19 契約のキス
腕を掴まれ、部屋の奥のドアへと引きずるようにして連れて行かれる。
オリーはドアを開け、部屋の中へと私の背中を押した。
勢い余って床に膝を付き、その姿勢のまま顔を上げると――そこには、まるで宗教画のように神秘的な世界が広がっていた。
――いや、これはただの錯覚だ。
背後のドアが閉められた音に、私はやっとはっと我に返る。
がらんとした、冷たく広い部屋の中に、鉄格子の牢がある。
まるで大きな鳥籠のようだった。
部屋に入った瞬間、私が奇妙な錯覚に陥ったのは、その牢の中で膝をかかえ、ぽつんと座っている少女のせいだった。
髪も肌も、この世の者とは思えないほど透き通っている。
長い睫毛に縁取られた濡れた瞳だけが、石榴石のような深い赤色をしていた。
――これは、人じゃない。
美しく清らかな容姿とは裏腹に、その全身に赤く禍々しい魔力を纏っていた。
グレイスとオリーにまとわりついていたものと同質だ。
おそらく、あのレッドキャップはこの魔力の恩恵を受けてその力を増していた。
私と一緒に部屋に入ってきたオリーは、鉄格子の側へと歩み寄った。
「ああ、可哀想に。ずいぶんお腹を空かせてしまいましたね」
少女の機嫌を取るように柔らかだった声が、ふいに暗く固くなる。
「まったく、あの贄が逃げるからこんなことに……」
少女が目を伏せて何かを呟く。
けれどその声は小さく細く、私には何を言っているのかわからなかった。
「リャナンシー。俺の女神。そんなことは言わないでください」
恍惚とした表情でオリーが言う。
『リャナンシー』。
それは、母の手帳にも記されていた魔物の名だ。
芸術を好み、人間にインスピレーションを与える代わりに生気を奪う。
有名な魔物は、それだけ強大な力を持っている。
けれどリャナンシーに関しては、気に入った対象と一種の共生関係を築く魔物だ。
具体的にどんな恐ろしさを持っているのかは、実際にリャナンシーに魅入られた者しかわからない。
母の手帳にも、断片的な記録だけしか残っていなかった。
「上で行われている儀式の時間に合わせてこの供物を捌きますね。それまでうるさいとは思いますが、この妙な従者の格好をした妙な女と一緒にいてください。俺は準備をしてきますから」
オリーは私をまた無理やり引き立たせ、牢の鍵を開けると、私を少女の側へと突き飛ばした。
そのまま素早く鍵をかけ、こちらに見向きもせずドアを出て行く。
……このままではまずい。
『準備』を済ませたら、オリーはまたここに戻ってくる。
私は少女の様子を見つつ距離を取った。
ズボンの下、靴下留めのベルトに隠すようにして魔力を通したナイフを持ってきているが、両手を縛られている今は取ることができない。
私はいちかばちか、義足に渾身の魔力を込め始めた。
この『女神』に、私がどこまで通用するのかわからないが、これで蹴れば怯ませることくらいはできるだろう。
神経を張り詰めさせてリャナンシーの様子をうかがっていると――
「……めんなさい」
「え……?」
その双眸からたちまち真珠のような涙が溢れ、頬のなだらかな線を辿り、薔薇色の唇を濡らした。
「ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさい! 全部あたしが悪いの。あなたがここに連れて来られたのもあたしのせい」
少女が私の足元へとすがりつく。
「お願い。あたしを殺して」
――いったいどういうことなのだろう。
思わず呆気に取られた私に焦れたように、リャナンシーはなおも言葉を重ねた。
「お願い。早く。早く殺してよ。きっとすぐにオリーが戻ってくる。お願い! もう嫌、嫌なの! 血を見るのは嫌。何の罪もない人間を捧げられるのも嫌……」
「……あなたは、どうしてオリーに閉じ込められているの?」
相手が魔物であっても、こうして言葉を交わせる以上、言われるままに命を奪うわけにはいかない。
オリーが帰ってくるまでそう時間がないとはいえ、話を聞くべきだろう。
私はその細い肩に軽く手を置いて、涙をこぼす少女と目を合わせた。
やがて少しだけ落ち着いたのか、リャナンシーがぽつぽつと話始めた。
「初めは、彼の描いた絵に惹かれて来たの。彼は売れない絵描きだったけど、あたしはその絵が好きだった。だから、一度だけ……気の迷いから、あたしは彼にも見えるように姿を見せた。きっと、元から神にもすがる思いだったんでしょうね。人間はあたしたちのことを伝説上の存在としか思ってないはずなのに、オリーは最初からあたしをリャナンシーだと見抜いたの」
薔薇色の唇を噛み、リャナンシーは言葉を続けた。
「それ以来、オリーはあたしをここに閉じ込めて、どうにか自分のもとに縛り付けようとした。贄を捧げる儀式を行って、町の女の子たちを犠牲にして……あたしと一方的に契約を結んでる。魔力もこんなに……」
リャナンシーは自らの震える小さな両手に視線を落とした。
「契約のせいで無理やりこんなに増幅されて、勝手に私の魔力がオリーに流れ込んでいく。あたしは贄なんていらないのに」
固く握られた両の手が、かすかに震えている。
魔力が増幅されているからこそ、人間と同じように肉体を持ち、結果牢から出られなくなってしまったということだろうか。
それなら、オリーは彼女をここに留めておくため、これからも贄を捧げ続けるつもりなのだろう。
私はエミリーから聞いた契約についての知識を思い出した。
誤った契約は一方的で、搾取的なもの。互いを破滅へと導く。
「確認のために聞くけれど……一連の事件はオリーが一人でやったことで、あなたが望んだことではないのね?」
私の言葉に、リャナンシーが頷く。
「あたしはこんな残酷なことはしないわ。リャナンシーにも色々いるけど……あたしは素敵な絵を描く人からほんの少しの精気を吸って、眠くさせるだけでいいの。芸術家は寝食を忘れがちだから、そうすればお互いに助かるでしょう? あたしは、美しいものを生み出してくれる人間たちを害したくない」
つまり、彼女は元々善良な魔物らしい。
彼女を殺せば、もしかすると一連の事件は一時的に止むのかもしれない。
『贄』の捧げられ方がどういったものかわからないが、それは彼女が自分のことを殺してくれと懇願するくらいに残酷なものなのだろう。
彼女の鮮やかな唇の色は、もしかすると被害者の女性たちの血の色なのかもしれない。
恐ろしい想像にぞっとするけれど、リャナンシーが言っていたことが本当ならこれは彼女の罪じゃない。
それに、オリーが他の『女神』を見つけ、信奉して、贄を捧げようとしたら?
そうすればまた同じことが繰り返される。
それに何より――私は、この哀れな魔物を殺したくはなかった。
その時、アトリエに続くドアから大きな物音が聞こえてきた。
「なんだお前は!」
オリーの悲鳴じみた声と、何かを殴打するような音が聞こえてくる。
リャナンシーが怯えたように身を竦ませた。
すぐにドアが開き、長身の影が現われる。
「ルーファス!」
「ベラ、無事か!? 待っていろ、今鍵を探す。たぶんこいつが持ってるはずだ」
どうやら異変に気付いて私を探しに来てくれたらしい。
私の側にいるリャナンシーに気づき、はっとする。
「その子も贄として連れ去られたのか? ――いや、違うな」
彼女が人間ではないことに気付いた様子で、険しい表情をしながら足早にこちらに歩み寄る。
「ベラ、離れろ」
「大丈夫よ、この子は私に危害を加えようとはしていない」
安心させようとしたその時、ルーファスの背後でオリーが立ち上がるのが見えた。
「ルーファス、気をつけて!」
「くそっ、なんなんだお前は。そこの従者の格好をした女といい、今夜は俺を邪魔する奴が多すぎる」
苛立たしげに言って、オリーはパレットナイフらしきものをルーファスに向かって構えた。
それに合わせるようにして、周囲の壁に飛び散った魔力から、ずるりと魔物たちが現われる。
私の叫びに、ルーファスは弾かれたように後ろを向いた。魔物たちがルーファスへと襲いかかる。
「くっ……!」
ルーファスの目が一瞬にして金色に変わった。爪が伸び、その唇から牙が覗く。
ルーファスの爪で薙ぐような動きに、実体化していない魔物たちは一瞬霧散するが、すぐにまた曖昧な形を作ってルーファスにまとわりついた。
「くっ、鬱陶しい」
一部の魔物が周囲に満ちた魔力を吸収し、実体化する。
そのほとんどはレッドキャップだった。魔物の中でも、特に血を好み、残忍な性質を持つ。
それらの間から、パレットナイフを握ったオリーがふらふらと進み出る。
異形たちの姿はオリーにも見えているはずなのに、あの夜とは違って夢見るような表情だった。
「見ろ! 女神が俺を守ってくれてるんだ! そうか、あの時に見てしまったのは、この精霊だったのか。お前たちは女神とその精霊たちによってここで裁きを受けるんだ!」
「違う! それはあなたが冒した罪に引き寄せられた魔物たちよ。もうやめて」
リャナンシーが悲痛な声でそう叫ぶ。
ここにレッドキャップがいるのは想定内だ。
それに実体化していればルーファスは物理的に攻撃できる。
牢の中に閉じ込められたままでは加勢できないのが歯がゆいが、もしこれだけならルーファス一人でも心配なかっただろう。
問題は、それを取り巻くように現われた名もなき魔物たちだった。
彼らもオリーの『贄』や儀式に引き寄せられてやってきたのだろう。
大した魔力は持たないが、まとわりついて人の動きを鈍らせることくらいはできる。
魔物たちがルーファスに飛びかかり、抑え込もうとするのが見えた。
そしてその隙を狙ったように、オリーがナイフを繰り出す。
「っ……!」
ルーファスは反射的に腕を振るおうとして、すんでのところでそれを抑えナイフを避ける。
むやみに反撃すれば殺してしまうと判断してのことだろう。
そして身を翻すと、オリーの背後に回り、腕を交差させるようにしてその首を締め上げた。
「気絶してろ」
いつもよりも荒っぽい口調でそう言って、気を失ったオリーの体を床に投げる。
ほっとしたのも束の間で、再び魔物たちに取り囲まれたルーファスの動きが鈍った。
今度はレッドキャップがルーファスに迫り、斧を振り上げる。
「……!」
ルーファスは床を転がってなんとかその一撃を避けたが、わずかに避け切れなかったようだ。
その頬から血が一筋流れるのが見えた。
「気を付けて、ルーファス。レッドキャップの他にもたくさんいるわ」
「実体化してない奴らのことがよく見えない。もう少し月の光が浴びられればどうにかなるんだが」
ルーファスがあたりを警戒しながら言う。
――魔力が足りないのね。
この場を乗り切るためにできることが、ひとつだけある。
けれど、エミリーが話してくれていた『正しい契約』を、果たして私たちは結べるだろうか。
「大丈夫だ」
ルーファスの言葉にはっと顔を上げる。
「僕が必ず君を無事に帰す。何があっても」
きっと、私の沈黙を不安から来たものだと思ったのだろう。
その瞳に諦めは微塵も浮かんでいない。
……それなら……。
「ルーファス、あなたは私のことを想ってくれている?」
「え!? あ、ああ、そうだな……。もちろんだ」
ルーファスはこんな状況にも関わらずそわそわと落ち着きなく視線を泳がせた後、視線を合わせて頷いた。
「じゃあ問題ないわね」
ルーファスは今、何の保証もないのに、私を必ず無事に帰すと言った。
その善性を、私のような捻くれた人間も信じてみたくなった。
それに――私も、この人を無事に帰したい。
互いに互いを想うのならば、きっと契約も正しく為されるはず。
「ルーファス。隙を見て、もっとこっちに来て」
「どうかしたのか? 何か作戦が――」
ルーファスが警戒を解かないまま牢の方へと近づく。
私は縛られた手を前にまわし、鉄格子の隙間から差し出してルーファスのシャツの胸元を掴んだ。
「!?」
そのまま引き寄せ、鉄格子越しに私の唇でルーファスの唇を塞ぐ。
血をはじめとした体液の交換で契約が成り立つのなら、キスでも問題ないだろう。
唇を離すと、驚いたような瞳と視線が合った。
「契約をしましょう。この窮地を乗り切って、私を助けて」
「まったく、君は……本当に予想が付かないことをするな」
眉根を寄せたルーファスの頬が、わずかに赤く染まっている。
「嫌だったかしら」
「嫌じゃない!」
私の言葉が終わる前に即座に否定された。
「……すぐに済ませる。待ってろ」
次の瞬間、溢れ出す魔力の奔流に溺れてしまいそうになる。
思わず目を瞑り、そして次に開けると――鉄格子の向こうには、ゆうに人の背を越える大きさの美しい黒い狼がそこにいた。
「もしかして――ルーファス……?」
『ああ。おかげでなんとかなりそうだ』
黒狼が低く答える。
つややかな毛並みと、満月のような黄金の目をしていた。
「綺麗……」
無意識のうちにそんな呟きが零れる。
不思議と恐怖はなかった。
幼い頃に私の足を食いちぎった魔物を思い出しても良さそうなものなのに。
私を守ってくれる存在なのだと、本能でそう理解できた。
黒狼が吠え、魔物たちに牙を剥いて飛びかかる。
そのたびに金色の魔力がはじけ、魔物たちはそれに溶かされるようにして消えていった。
そして、私にも同じ質の魔力が流れ込んでくるのがわかった。
……今なら普段はできないことができるかもしれない。
私は目を閉じ集中した。いつもは金属を魔力の媒介にしていたが、魔力をそのまま固めて刃にするようなイメージを浮かべる。そして牢の外へとそれを放つ。
残った魔物たちが、甲高い断末魔を上げて霧散していった。
◆
ほどなくして全てが終わった。
ルーファスはまだ気絶している画家のポケットを鼻先で探り、鍵を取ると、こちらに渡してくれた。
私はさっきの要領で魔力の刃を出し、縛られた手首のロープを切ると、鍵を開けて牢から出る。
そして湧き上がる衝動に従い、こちらに優しい眼差しを向けている大きな犬――もとい、黒狼の美しい毛並みを撫でた。
「助かったわ。ありがとう。良い子ね」
『……中身が僕だと言うことを忘れていないか?』
ふさふさの毛並みを堪能する私に、ルーファスが不満そうな声で言う。
「半分くらい忘れていたわ。元には戻れる? さすがにこの姿でロンドンに帰ることはできないわよね」
『試してみる』
狼が金色の目を閉じる。
すると一瞬その姿が光に包まれ、次の瞬間には元通りいつものルーファスの姿へと変わっていた。
ルーファスはアトリエにあったロープを持ってくると、気絶しているオリーを手早く縛り上げる。
そして私の方へと歩み寄った。
「……ありがとう。君のおかげだ」
「いいえ、あなたが私を探しに来てくれたおかげよ。危うく供物になって解体されるところだったわ」
口に出すと改めてぞっとする話だ。
ふいにルーファスが私の頬に触れる。
「君の姿が見つからなかった時、肝が冷えた」
じっと間近でこちらを見つめる瞳に居心地が悪くなり、私は思わず視線を逸らした。
「ごめんなさい。勝手な行動をした私のミスよ。協力関係を築いたばかりなのに、足を引っ張ってしまったわ。でも、もうこんなことはしない」
「本当に?」
「ええ。私は今まで何かと理由をつけてあなたへの警戒を保とうとしてきた。今まで、魔物は私にとって敵でしかなかったから……魔物の血を引くあなたのことを心から信用するのは、正しくない気がして」
「そうだろうな。君を騙すつもりはないことを改めて伝えておくが、君の過去を考えればその気持ちも理解できる」
ルーファスは少し苦い表情で言った。
「……でも、今はあなたを信用することに決めた。しばらく一緒に過ごして、あなたの人となりを知った上で決めたつもりよ」
「ベラ……」
「契約もしてしまったことだし、これからもよろしくね」
「……ああ」
微笑んでくれたルーファスにほっとする。
次の瞬間、ふっとルーファスの顔が近づいたような気がした。
けれどルーファスは一瞬何かをぐっと堪えるような表情をして、私から一歩遠ざかる。
「市警に連絡をしよう。礼拝堂にいる奴らにも事情を聞かなければ」
「ええ、そうね」
一体何をしようとしていたのか気になるけれど、今はそれどころじゃない。
今後のことについて考えていると――
「ねえ、待って」
震えた声に振り返る。
リャナンシーが、いまだ怯えたような目で私たちを見ていた。
「行ってしまう前にあたしを殺して。あたしはずっとそうしてくれる人を待ってたの。あたしはもうこんな目に遭いたくない。人間をあんな目にも遭わせたくない。だから――」
オリーの牢から出ることができてもなお、彼女は罪悪感に縛られているようだった。
――ここで行われていたことは、果たして彼女の罪なのだろうか。
人を供物として捧げられ、拒否することも許されなかった。
これはきっと、人間の罪だ。
人を騙して食い物にする魔物もいれば、魔物を利用しようとする恐ろしい人間もいる。
人間に恩を感じて側を離れない妖精もいれば、魔物と人間の血を引き両者の橋渡しになろうとしている人狼もいるように。
私は懇願する少女の前にしゃがんだ。そしてその涙を拭う。
伸ばした指にさえ、少女はびくりと身を震わせた。
「……殺さないわ。でも、あなたが警戒すべき魔物だということに変わりないかもしれない。その力は貴重なものだし――何よりあなたは、人間を供物として与えられてその膨大な魔力を得た。自ら望んだことじゃないにしろね。だから……」
少女の大きな瞳が、私の真意を測るように不安そうにこちらを見つめ返してくる。
「あなたに、提案があるの」
続けて告げた私の言葉に、リャナンシーは驚いたように目を見開いた。




