞き間違いだったのだろうか。
何はともあれ、ルーファス様はどうやら真面目に私との縁談を進めたいと思ってくれているらしい。
その理由についてはまだわからないが、何か嫌な裏があるようにも見えなかった。
これでも勘は働く方だ。相手が良からぬ隠し事をしているか否かはわかる。
「一つ気がかりがあるとすれば、仕事の関係であまりロンドンから離れられずにいることです。もしかするとあなたに窮屈な思いをさせてしまうかもしれない」
「! ロンドンは大好きな街です! まったくもって、一向に構いませんわ」
気付けば身を乗り出してそう即答していた。ルーファス様の驚いたような顔を見て、はっと我に返る。
私がロンドンのタウンハウスで暮らしていたのは、その方が魔物の痕跡を多く見つけられるからだ。なんせ行き交う情報の量が違う。
街を歩くだけでも様々な噂話が耳に入り、街中で配られているゴシップ紙を買えば、街のどこかで毎日奇妙な事件が起こっていることもわかる。
怪奇事件の裏側には魔物が関わっていることが多い。
もしかすると、これはまたとない良いお話なのではないだろうか。
ロンドンの治安を憂いているルーファス様は、良い意味で貴族らしくなく、人として好感も抱ける人物だ。
今回の縁談を断ったとしても、叔父と叔母はまた次の縁談を私に持ってくるだろう。
私は難が多い女だが、だからこそ、縁談を断るのは容易ではない。
仮にこのお話を断り、再び違う方から縁談をいただいた時、相手がどんな人なのかはわからない。
まともな紳士であれば、悪気はなくとも私を貴族社会に閉じ込めようとするだろう。
その目を盗んで魔物狩りに精を出すようなこともできなくなる。
今度は縁談が来た時点で窓から逃げて失踪でもしなければならなくなるかもしれない。
私にはやるべきことがある。ルーファス様にもやるべきことがある。
互いに都合が良い。
私が抱える秘密を話すことはできないが、理解し合う余地はあるような気がした。
それに何より、ルーファス様はどこか貴族らしくない。
紳士的な態度ながらも、率直な物言いをする。
同じく貴族らしくない私なら、ほどよい距離感でうまくやっていけるかもしれない。
「なんだか、ルーファス様とは気が合いそうな気がしますわ」
私がぽつりと零した生意気な言葉に、叔父と叔母がはらはらとした目でこちらを見ている。
その眼差しはお願いだからあまり喋るな淑やかにしておけと雄弁に訴えかけてきていたが、杞憂というものだ。
これでも相手がどんな人物なのか見る目には長けているという自覚がある。
ルーファス様のような感情が比較的そのまま表に出るタイプには、必要以上にまともを装うよりも、本音で接した方が好感を得られやすい。
…たぶん、だけれど。
ルーファス様は急に乗り気になった私に戸惑っていたようだが、それでもほっとしたような笑みを浮かべてくれた。
「それは何よりです。もちろん、返事を急ぐ気はありません。まずは数度こうしてお話をした上で、手順を踏んで婚約をし、その後――」
「いえ、もう心を決めました。良き妻になれるよう、できる限りの努力をしましょう」
私がにっこりと微笑むと、視界の端で叔父と叔母がぽかんと口を開けたのが見えた。