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18 贄

 イザベラと別れた僕は、男に案内され修道院の奥へと足を踏み入れた。

 一人残して来た彼女のことは心配だが、今はとりあえず修道院の中と参加者たちのことを探るべきなのだろう。

 回廊の両脇には絵画が飾られていた。

 どこからか甘い香りが漂ってくる。


「入り口の方にあるのが初期の作品だ。奥に行くにつれて、最新のものになっている」


 男の説明を聞きながら、額縁に納まった絵画を1枚ずつ見ていく。

 初期の作品は、聖書の一部をモチーフにしたものが多かった。

 中期には印象派に影響を受けたような作風で、ざっくりとしたタッチで牧歌的な光景が描かれている。

 聖書を読む少女とあくびをしている猫を1枚に捉えた絵を見つけ、思わず微笑んだ。

 ――けれど。


 回廊を奥へと進むにつれて、次第に様子が変わってくる。

 ザクロと少女がモチーフとなった絵が増えてきた。

 礼拝堂までたどり着くと、中央に置かれた祭壇の上に、ひときわ大きなキャンバスが飾られていた。


 暗い背景を基調とし、わずかな光に浮かび上がる少女の姿と、その白い指先に支えられたザクロが、繊細かつ写実的なタッチで描かれている。

 艶やかなザクロの粒が少女の手元から零れ、赤い果汁があたりを濡らしていた。

 何かを言いたげな、物憂げな顔でこちらを見ている。

 うるんだ瞳には、悲しみや哀れみが窺えた。

 どこか官能的で背徳的だ。ずっと見つめているのが憚られるような。


 ふいに、ざわり、と肌が粟立つ。

 体の奥深くにある、魔物の部分をくすぐられているような、そんな感覚に襲われた。

 あたりに漂う甘酸っぱい芳香が、一瞬血の匂いを帯びたような気がした。


「素晴らしいだろう?」


 男の声に、僕ははっと我に返った。

 キャンバスを立てかけたイーゼルの足元、祭壇の上に、いくつものザクロが転がっている。

 ――甘酸っぱい香りの正体はこれだったのか。


「この少女はいつも我々に問いかけてくれる。己が信じる芸術とは何かとな。早く新作が見たいものだ」

「……そうですね。ここで待っていることしかできないのがもどかしいくらいです」

「いいや。我々にもできることがある。オリーが人の身を越えた素晴らしい絵画を生み出せるよう、祈りを捧げるのだ」


 男は祭壇の傍らに用意されたテーブルへと手を伸ばした。

 そこには数枚の白い皿と、装飾のついた銀のナイフが置かれている。

 男はナイフを手に取ると、おもむろに祭壇の上のザクロへと突き立てた。

 まるで、ザクロを何かに見立てているように。

 むせかえるような甘い匂いが濃くなる。


「儀式についてももう聞いているだろう? 君も祭壇にザクロを捧げるといい。あの少女のためにな」


 ――これは、何か良くない儀式の真似事だ。

 祭壇を濡らしていく赤い果汁に、嫌な予感が募った。

 儀式の真似事であっても、それは魔物にとって特別な意味を成す。


 僕はイザベラのように実体化していない魔物をはっきりと目視することはできない。

 視覚は人間に近いのだろう。

 その代わり、人狼の特性として鼻がよく利いた。

 ザクロの香りに混じり、何か違うものの匂いを感じる。


 ――下からだ。


 またぞわりと鳥肌が立つ。

 この下に何かがあるのか……?

 その時、参加者たちの話し声が聞こえてきた。


「オリーは今朝からアトリエにこもりきりのようだな」

「ああ。地下にこもって酒を飲みながら仕上げをしてるはずだ。彼は今神経質になってるだろうから、裏口には近寄らないでおこう。我々はただ待つのみだ」


 ――アトリエが、この地下に?

 てっきり別の場所にあるのかと思っていた。


 では、この匂いの出所は……。


 酩酊が一気に引いていく。ここは危険だ。

 イザベラは今どこにいるのだろう。

 彼女の性格からいって、大人しく僕の帰りを待っているとは思えない。

 自分にできる範囲でこの施設を探ろうとするだろう。

 彼女と別行動をしたのは間違いだったかもしれない。


「失礼、急用を思い出しました」


 僕は焦りを押し隠してそう伝えると、足早に礼拝堂を抜けて修道院の外へと出た。

 

 ◆


 ぐらぐらと揺れるような気持ち悪さに、私は目を覚ました。

 両手を縛られ、誰かに担ぎ上げられている。


「や、めて……。やめなさい」


 なんとか掠れた声を絞り出す。


「もう目を覚ましてしまったのかい? 面倒だなぁ」


 どさりとその場に降ろされた。

 ひんやりとした床に頬を打ち、意識が完全に覚醒する。

 どうやらここは地下室らしい。私はなんとか身を起こし、周囲を見回した。

 暗く窓がない。私の背後にひとつと、奥にひとつドアがある。

 あちこちに絵の具が飛び散り、沢山のキャンバスが立てかけられていた。


 ――違う。


 すぐに視界がおかしいと気づき、目を閉じる。

 絵の具と思っていたそれは、魔力の痕跡だった。

 血のように赤い、不吉な魔力。

 レッドキャップが取り込んでいたものと同じだった。

 目を開けると、部屋の隅にくしゃくしゃになった布を見つけた。


 あれは……女性のドレス?


 赤いものに塗れている。魔力でも絵の具でもないそれに、私は吐き気を堪えた。


「今夜の贄には逃げられてしまってね。……ちなみに、あれは前の贄だ。もう古くなって何にも使えない」


 私の視線の先に気付いたオリーは、薄笑いを浮かべてそう言った。


「喋るまで気づかなかったけど、お前、女なんだな。ちょうどいい。今夜はお前を贄にするか」


 ……レッドキャップは人の血を欲し、事件現場を好んで自らの住処にすると言われている。

 あの夜見た異様な魔力をまとったレッドキャップは、ここに住み付き、オリーについてロンドンまでやってきたのだろう。


 オリー自身はあくまでも普通の人間のようだ。

 実体化していないレッドキャップを目視することもできないだろう。

 グレイスと逢い引きをしていたあの日、レッドキャップが充分な力を蓄えこの男の前で姿を見せたことについては、もしかすると全くの偶然だったのかもしれない。


 オリーはただ、なんらかの理由で女性たちを『贄』にし、その凶行のおこぼれに預かるためレッドキャップがオリーの周囲をうろつくようになった、ということだろうか。


 そう考えれば辻褄は合うけれど――少しの違和感がある。


 この部屋の至る所に付着した魔力は、すべて血の匂いに惹かれてやってきたレッドキャップのものなのだろうか。

 それに、オリーが『贄』を捧げている存在は、一体……。


 いずれにせよ、私もこのままではこの部屋に染みついた匂いの一部になってしまう。

 ルーファスはこの部屋の存在に気づいてくれるだろうか。

 私はせめて時間稼ぎをしようと、乾いた喉につばを送り込んで唇を開いた。


「どうしてこんなことをするの? あなたは画家として成功を収めているのに。自分でだいなしにすることはないわ」

「ああ?」


 その瞬間、穏やかな口調を保っていたオリーの様子が一変した。

 けれどすぐに、取り繕うような歪んだ笑みを浮かべる。


「画家としての成功とはなんだと思う?」

「……自分も他人も満たせるような絵を描いて、十分な金銭を得ることかしら。それとも、名声を得ること?」

「成功の条件としてはそのどれも必要だよ。満足する絵が描けなくなれば心が死ぬ。金銭が稼げなくなれば体が死ぬ。名声が伴わなければ依頼が舞い込まない」

「大変な仕事ね」

「わかったような口を利くな」


 ふいに強い口調で遮られて、怯みそうになる。

 会話を引き伸ばす必要はあるけれど、下手に刺激しない方がいいかもしれない。


「重要なのは、成功のための条件はどれも、絵を描く手を休めればたちまち失われるってことだ。それくらいはお前もわかるだろ」

「……ええ。でも、それなら余計に贄を捧げるなんてもったいないんじゃないかしら。その時間を作業に使えば――」


 上滑りする言葉でどうにか時間稼ぎをしようと試みると、オリーは逆上したように側に立てかけられていたキャンバスを蹴り倒した。


「いくら時間があっても描けなきゃしょうがないって言ってるだろ!」


 両手で頭をかきむしり、オリーの整えられていた髪がぐしゃぐしゃになる。


「クソみたいな絵しか描けなくて、でもどうにか生きていかなきゃいけなくて、コーヒーハウスで適当なこと言って暇な道楽貴族にすがるように出資を頼む日々だ。俺はますます落ちぶれたよ」


 彼の瞳が妙な熱を宿す。乱れた前髪の奥で、その双眸がぎらぎらと光っていた。


「そんな中、俺は『彼女』に出会ったんだ。彼女はまさに俺の芸術の女神だった。彼女のおかげで俺の筆は息を吹き返して、貴族たちも俺の才能の前にひれ伏した」


 オリーは恍惚とした表情で目を閉じ、その時のことを思い返しているようだった。


「今のこの生活を失うなんて耐えられない。だから――俺は女神のために贄を捧げ続けないといけないんだ」


 ……この人は、追い詰められた末に空想上の女神を盲信してしまったのだろうか。


「女神なんていないわ。贄を捧げる必要なんてないのよ」


 ふらり、と男がこちらに視線を戻す。


「へえ、なら見せてやるよ。お前が今からその身を捧げる神の姿をな」

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