21 いつか幸せな未来へ
――数日後。
僕は書斎で資料をまとめながら、ベラのことについて思いを馳せていた。
昨夜、ベラにきちんと想いを打ち明けてから、まるで自分が思春期の少年になったような心地だった。
ベラに話した通り、彼女は僕の憧れだった。
実際に会ってみると、小柄で可愛らしい印象なのに、背筋を伸ばして臆せず堂々と振る舞うさまが素敵だった。
憧れはたちまち恋に変わった。
初めて笑顔を見た時には、まともにその目を見られなかった。
彼女にその自覚はないようだが、悪戯っぽくきらめく瞳も、きゅっと口角が上がった唇も、すべてが魅力的だった。
いや、きっと僕は一番に彼女の内面に惹かれている。
もっと知りたいと際限なく願ってしまう。
そして知り尽くした日が来たとしても、きっと彼女から目を離すことができる日は訪れないだろう。
……だからこそ、これからいつ終わるともしれない生殺しの日々が続くと思うとたまらない気持ちになった。
「はぁ……」
我ながら情けないため息を吐くと、デスクに両肘をついて頭を抱える。
彼女は子供ができることを恐れている。
自分の魔女の呪いが子供に引き継がれる可能性を考えてのことだ。
僕自身も、今まで数ある結婚話を断ってきたのは、自分が人狼の血を引いているという懸念があったからだ。
子供もこの特性を持って生まれ、もしかすると人とは違う自分に悩むことがあるかもしれない。
それでも、ベラと一緒なら幸せな家庭が築けるような気がした。
あの夜以来、僕はどうにか彼女の呪いを解く方法はないかと、ずっとその方法を探している。
つまりこれは、ベラと僕の明るい未来のためであり、ほんの少しの下心も混じった必死の努力だった。
――そろそろベラの顔が見たい。
幸い作業も一段落した。
まだ昼に差し掛かったばかりだから、この後はゆっくりとベラと一緒に過ごすことにしよう。
僕はペンを置いて伸びをすると、控えていた従者のジャックにベラの元に行くことを告げ、部屋を出た。
廊下に出てすぐ、エミリーを見つける。
「やあ」
軽く声をかけると、エミリーは静かな瞳を僕に向けた。
「ごきげんようルーファス様。最近はベラ様と仲睦まじく過ごしておられるそうですね」
なぜだろう。
向けられた笑みにどこか冷ややかさを感じる。
エミリーから向けられる嫌悪の表情は、僕が魔物の血を引いているがゆえのことかもしれない。
彼女と何度か話して知ったが、妖精たちは魔物を自分たちよりも野蛮な存在だと認識しているらしい。
僕に言わせれば、どちらも魔力を糧に生きる種族で、分類もあやふやなものだと思うのだが……。
エミリーは不穏な笑みを崩さぬまま言葉を続けた。
「一つ忠告をしておきましょう。ベラ様を無闇に危険な目に遭わせたり、悲しませたりしたら、いくら無力な私と言えどなんらかの手段に訴えて必ず離婚させます。必ずです」
――妻の侍女が怖い。
いや、心から妻のことを想ってくれている良い侍女だ。
僕はすぐにそう思い直す。
だが油断したらいつか刺されそうな予感を常に感じていた。
これは本当に僕が魔物の血を引いているからか?
思えば出会ったばかりの頃からそこはかとなく僕に対する風当たりが強かったような気もする。
当初は僕の正体がばれていなかったはずなのに。
ベラとエミリーの間には家族のような絆がある。
それを思えば、僕はもっと彼女に認めてもらうための努力をするべきなのかもしれない。
「約束するよ。ベラのことは必ず僕が守る。今回は危険な目に遭わせたが、もう二度と同じ思いはさせないと誓う」
何か事件が起きた時はもちろん、私生活でもこの誓いを守るつもりだった。
ベラは強い女性だ。
しかし強いがゆえに、人知れず折れてしまうような儚さを感じた。
もし叶うことならば、僕はそんな彼女の支えになりたい。
エミリーの冷たい眼差しを受け止めて伝えたその時、廊下の向こうから一人のメイドがこちらに駆け寄ってきた。
「あっ、エミリーさん! 今日のベラ様のおやつについてなんですけど――」
「やあルーシー。元気そうだな」
声をかけられてから、ようやく僕の存在に気付いたらしい。
「ひっ、男!」
彼女は僕を見る度にこの反応だった。
リャナンシーは今やベラから『ルーシー』という名前を与えられ、キッチンメイドとして女性の使用人が多い部署で働いてくれている。
ここにいるのは、彼女が得た魔力を使い果たすまでのことだ。
儀式によって与えられた性質が消えるまで。
働きぶりはよく、先輩使用人にも可愛がられていると聞いた。
だが、一連の事件を通してすっかり男性恐怖症になってしまったらしく、男を見ただけで怯えてしまうのだった。
オリー自身も、あのクラブに集まっていた者たちも男だったのだから、それは無理もないのかもしれない。
問題は、僕にまで怯えているらしいということだった。
「大丈夫ですよ、この男は忌々しことにベラ様しか眼中にありません。芸術の才能もおそらく皆無なので怯える必要はありません」
「今僕のことを『この男』と言ったか?」
反射的に怯え失礼なことを口走ってしまうルーシーと違い、エミリーは確信的だ。
僕の指摘にも、『それがなにか?』と言いたげに片眉を上げてみせるだけだった。
ベラとエミリーの間にあるのは、家族のような絆……のはずなのだが、なんだかライバル視されているような気がするのは気のせいだろうか。
そういえば、ベラの母君に仕えていた時は男の姿を取っていたと聞いたような――
僕の思考がまとまる前に、ルーシーが口を開いた。
「エミリーさんがそう言うのなら……。でもベラ様は大丈夫なんですか? この人、怖い狼ですけど……。ベラ様をぱくって食べちゃいませんか? あたし心配です」
「大丈夫だよ。ベラと契約を交わしている以上害することはできないし、今は人と変わりないだろう?」
「…………」
ルーシーは無言でエミリーの後ろに隠れてしまった。
信用してもらうにはまだしばらくかかりそうだ。
「失礼をしては駄目ですよ、ルーシー。まがりなりにもこの方は旦那様です。まがりなりにも」
まったく他人のことは言えないはずのエミリーが、背後のルーシーを注意する。
「今、2回言う必要はあったか?」
「……ベラ様の付属品と言った方がよかったでしょうか」
「まがりなりにも旦那様の方で頼む」
妻が周囲から愛されているのは嬉しいが、少々愛されすぎではないだろうか。
どう2人を安心させようか考えていると、ベラがドアを開けて廊下に出てくるのが見えた。
今の僕にとっては救いの女神だ。
「ベラ!」
「ルーファス」
弾んだ声で名前を呼ぶと、僕の名前を静かに口にしてくれた。
これだけで呆気なく浮かれてしまいそうな心のうちを、僕はなんとか覆い隠す。
彼女の前では、なるべく余裕のある紳士でいたい。
「今日はこれから一緒に休憩しないか? 庭でティータイムでも」
僕の誘いに、ベラは微笑んでこちらに歩み寄った。
「ティータイムも良いけど、その前に手合わせをお願いしたいわ」
「手合わせ……?」
淑女然とした格好をした今のベラから発せられると、なんとなく違和感のある単語だった。
けれどこちらを見上げる悪戯っぽい瞳は、魔物を前にした時と同じ、強い意思に輝いている。
「あなた、かなり運動が得意よね? この間の身のこなし、私も身に付けてみたいの。こんなこと、あなたにしか頼めなくて」
「……僕にしか、か。そうだろうな」
さっきの腹いせに、ちらりとエミリーに視線を向ける。
悔しそうな視線に少しだけ溜飲が下がった。
「駄目かしら。忙しい?」
僕とエミリーのやりとりにも気づかず、ベラがわずかに首を傾げる。
「駄目じゃない。行こうか、ベラ」
おずおずと見上げられてしまえば、従うことしかできない。
この可愛らしく愛しい妻に、僕は首輪をつけられているのだから。
◆
「そのハンカチは?」
「グレイスがくれたの。助けてくれたお礼にって」
私の手元を見て訪ねたルーファスに、私はそう答えた。
手合わせを終えてから、着替えを済ませた私とルーファスは庭でティータイムを楽しんでいた。
穏やかな日差しと花の香りが、身体を動かしたあとのけだるさを包み込んでくれる。
繊細な刺繍がなされたハンカチを見て、向かいに座ったルーファスが目を細める。
「彼女はもう店に出られるくらいに回復したのか。よかった」
「ええ。オリーの悪行も新聞で知ったみたいだけど、今はもう悲しみを乗り越えたみたい」
私は手元の美しい刺繍に視線を落とす。
今朝レディバード・ベルベッドに行き、グレイスと会った時にもらったものだ。
この刺繍は、悲しみから立ち直るために刺したものだと聞いた。
グレイスは刺繍を仕上げながら、どんなことを考えていたのだろう。
少なくとも、オリーのように富と名声なんてもののことは考えていなかったはずだ。
無名のお針子であっても、痛みから逃げずに何かを表現しようとするその姿勢は、オリーよりよほど芸術家の称号に値するかもしれない。
後でルーシーとエミリーにもこの刺繍を見せてあげよう。
意外にもエミリーは、この屋敷に突然やってきたルーシーと意気投合している。
美しいものが好きな者同士、何か通じるところがあるのかもしれない。
「……ところで、ベラ。ここしばらく、君の呪いについて考えていたんだが……」
ルーファスがそう切り出した。
「君の呪いは、魔女が特定の魔物に騙されたことに端を発してる。それなら、その魔物を探し出して消し去ればきっと呪いも解ける。そう思わないか?」
私はティーカップを口元に運ぶ手を止めた。
ルーファスの言葉を反芻する。
「確かに、発端を考えればそうかもしれないわね。もうどのくらい昔かもわからない話よ。その魔物が生きているとも限らない」
「そうだな。でも、死んでいたとしても、この世に存在していないとは言い切れないんじゃないか? 血筋を通じて、魔女の魂と呪いが君に受け継がれているように」
ルーファスの推測は、あながちありえないとも言えなかった。
もしこの呪いを解く方法があるのなら、それは私にとっての希望だ。
でも――。
ふいに胸を覆った不安に、私は視線を落とした。
「ベラ?」
「もし、呪いが解ける日が来たとしたら……私は、どんな風に生きればいいのかしら」
ぽつりと零れた言葉を耳で聞いてはじめて、自分の本心を自覚する。
両親が死んでから今まで、『普通の生き方』を意識的に遠ざけてきた。
魔物を狩ることを使命として、その他のことは頭から追い出した。
そうしないと正気を保って生きていくことができないような気がしたからだ。
でも、いざ呪いから解き放たれ、使命がなくなったそのときは、きっと途方に暮れてしまう。
他の生き方を知らないから。
呪いとこんなに奇妙な共生関係を結んでいたなんて、今この時まで自分でも気が付かなかった。
ルーファスはふっと息をつき、テーブルの上の私の手に自分の手を重ねた。
その温もりにはっとする。
「君はきっと、君自身の運命に順応しすぎた。でもいつか自由になったその時は、きっと今とは違う未来が見えるはずだ。僕も君の側で全力を尽くすよ。いつか、君が呪いを断ち切って、幸せな未来を信じられるように。願わくばその時は、善良な魔物と人間が協力し合う世界が築けているといい」
ルーファスの言葉は、まるで暗闇の中に投げかけられた一筋の光のように思えた。
――これは私に初めて与えられた動機だった。
両親の復讐のためや、呪いの進行を止めるために戦うのではなく。
自分の運命に打ち勝って、未来にたどり着くために戦うなんて。
ただ穏やかに生きるという、ささやかでいて、これ以上ないほどの幸せを掴むことが、私にもできるのだろうか。
「……ありがとう」
こみ上げる涙の理由を、私はまだはっきりと自覚できていない。
けれど未来の幸せの断片は、私の手に重ねられた温もりの中に、確かに存在しているように思えたのだった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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