3 呪いと使命
3 呪いと使命
むかしむかし。
とある村に、良い魔女が暮らしていました。
魔女はその力を使って村の人々を助け、村の皆に頼りにされていました。
しかしある日、村を災害が襲いました。
周囲の森から火が上がり、村をも飲み込もうとしていたのです。
魔女は人々を助けるためにありとあらゆる方法を試しましたが、人の身では限界がありました。
自分の無力さを嘆き悲しむ魔女に、魔物が話しかけました。
『どうか私の力を役立ててください。あなたと協力すれば私は町の人々を救うことができます。私は善良な魔物なのです』
魔女が魔物と契約を交わすと、たちまち雨が地を叩き、炎をかき消して、町は救われました。
しかしその代償として、魔女は魔物に力を与えてしまいました。
魔物は本性を現すと、人々を見境なく襲い、ついに町には誰もいなくなってしまいました。
そうして、一人残された魔女は、長い長い旅に出ることにしたのでした。
去っていった魔物を探し、自分の罪を償うために。
――徐々に薄れゆく意識の中で、私はお母様が話してくれたそんなおとぎ話を思い出していた。
笑みを含んだ柔らかい声と、愁いを帯びた少し悲しげな瞳で、母は私に魔女と魔物の物語を教えてくれた。
幸福な思い出は、目の前の血なまぐさい光景にこの上なく不釣り合いだった。
いつも優しくしてくれた母親が、いつも毅然としていた父親が、それぞれ血の海に倒れている。きっともう息をしていない。
この日、私はこれからの人生を苛烈に生きることに決めたのだ。
何者にも屈することなく。
この目を閉ざすこともなく、耳を塞ぐこともなく。
怒りと憎しみを燃やして、それでも誇りを失わずに生きていくことを誓った。
そのために使うことのできる無尽蔵の燃料は目の前にある。
悲しみを先に感じてしまったら、二度と立ち上がることができなくなる。
そう分かっていたから、幼い私は唇を噛みしめて痛みに耐え、ちぎれた右足から流れる血を両手でなんとかせき止めようとした。
努力もむなしく意識が遠ざかっていく。
次に目覚めた時――私は、不気味に光り輝く魔物の痕跡と、周囲を取り巻く炎、そして足首を締め付けるいばらを見つけた。
◆
「――お嬢様。お嬢様、しっかりしてください」
身体を揺すぶられて、私ははっと目を覚ました。
「エミリー……」
どうやら夕食を終えて自室に戻った後にうたた寝をしてしまっていたらしい。
エミリーが灯してくれたろうそくの明かりが揺れ、壁に影を落とす。
――久しぶりに昔の夢を見た。母が繰り返し話してくれたおとぎ話と、惨劇の夢を。
「うなされていたようですね」
労るような視線を向けられた。私がこの屋敷で眠りうなされるのはいつものことだ。
どんな夢を見ていたのか、エミリーにはだいたい予想が付いていることだろう。
「例の仕事はまた今度になさいますか?」
「いいえ。やるわ」
短く答えて身を起こすと、手早く義足を身に付ける。
軽く滑らかな木の内部で、簡素な歯車とバネが軋む音がした。
舞踏会の会場で水妖を退治した時に、少し乱暴に扱いすぎたかもしれない。
近々メンテナンスに行った方が良いだろう。
私はエミリーの手を借りてベッドから立ち上がり、共に寝静まった屋敷を出た。
屋敷の外にある庭を抜けて森の方へと向かう。
頭上で木々がざわめき、夏の終わりの香りが鼻をかすめた。
夜空を旋回するコウモリ達を眺めてから、隣に視線を映す。
エミリーの金色の前髪が温い夜風にそよそよと揺れていた。
幼い頃、その絹糸のような前髪に触りたくて、急に手を伸ばしてみたことを思い出す。
あの頃からエミリーの美しさは変わっていない。
経たはずの年月を感じないことは不思議だったが、私はあえてエミリーにそのことについて聞いたことはなかった。
美しさに誇りとこだわりを持つ彼女なのだから、きっと常日頃から人一倍美容のために努力をしているのだろう。
そんな呑気なことを考える私の顔を、有能な侍女であり、幼い頃からの友人であり、秘密の共有者でもあるエミリーは静かに見つめ返した。
「忘れないでくださいね、お嬢様。私は、お嬢様のことが大好きです。だからあなたのなさりたいことを応援しますし、その源となっている怒りを尊重します。こうしてベンジャミン様の目を欺き屋敷を抜け出すことに協力することになろうとも」
普段は口数が少なく、自分の役目を全うすることに集中しているエミリーも、私と2人きりの時ならこうして軽口を叩くことがあった。
もっとも、こんな夜中に私と一緒に夜の森を歩くことになって、彼女なりに不満を感じているのかもしれない。
本当はもっと早く来るつもりだったが、叔父様と叔母様が夜更かしして明日の来客の準備をしていたので、こっそり抜け出すのが難しかったのだ。
そのうえ私がうたた寝をしていたとなれば、エミリーとしては嫌味のひとつも言いたくなるだろう。
「いつも付き合わせてしまって悪いわね、エミリー」
「いいえ。私が言いたかったのは、お嬢様が結婚した後もお嬢様をお支えしたいという気持ちは変わらないということです。だから、せめて私にだけは秘密を作らないでください。この先も」
「……そうするわ。ありがとう」
私は苦笑しながら頷いた。顔合わせも婚約もまだだというのに、気の早い話だ。
けれどエミリーなりに思うところがあったのだろう。
エミリーは、両親が生きていた頃から私の面倒を見てくれた使用人だ。
両親が亡くなってからは、今まで以上に私を気にかけよく仕えてくれた。
実のところ、私はエミリーのことを本当の姉のように思っている。
それに――エミリーはこの世でただ一人、私の秘密を知っている人物だった。
「お嬢様、手を」
「悪いわね」
義足には慣れているとはいえ、木の根がぼこぼこと張り出た地面はこの脚では歩きにくい。
エミリーは私の手を取り、支えてくれた。
「ここでいいわ」
私は少し開けた場所で足を止め、来た道を振り返った。
屋敷の全貌が見えるこの場所まで来る必要があったのだ。
エミリーは小さく頷くと、私の手を離して少し離れたところに控える。
これは私がマナーハウスに戻ってきた時に必ず行う『儀式』だった。
屋敷を視界に納めたまま目を閉じる。すると、私の目の前にはもう一つの世界が見えた。
青く光る鱗粉を纏った蝶のようなものが私の前を横切る。
これは無害な名もなき妖精たちだ。
その他にも、悪戯好きの小鬼が少し離れた位置からこちらの様子をうかがっているのが見えた。
特に害意は感じないし、たいしたことができる魔力もない。
無邪気に夜の散歩を楽しんでいる妖精と同じく、無視して構わないものだ。
これらの姿形を持たない存在は目を開けていてもぼんやりと知覚できるが、大抵は目を閉じた方がしっかりと見える。
目を開けている状態ではっきりと見えるものは、それだけ恐ろしく忌々しい存在か、あるいは強大な魔力を持つ存在だった。
幸いにしてそのどちらもここにはいない。
けれど念のために対処しておく必要があった。
足元を見下ろすと、ちょうど私がいる位置から屋敷を取り巻くように淡く光る根のようなものが張り巡らされている。
私が去年張った結界だ。
私は足元から少しずつ意識を広げ、根のように広がる地脈の中に私の魔力を少しずつ注ぎ込んだ。
それはまるで、血管に流れる血を新しく新鮮なものに取り替えていくような作業だった。
私の足元から光が広がっていった。
小鬼がぎゃっと小さく悲鳴を上げて森の奥へと帰っていく。
地脈が光を取り戻すにつれて、私の体から力が抜けていく。
額には汗が浮かび、まるで水中にいるかのように呼吸が苦しくなった。
やがて私の閉じたまぶたの下で、地脈が星空のように輝き始める。
――これで終わり。
そう判断し目を開けたその時には、倒れかけた体をエミリーに支えられていた。
「ごめんなさい、大丈夫よ」
杖に体重を預け、なんとかバランスを取り戻す。
「部屋に戻りましょう、お嬢様」
「ええ」
私は喋る気力もなく頷いた。
これでしばらくは大丈夫だろう。
弱い魔物は近付けないし、もし強い魔物が来たとしたら、結界が私にそう知らせてくれる。
なんの罪もない叔父と叔母が両親と同じような惨劇に巻き込まれることは、なんとしても避けたかった。
あの夜の惨劇は、シャンデリアの落下に巻き込まれたために起こった事故だと処理されている。
けれど私が最初に両親を目撃した時、ホールのシャンデリアは落ちていなかった。
おびただしい量の血と、冷たくなった二人を見ただけだ。
呆然としていると、後ろから獣のようなものに襲われたことを覚えている。
右脚に食いつかれて、幼かった私は意識を手放した。
当時の私は魔女の力を受け継いでいなかった。だからその時は、森からやってきた熊や狼に襲われたのかと思ったのだ。
けれど、気絶した私が次に目を覚ました時、目の前にあった両親の亡骸はシャンデリアに潰され、周囲は炎に取り巻かれて――そして、おびただしい量の不気味な光を帯びた液体のようなものが、そこらじゅうに巻き散らかされていた。
あれは特別に強い魔物が持つ魔力なのだと、私は後に知った。
私の能力は、魔女の血を引いていた母親の死によって目覚めたようだった。
そして同時に、ある呪いも継承した。
私は事件の後、屋敷にやってきた叔父に火事の中から救われた。
私は大人たちに自分が見たものを話したが、獣のようなものがいたことは誰一人信じてくれず、私の右脚もシャンデリアの落下に巻き込まれて潰されたものとされた。
今の屋敷は事件の後に綺麗に改装されたもので、もうあの惨劇の痕跡はない。
けれど今夜もきっと、悪夢を見る。
両親を殺した魔物を見つけ出すまで、私はずっとあの夜に閉じ込められたままだった。
屋敷に戻った私は、エミリーをいったん下がらせた後、トランクの中から一冊の手帳を取り出した。
母が生前書き溜めていたもので、表紙をめくったところに『愛しいベラへ。どうか、あなたがこれを不要とする人生を歩みますように』と短い走り書きがしてある。
記憶の中の母は少し不器用な人で、詩や手紙を書く才能には欠けていた。
洒落た言葉よりも率直な感情表現を好んでいたからだ。
一人娘の私をとても愛してくれていたが、謎の多い女性でもあった。
足首にいばらのような模様の不思議な痣があったことを覚えている。
そう、今の私と同じように。
時折、母は特定の従者一人だけを連れてひっそりと出掛けることがあった。
行き先は誰も知らなかったし、私も教えてもらえることはなかった。
一度だけ、普段は穏やかな父と口論しているところを見たことがある。
父は母になんでも話してほしいと懇願し、母は悲しそうな顔で首を横に振っていた。
ドアの隙間からそれを見ていた私は、複雑な思いに駆られた。
両親は、子供の目から見ても普段から互いを信頼し合っているのがわかるような人たちだったからだ。
翌日の二人はいつも通りだった。
だから私は、どんなに仲の良い夫婦であろうと時折ぶつかり合うこともあるのだろうと幼心に理解した。
私が母の秘密を知ったのは、亡くなった後のことだった。
鍵付きのトランクから、母が書きためていた大量の手帳と、いくつかの奇妙な道具が見つかったのだ。
鍵は、私が以前誕生日プレゼントとしてもらった小物入れの中に隠されていた。
だからこの中身を知っているのは、私とエミリーだけだ。
『魔物』の狩り方について事細かに記された手帳の他には、ナイフや銃まで入っていた。
そして私への手紙も。
自分の身に万が一のことがあった時を想定して、あらかじめ残してあったものらしい。
そう、母は常に万が一のことを想定していた。いや、せざるを得ないようなことをしていたのだ。
それが一体何なのかは、手紙の中で明かされていた。
「男爵家に嫁いだ令嬢が、実は魔物狩り専門のハンターだった……なんて。こんな荒唐無稽な話、正直に話したとしても、確かにお父様は信じてくれなかったかもしれないわね。妄想だと思われてもおかしくないわ」
万が一信じてくれたとしても、父は母が危険に身を投じることを許すような性格ではなかった。
もし真実を知れば、きっと自分の身を呈して止めただろう。
母が亡くなってから、私には奇妙なものが見えるようになった。そして――
ネグリジェに着替えた私はベッドに腰掛け、右足の義足を外した。
そしてもう一方の足を引き寄せ、くるぶしのあたりを見る。
そこには母と同じ茨の痣があった。
母が遺した手帳の中にあった記述によると、これは魔女の魂との呪いを引き継いだ証らしい。
魔女の魂は、その持ち主に魔物たちを見せ、悪しき者を遠ざける力を与える。
魂の持ち主が死ぬと、魔女の魂は自分の血を受け継いだ次代の者に移るのだそうだ。
つまり母と私は、昔話のあの魔女の血を引き継いでいる。
母は没落しかけた貴族の出で、女性が短命の家系だった。
どの時点で魔女の血が混じったのかはわからないが、魔女の血と魂は現代まで脈々と受け継がれ、私のところまでやってきたというわけだった。
そして魔女の魂の持ち主は、自分の意思とは関わらず魔物を狩り続ける役目を『呪い』と共に引き受けることになる。
「お嬢様。まだ起きていらっしゃいますか?」
ふいにドアの外から声をかけられた。
「エミリー。今日はもう大丈夫よ」
「はい。……ですが、眠られる前に一度足首を確かめさせてください」
どうやら私のことを心配して来てくれたようだった。
侍女としてではなく、私の友達としての訪問だ。それなら断る理由はない。
入るよう促すと、エミリーはこちらにやってきて私の足元にしゃがみ、いばらの痣を確かめる。
そして物憂げな表情で眉根を寄せた。
「……以前よりつぼみが膨らんでいるような気がします」
「そんなに変わっていないわ。まだ大丈夫よ」
エミリーは私と一緒に母の手帳を読み、すべてを信じてくれていた。
この花が咲いた時、私は魔女の魂に食らい尽くされて死ぬことになる……らしい。
それを防ぐには、邪悪な魔物を狩って、つぼみを眠らせ続けなければならない。
これも母の手帳に書かれていたことだった。
これは呪いだ。
魔物に騙されたおとぎ話の魔女が、自分の死後も、魂を引き継いだ人間に目的を遂行させるために残した呪い。
この呪いは不気味で難儀なものだが、私にとっては好都合でもあった。
幸いなことに、魔女の魂と私の目的は綺麗に合致しているからだ。
両親を殺したのは、ほぼ確実に魔物だ。
両親の死を目撃し、私自身も片足を奪われた時の記憶はおぼろげで、すぐに気を失ってしまったせいか魔物の姿も覚えていない。
けれど次に血の海で目を覚ました時、魔女の魂を受け継いだ私には、禍々しい魔力の痕跡がはっきりと見えた。
力の強い魔物ほど鮮やかな魔力を持ち、その痕跡をいたるところに残していくものなのだと、後に私は知ったのだ。
魔女の魂は、私に特別な力を与えることで、私の復讐に加担してくれる。
「念のため、早めにロンドンに戻る必要があるかもしれませんね」
「結婚しようが破談になろうが、どうせシーズンにはロンドンに帰れるわ」
深刻そうな顔をしているエミリーに、私はあえて軽い口調でそう言った。
魔物はたいてい不吉な場所にいる。
幽霊譚がある場所や、奇怪な事故があった場所などだ。
幸いロンドンはこの手の場所に事欠かなかった。
ロンドンでエミリーと暮らしていた時は、二人でそういった場所に出向き、魔物を狩ることでつぼみを眠らせていたのだった。
不自由な足でできることは限られているが、銃やナイフに魔力を込め、適切に扱う術を覚えてからは、なんとかうまくやっていた。
魔女の力がある限り、魔物も容易く私には手を出せなかった。
もっとも、それは運良く大物に出会ったことがないということでもある。
魔物にはいくつか分類があり、邪悪で強大な力を持つ魔物になればなるほど対処が難しくなる。
母の手帳には、魔物の種類やその対処法などもこと細かに書かれていた。
両親を殺した魔物は、きっと私が今まで狩った魔物よりももっと強い魔物だ。
いつかは対峙しなければならない。
その時までに、私もこの力の使い方を熟知しておかなくてはならなかった。
私の頭は常に魔物のことでいっぱいで、普通の貴族令嬢らしいことを考える暇はなかった。
伯爵家のルーファス様が私を見初めたと言っている舞踏会だって、参加したきっかけは私の相手を見繕おうとした叔母の勧めだったが、私が積極的に参加した理由はといえば、会場がいわくつきの屋敷だったからだ。
会場となった屋敷の庭の池で、子供たちが数回溺れかけたらしいという噂を事前に聞いていた。
溺れかけた子供達は決まって『何かに脚を引っ張られた』と言うのだそうだ。
貴族たちの会話を盛り上げるための他愛ないゴシップとして、社交の場で何度か話題になっていた。
とはいえ、その場の誰も本気にしておらず、藻か何かが足にひっかかったのだろうと考えているらしかった。
実際に魔物の気配を感じることのできる私を覗いては。
舞踏会当日、こっそり会場のホールを抜け出して見に行ってみたところ、そこにはヒキガエルをさらに薄くのばしたような奇妙な姿の水魔がいた。
水魔といえば、馬の姿をしたケルピーや、翼を持つカエルのような姿をしたウォーター・リーパーが有名だ。
けれどそこにいたのは、まだあまり力を持たない名無しの水魔だった。
伝説や怪談の中で伝えられてきたような名前のある魔物とは、そうそう出会うことはない。
元々強い魔力を持つ魔物もいるが、たいていは人を繰り返し襲い血を得ることで魔力を増し、はっきりと姿形が見える名前持ちの魔物になる。
幸いあの水魔はそこまでには至っておらず、たいした力もなかったので、非力な令嬢を装って水魔の住処である池から引き離し、魔女の魔力を込めたナイフで退治した。
その後私は何食わぬ顔で馬車に乗り、エミリーと共に会場をあとにしたのだった。
……そういえば。
私はふと思い出す。あの時、屋敷を去る寸前に妙な視線を感じたような気がする。
あの時、ほんの一瞬だけ、魔物の魔力を感じたような気がした。
あれはきっとただの気のせいだった。
あそこに他にも魔物がいたというのなら、私が感知できないはずがない。
もし私に対して正体を隠すことができる魔物がいるとしたら、それは今まで出会ったことのないほどに力が強く賢い魔物だということだ。
例えば、魔女の力を持っていた母に気づかれず屋敷まで到達し、両親を殺すことができるような。
「お嬢様、どうかいたしましたか?」
「なんでもないわ」
心配そうにこちらを覗き込んだエミリーにそう返し、背筋に走った寒気を振り払う。
さすがに考えすぎだろう。
「さあ、エミリー。あなたももう寝なくちゃ」
なおも私のくるぶしを心配そうに眺めているエミリーに、部屋を出るよう促した。
長年私の侍女兼姉代わりをしているせいか、エミリーはやや過保護なきらいがある。
「明日は朝から私の準備に付き合ってくれるんでしょう?」
「……そうですね。明日はいつも以上に気合いを入れて身支度をさせていただきます」
エミリーは心配を振り切るように立ち上がり、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
絹のような金髪がさらりと揺れた。その瞬間、ふと昔の記憶が蘇る。
屋敷を抜けてどこかに向かう母の傍らには、いつも金髪の従者がいた。あまり覚えていないが、雰囲気がどこかエミリーに似てはいなかっただろうか。
「エミリー、あの……今さらこんなことを聞くのも妙な話だけど、あなたのお兄様かお父様も、昔うちに仕えてくれていたことがある?」
「……いいえ。私に兄はいませんし、父は故郷にいます」
エミリーが表情を変えないまま言う。
「急にどうかしましたか?」
「いいえ。何でもないわ」
自分でも、どうして急にこんなことが気になってしまったのかわからなかった。
久しぶりにこの力を受け継いだ時のことを思い出してしまったからかもしれない。
私はエミリーとあらためておやすみの挨拶を交わし、明日に備えることにした。
結婚にさして興味はないが、義務から逃げられるわけでもない。
伯爵家との結婚ともなれば、クレイヴン家にとってこの上なく良い縁談だろう。
叔父はああ言ってくれていたが、私の選択肢はほぼないに等しい。
わざわざ変わり者として噂されている私に求婚してくるくらいだから、向こうも相手に困っているのだろう。
とんでもなく変な趣味を持っているのかもしれないし、とんでもない暴君なのかもしれない。
どちらであったとしても、私にとってはどうでもいい。
私が気になっていることはただひとつ。
夫となる人間が、私にあまり興味を持たずにいてくれるかどうかだった。




