14 芸術の女神
「ライリー。一つ聞きたいことがある」
帰り際、ルーファスはそう話を切り出した。
「お前は若手の芸術家や作家が集うコーヒーハウスに行ったことがあると言っていたな」
コーヒーハウスというのは、確か紳士たちの社交場のひとつだ。
普通人々は身分によって集う場所が違うが、コーヒーハウスにおいては、身分のくくりはなく、男性であれば誰でも出入りできる珍しい場所のようだった。
女である私はもちろん入ったことはないが、才能を持つ者同士が議論に花を咲かせる活気に溢れた場所だと聞いている。
「ああ、知り合いに連れて行かれて、何度かな。あそこの連中は身分も何も気にしないと聞いていたが、お高くとまった連中ばっかりで窮屈な場所だった。今は近寄りもしないさ」
「お前はそこでオリーと名乗る画家に出会わなかったか?」
「オリー?」
ライリーは記憶をたどるように目を細めた。
「ああ、思い出した! そいつなら1,2年ほど前に何度か会ったことがあるよ。初めて会った時は、気取った他の連中と違って、手に絵の具をつけたまま、ボロボロの服を着て店の隅にいたな。こんな時間があるなら制作にあてたいって愚痴ってた。あいつだけはなかなか面白い奴だと思ったんだが……」
「その男は今やコーヒーハウスの常連だ。社交界との繋がりもある」
「ちょっと待って。そのオリーという男性は誰のこと?」
私はつい会話を遮ってそう聞いた。
「おそらく昨夜グレイスと一緒にいただろう男の名前だ。長髪をくくった男だっただろう?」
「ええ、その通りよ。でもどうしてわかるの? あなたが来た時にはもうあの男はいなかったはずよ」
実体化したレッドキャップを前にして、グレイスを置いて逃げていくさまを私も見ている。
「以前、店の前で何度かグレイスと彼が親しそうに話しているのを見たんだ。昨日も彼と会う約束をしていると聞いていた」
「……そうだったの」
「オリーは新進気鋭の若手画家で、近頃紳士たちの間で評判になり始めてる。気に入った町娘をミューズと呼び、自分の絵のモデルにしていると聞いていた」
グレイスが着飾っていたのは、そのオリーという画家のためだったということだ。
この後ある人と会う予定があるのだと話していた時の、紅潮した頬を思い出す。
「今はグレイスがそのオリーのミューズかもしれないというわけね」
ミューズというのは、芸術の女神という意味だろう。
古くから芸術家は自分の感性や才能は芸術の女神が、あるいは芸術の魔物が担っていると考えている。
それは信仰のようなもので、まさか実在していると考えているわけではなく、芸術家らしい口説き文句としても使われる。
「芸術家には女たらしも多いと聞くが、ヤツもそうだったとはな。以前はそんな風にはとても見えなかったんだが、最近は派手に遊んでるなんて噂も聞いたよ」
残念そうに言うライリーに、ルーファスが頷く。
「だが、ただ派手に遊んでいるだけならまだいい。最近、オリーが過去モデルにしていた女性が失踪したんだ」
「失踪?」
それは穏やかではない話だ。
自然と、昨夜見たオリーを取り巻く禍々しい魔力、そして力を増幅させられたレッドキャップのことを思い出す。
「ライリー。オリーの近況について何か知らないか?」
「……そうだな。特に親しいわけでもないし、あいつが今どうしてるかは知らないが――ああ、そうだ。そういえば、数か月前に知り合いがオリーを通じてとあるクラブに誘われたらしい。何でも、オリーとそのパトロンの貴族が集まって、芸術の崇高さを称える交流の場だとか」
「なるほど。クラブの名前は知っているか?」
「確か、『女神の楽園』だったっけな。言っておくが、場所は知らねえぜ。クラブってのは、選ばれた者だけが出入りできる社交の場なんだろ? 『女神の楽園』の集いがある場所も、参加者以外には隠されてるって聞くぜ。俺はよく知らねえが」
ライリーの言葉に、ルーファスはどこか苦い顔をした。
「どうかしたの?」
「クラブは通常、こころざしや趣味を同じくする貴族たちが集まる場だ。だが……クラブとは名ばかりで、道理に外れたうさんくさいことをやる連中もいる。特に、集会場所を隠すクラブは、公には言えないような目的で集まっていることもあるな」
「確かに、たちの悪いクラブの噂も聞いたことがあるけど…『女神の楽園』も、その類のクラブだっていうこと?」
「たぶんな」
私もクラブについては詳しくない。
たいてい女性は出入りできないようになっているからだ。
「最近貴族の間でオカルト趣味が流行っているのを君も知っているだろう? とんでもないものになると、ルシファーこそが真の神だと主張して、怪しい儀式を行っているようなクラブもあるらしい。降霊術を使って死者と交信することを目的としているクラブも過去にあった。もちろん、ただのごっこ遊びのようなものがほとんどだが」
「それが本当だとしたら、あまり良くないことよね。……道徳的な観点以外からも」
魔物は人間の心の隙に付け入る。
ただの遊びであっても、それを利用して本物の魔物が接触してくるようなことだってあるのだ。
「グレイスにも話を聞いてみましょう。もしかしたら、また彼と会う約束をしているかもしれないわ」
「そうだな。日が暮れる前にレディバード・ベルベットを訪ねてみよう」
私とルーファスは小さくうなずいた。
「いったい何の相談か聞いた方がいいか? 面倒ごとには関わりたくないんだが」
見ると、ライリーが棚に寄りかかり、呆れた表情でこちらを見ながらカップを傾けていた。
「あ……ごめんなさい。お邪魔しておきながらおいてけぼりにするのは失礼だったわね」
「謝る必要はないよ、ベラ」
ライリーが何かを言う前に、ルーファスが唇を開く。
「こいつは自分の技術を試すこと以外に興味がないんだ。今のは言葉通り、このまま聞けば面倒ごとに巻き込まれる予感がしたから会話を止めたってとこだろう。な?」
ルーファスに話を向けられて、ライリーが肩をすくめた。
「心配しなくても、お前を巻き込むことはしないさ」
「くれぐれも頼むぜ。ただし、俺の技術で力になれることがあるなら別だ。また義足を診てほしい時は遠慮なく、マダム」
ライリーがおどけた様子でぎこちなく形式ばったお辞儀をする。
「よろしく頼むわね」
私もスカートを軽くつまんで膝を折り、お返しの礼をした。
ふとルーファスの視線を感じて振り返ると、彼はむっとしたような表情をしていた。
「……」
「どうかしたの?」
「いや。自分の中のつまらない感情とどう折り合いをつけるべきか考えてる」
なぜかにやにやとした笑みを浮かべたライリーの背を、ルーファスが軽くこぶしでたたく。
彼らの関係は、幼馴染といったところだろうか。
今の立場は違えど、互いに心を許しあっている様子に、自然と笑みが浮かんだ。
「それじゃあライリー、失礼するよ」
「ああ。2人とも、またゆっくり紅茶でも飲みに来いよ」
気の良い笑みに見送られて、私たちはライリーの工房を後にした。
階段を上り、再び路地に出る。
これだけでいつもの義足との違いを感じた。
「杖はつかなくて大丈夫なのか?」
「平気よ。もとからあまり使わなくても済んでいるけど、この義足は本当に歩きやすいの」
自分の足で歩けるのなら、杖はただ邪魔なだけだ。
弾むような足どりで歩いているとふいにガクンと足が沈んだ。
「……!」
私が転んでしまう前に、ルーファスが抱きとめてくれる。
「いくら高性能でも、慣れは必要だ」
「……そのようね。はしゃぎすぎたわ」
今さら恥ずかしさに襲われて、私は目を伏せた。
「僕の腕に捕まるといい。夫婦なのだから、エスコートしてもおかしくないだろう?」
少し不機嫌そうな声は、どうやら照れているせいらしい。
「そうね。ありがとう」
私はルーファスの腕に自分の手を預けた。
隣を歩くルーファスはどこかほっとしたような、それでいて嬉しそうな顔をしている。
今日は朝から乗馬用品を得て、新しい義足まで用意してもらった私がそんな顔をするなら理解できるが、なぜルーファスが上機嫌なのかはよくわからない。
彼の正体を知った今は、もっと警戒すべきだとわかっているのに、こうして普通に過ごしていると忘れてしまいそうになる。
――いけない。気を引き締めないと。
私は軽く頭を振って、昨夜からの出来事を整理した。
あのレッドキャップは、確実にあの男が纏う魔力に影響されて強くなっていた。
私が魔力を込めた銃では敵わないほどに。
魔物が魔力を増す要因はいくつかあるが、そのひとつに、昨夜ルーファスやエミリーから詳しく聞いた『魔女との契約』があるらしい。
もっとも、実際の魔女はもちろん、私のように魔女の魂を宿す人間もそうそういないだろうし、普通の人間が成せるものかどうかはわからない。
エミリーの話によると、どちらかの意思を無視し、儀式的な手順をもって成立させる一方的で誤った契約というものもあるらしい。もしかするとそちらならただの人間でもできるのかもしれない。
しかしあの男がレッドキャップと契約を交わしているのだとしたら、実体化されたレッドキャップを見て、情けない悲鳴をあげて逃げたのは違和感があるような気がする。
まあ、普通の人間が魔物を直視するような機会はそうそうないので、オカルトマニアの集いで軽い気持ちで契約の手順を試したところ、想像していたよりも恐ろしかったから逃げた、ということもありそうではあるが。
そしてもう一つの可能性として、あの男自体が魔物であることも考えた。
だが、そうであるならば、自分よりもはるかに弱いであろうレッドキャップを見て怯えるのも、またおかしな話だった。
なんにせよあのオリーという画家についてもっと調べる必要を感じる。
「あなたはオリーという画家に詳しいみたいだけど、芸術に興味があるの?」
馬車へと歩きながら、ルーファスに問いかける。
「いや、さっき彼の元ミューズが失踪したと言っただろう? 彼女は当初なんらかの事件に巻き込まれたとされていた。オリーも最初は嘆いていたようだが、数日経つと、『夜遊びが激しい女性で、ほかの画家に浮気をして別の街に行ったのだ』と根拠のないことを言うようになったらしい。警察もそれを鵜呑みにしてろくに調査をしていないそうだ」
「……酷い話ね。それで、未解決の事件としてあなたが捜査に介入することになったの?」
「そういうことだ。もっとも、僕が勝手に処分されそうになってた資料を漁っただけだけどな」
眉間に皺を寄せてルーファスが言う。
私は足を止め、彼を見上げた。
「でも……理不尽なことだけど、この程度の事件は他にもあるでしょう」
「そうだな」
「これに魔物が関係していると、あなたがそう考えた理由は?」
図星だったらしく、ルーファスが一瞬言葉に詰まる。
そしてますます険しい顔で、話始めた。
「――3人目だったらしい」
「え?」
「オリーの『ミューズ』が失踪するのがだ。こんなこと偶然だと言えるか? しかも、オリー本人は女性たちの失踪が繰り返されるたびに、さらに生き生きと良い作品を作り出すそうだ」
それはまた、不気味な噂の種になりそうな奇妙な話だった。
「新進気鋭の画家として注目を浴びていると言ったが、この本人の様子を見て気味悪がる人も多いらしい。社交の場で、僕は数人の人物からこの噂のことを聞いたんだ。なにせ僕は、内務省に妙な部署を作ろうとしているほどの怪奇事件マニアだと、一部にそう誤解されているからな」
「……3人も失踪しているとなると、多いわね。さすがに」
ルーファスが貴族社会において不穏な立ち位置に置かれているらしいことについては、あえて触れないことにした。
本人は不本意そうだが、情報収集においては有利に働きそうな立ち位置ではある。
「そこで詳しく調べてみると、オリーは毎回身寄りのいない女性をミューズとして選び、自分のアトリエに誘うことが多かったようだ。失踪しても目立たない女性を選んでいたようにも見える。そう知って以来、それとなくオリーの動向を探っているうちに、あの店のグレイスにたどり着いたというわけだ」
「そうだったのね」
どうやら、結婚式の準備の裏でルーファスはこの事件を追っていたらしい。
いつも忙しそうにしていたことに納得がいった。
「……あなたと手を組んで正解だったかも」
私一人で調べていたら、オリーにたどり着くまできっともっと時間がかかっていた。
「でもまだ全てを信用したわけではないわよ?」
「わかってる」
とはいえ、これはもはやただの自分に言い聞かせるための言葉だ。
でも、この魔物の血を引きながらも人の好さそうな旦那様にも釘を刺しておく必要を感じる。
「あなたも、私の全てを信用しないで。エミリーから聞いたけど、使い魔になるなんて、あなたの命を私が預かるようなものなんでしょう?」
契約の話を持ち出したのは、私の信用を買うためでもあったのだろう。
けれどそれは酷く危ういことのようにも思えた。
秘密を抱える者として、誰かれ構わず信用しすぎることはきっと弱点になる。
けれどルーファスは動揺することなく私を見つめ返した。
「君がどういう人間かは、よく知ってる」
「知り合ったばかりのはずよ」
「それは、君にとってはそうだろうが……」
なぜかルーファスの目が泳ぐ。
私はじっとルーファスを見上げ言葉の続きを待った。
「と、とにかく、早くグレイスに会いに行こう。君もそうしたいだろう?」
ルーファスは強引に話を打ち切った。
何か言いにくいことなのだろうか。
ルーファスの態度に首を傾げたけれど、確かに今はグレイスのことが気になる。
「……ええ、そうね。無事でいるといいけど」
昨夜は逃げられたはずだ。
けれど、その後狙われていないとも限らない。
日が暮れ、魔物たちの動きが活発になる前に、彼女の無事を確かめきちんと話を聞いておきたかった。
やがて乗り込んだ馬車が動き出し、私たちはレディバード・ベルベットへと向かった。




