2 突然の縁談
思ってもみない話が舞い込んできたのは、舞踏会から数週間後のことだった。
「これはまたとない縁談だ!」
明るい声で言って両手をぱんと合わせたのは、私――イザベラ・クレイブンの叔父である、ベンジャミン・クレイブン男爵だ。
「わかっているね、ベラ」
さきほどから目の前を行ったり来たりしているベンジャミン叔父様が、私の機嫌を取るように愛称で呼ぶ。
隣に視線を向けると、ローズマリー叔母様がソファに座る私に微笑んで頷いた。
二人の趣味により品良く調えられた居間には、眠くなるほど穏やかな陽の光が射し込んでいた。
かといって、真剣な話をしている最中に眠りこけるわけにはいかない。
私はなんとかこの退屈な話を乗り切ろうと、膝の上で重ねた手にこっそり力を込めた。
お洒落好きな侍女が選んでくれた、淡いブルーに銀の刺繍が施されているドレスの膝にほんのり皺が寄ったのを見て、慌てて離す。
彼女は優しく穏やかな人だが、私が自分の身だしなみを乱すような行いをすると無言で批難じみた眼差しを送ってくるのだ。
窓の外には午後の昼下がりの光景が広がっていた。
私が生まれ育ったこの場所、フェーンベリーは、ロンドンから汽車で2時間ほどの距離にある、自然豊かな土地だ。
両親はすでに亡くなり、家督とこの広々としたマナーハウスは叔父が継いでいる。
私は普段訳あって侍女と一緒にロンドンのタウンハウスで暮らしているのだが、叔父様から大切な話があると言われ、社交シーズンの終わりに合わせてこうして里帰りをしている次第だった。
大切な話というのはもちろんこの縁談のことで、明日には私に婚約を申し出たもの好きな殿方が訪ねてくるらしい。
叔父様たちがあらためてこうして私に念押ししているのは、私があまりにも普段通りに過ごしているからだろう。
年頃の娘なら浮足立ってもいいはずなのに、と不安に思っているに違いない。
「もちろん、とても有り難いお話だということは承知しておりますわ、叔父様。今回私を見初めてくださったのは、ルーファス・ブラッドワース伯爵でしたね。私のような難のある者を気に入ってくださるなんて、光栄の限りです。いったいどんな殿方なのでしょう」
「ほ、本当に喜んでいるのか? どうも言葉に棘があるような気がするのだが……」
つい本音がにじみ出てしまったが、この困惑したような反応を見る限り、私は普段叔父様たちの前で上手く淑女のふりが出来ているらしかった。
ルーファス様といえば、ちょうど1年前ごろに爵位を継いだ若き伯爵だ。
美しい方だと令嬢たちが噂しているのを聞いたことがある。
彼は先日の舞踏会で私を見かけたらしい。
申し訳ないのだが私はさっぱり覚えていない。
叔母の強い勧めで結婚相手探しの舞踏会に出席したことは覚えているが、私はあくまでも魔物狩りのために渋々参加しただけで、舞踏会自体の印象は薄い。
叔父や叔母の顔を潰さない程度に参加者たちに挨拶をし、こっそりと目的を果たした後はダンスをすることもなくエミリーと共に帰宅したはずだった。
それに加え、私の容姿はお世辞にもひと目ぼれされるようなものではない。
少々色の主張が強い赤毛と、猫のように目尻の上がったヘーゼルの瞳は、殿方の目を奪うような優美さとも可憐さとも無縁だ。
子供の頃はやんちゃな少年のようだとよくからかわれていた。
自分では気に入っているので卑屈になっているわけではない。
ただ、相手の内面を知りもせずに惹かれるようなうっかりさんに気に入られるタイプではないことは確かだろう。
つまり、私はなぜこんな婚約話を持ちかけられたのか全く理解できていなかった。
伯爵家が明らかに釣り合わない相手に縁談を持ちかけるなんて、怪しい話だ。
けれど叔父は立場上断ることもできないだろう。
いずれ縁談について話があるだろうと覚悟もしていた。
そんなわけで私は大人しく明日を迎えるつもりでいるが、元より結婚にはあまり興味がない。
それよりも、私にはやるべき使命がある。
縁談を受け入れることはやむを得ないことだと考えてはいるものの、一般的な令嬢のように心が浮き立つことはなかった。
叔父は私の反応を見て溜息を吐く。
「お前が結婚にあまり興味がないことについては承知している。だがやはり、私はお前に立派な女性として幸せな家庭を築いてほしいのだ」
この言葉が、叔父の善性をこれでもかというほど表していた。
本来、貴族同士の結婚は家の存続と繁栄を目的としたものだ。私の幸せなんて二の次になって当然であり、叔父は反抗的な姪を諫めるべきなのだ。
叔父は優しく、敬虔で、他人を尊重し、慈善事業にも精を出している。昨今紳士の間で流行っていると聞く不道徳なクラブで羽目を外すようなこともない。
模範的な英国紳士だ。
だから私は、この叔父が少々苦手だった。私は模範的な淑女とは言いがたいから。
「それに……今まではお前のことを尊重して口出しをしていなかったが、伯爵家に嫁げば、窮屈なタウンハウスで侍女とこぢんまり暮らす必要もなくなるぞ」
叔父が言っているタウンハウスとは、私が今ロンドンに借りているごくごく小さな家だ。
男爵家の所有物件ではあるが、叔父がシーズン中に使うタウンハウスとは雲泥の差がある。
少し広めのアパートと言ってもいいだろう。
それでも、私には居心地良く、目的に適した家だった。
私は社交界デビューを果たした16歳の時を境に、相当の無理を言ってそこに住まわせてもらっている。
叔父も初めは反対していたが、幼い頃に負った怪我が原因で義足を使用している私にとって、わざわざロンドンから主治医を呼び寄せなくともすぐに病院にかかれる環境はありがたいものなのだと説得し、了承してもらったのだ。
「いいえ、他ならぬ私自身が望んでしていたことですから。私は、叶うことならこれからもロンドンのタウンハウスでひっそりと暮らしたいのです。たとえここではなくとも、広い屋敷にいると……10年前のことを、思い出してしまいそうで」
それは本音だった。
ここには嫌な思い出がある。両親の命が消された場所だ。
そして当時の幼なかった私自身も、大きな代償を払った。
10年経った今でもまざまざと思い出せる。暗闇で揺れる蝋燭と、鉄のような匂い。
そして――禍々しい魔力の残滓。
未婚の淑女がタウンハウスで侍女と二人暮らしをするなどという奇妙なわがままが通ったのは、この事件があったせいでもある。
「イザベラ」
ローズマリー叔母さんがそっとこちらに身を乗り出し、膝の上に置いていた私の手を取る。
哀れな子供を見るような目だ。
私は背筋を伸ばしてなんとか凜と見えるよう試みてみたが、まったく無駄なようだった。
背が低いからかもしれない。
幼い頃は背が高くかっこいい淑女に憧れていた者として、この低めの身長だけは唯一自分の容姿で気に入らない点だった。
「あんなに辛い出来事を経験したんだもの。その気持ちはわかるわ。傷が癒えるまで、私たちもあなたにできるだけのことをしたいと思っているの。今回の縁談もそう」
叔母様に関しては、正直どういった人なのか私はまだ把握できていない。
けれど叔父様と仲睦まじく過ごしているところを見る限り、叔母様の言葉も本心からのように聞こえた。
私は深窓の令嬢と違って、貴族社会の闇もそれなりに見てきている。
なので、2人のこの善良な振る舞いは、私にとってかえって毒だった。
二人は、怪事件に巻き込まれ両親を失った私が、今も悲しみ傷ついているのだと思っている。
けれど、まだ悲しみはやってきていない。
あの夜からずっと、私の胸に燃えているのは怒りと復讐心だけだ。
それ以外の感情はまるで薄いシルクの布を隔てて見えるシルエットのようにぼんやりしていて、うまく掴めない。
でもきっとそれで良いのだと思う。
年相応の喜びも悲しみも、きっと私の目的の前には不要なものだから。
「確かに伯爵家からの申し出となれば断ることは容易ではないでしょう。けれど、私たちはあくまでもあなたの幸せを第一に考えたいと思っているわ」
「ありがとうございます、叔母様。そんな風に言っていただけて私は幸せ者ですね。でも、心配ありません。明日ルーファス様にお会いできる時を、今から楽しみにしています」
良い子のふりは得意だった。本当は違うのだから、申し訳なさを押し殺すのには苦労する。
せめてこの話はよっぽどのことがない限り受け入れることにしよう。
この婚約を断ったところで、叔父夫妻に子供がいない現状を鑑みれば、いずれ誰かと結婚をして子孫を残すよう強いられるだろうから。
私の旦那様になる方は、欺きやすい方だろうか。
あまり私には構わないでいてくれるだろうか。
本音を言えば、放蕩な方であってほしい。
家のことはすべて私に任せ、愛人と戯れ、細かいことには気づかないでほしい。
そう、例えば、妻が夜な夜な危険な仕事に精を出していることなどには。