1 魔女は暗躍する
庭園の薔薇が月明かりに照らされ、仄かに甘い香りを放っていた。
舞踏会の会場となっているホールからは、ピアノと弦楽器のゆったりとした音色が漏れ聞こえてくる。
そんな優美な光景の中、一人の令嬢が、ドレスの裾を両手で持ち上げ息を切らして庭を突っ切るように駆けていた。
赤みを帯びた長い髪を編み込んでひとつにまとめ、深い緑色をしたシフォンのドレスに細くしなやかな身体を包んでいる。
好奇心旺盛な猫を思わせる大きな瞳が、今は恐怖に見開かれていた。
庭に他の人間の姿はない。ホールの歓談の声もここには届かず、彼女はまるで無人の舞踏会が開かれた不気味な屋敷に迷い込んでしまったような心地を味わっていた。
雨上がりの庭の中、長いドレスが水気を孕んでまとわりつくのも構わずに、必死で脚を動かす。まるで、後ろから追ってくる何かから必死で逃れるように。
他人がこの光景を見たら首を傾げることだろう。
なぜなら、追跡者の姿はこの令嬢以外の目に映らないのだから。
ちらりと後ろを振り返った彼女の目には、『それ』がはっきりと見えていた。
奇妙なぬめりを帯びた魔物が、地面を這うようにして彼女の後を追っている。
その姿は、ずんぐりとした蛙のようにも、太りすぎた小人のようにも見えた。
水かきのようなものがついた四肢を素早く動かし、草花を地面になぎ倒しながら、異様な速さで彼女の方へと迫る。
魔物が手を伸ばし、令嬢の右足首を掴んだ。
「あっ……!」
細い悲鳴とともに、令嬢はがくりと地面へ膝をつく。
乱れたドレスの裾から覗いた左足首には、茨のような奇妙な文様が肌をぐるりと一周していた。
慌てて起き上がろうとするが、魔物は彼女の右足首を掴んで離さない。
魔物は令嬢の足を掴んだまま顔を寄せ、大きな口を開ける。そこにはびっしりと細かい歯が生えていた。
己の運命を悟ったように、令嬢が静かに唇を開く。
「もう、終わりね」
恐怖に震えていたはずの令嬢は、静かなヘーゼルの瞳でゆっくりと目の前の化物を見上げる。
その口元にはいつの間にか勝ち気な笑みが浮かんでいた。
「言っておくけど……終わりというのは、私じゃなくてあなたの話よ?」
令嬢は迷わずドレスをたくし上げ、魔物につかまれた右脚をあらわにする。
膝から下は木でできた人形のようになっていた。令嬢は自ら義足の金具を外す。
自由になった膝を素早く地面につけて体重を支えると、太ももに隠し持っていたナイフを一息に薙いだ。
わずかに銀色の光を帯びた刃が魔物の身体を裂く。
「罠にかかった獲物を追いかけているつもりだったのでしょうけど、今夜の獲物はあなたの方よ。残念だったわね」
庭に耳障りな断末魔が響き渡った。
不気味に濡れた体は、ナイフで切り裂かれた傷口を中心に砂漠の砂のように崩れ、風に攫われていく。奇妙な光景の後には、銀色のナイフを握った令嬢だけが残された。
「……もうここに用はないわ」
令嬢はひと仕事終えたような表情でそう呟き、脚に巻いていたベルトにナイフを仕舞う。
動きやすいよう、そして武器を隠しやすいようにスリットを仕込んだペティコートも、ボリュームたっぷりの布を使ったドレスを着てしまえば誰にも気づかれることはなかった。
次に地面に転がった義足を拾い上げ、元通りに装着する。
幼い頃から成長に合わせて改良し、もう生身の身体と同じくらいに馴染んだそれは、多少歩行に違和感はあるものの、外から見ればほとんどわからなかった。
身なりを整えながら、令嬢はホールの方から漏れてくる明かりを感じた。
今夜開かれているのは、伯爵家や公爵家も参加している由緒正しき舞踏会だ。
粗相をすればかえって目立ち、今後の行動が制限される。
さっきの一連の出来事はとりあえず誰にも見られていないようで、令嬢はほっと胸をなでおろした。
ここ数年で蒸気機関が発達し、世の中は急速に変わりつつある。
様々な発明がなされ、汽車が各地を繋ぎ、街を明るく照らし出した。
それでもいまだに古めかしい貴族社会は変わることなく、昔からこの国に存在する魔物や妖精たちもまた、闇夜に紛れて変わることなく存在していた。
その存在を知る者は、ごく少数の特殊な人間に限られる。
義足を装着して立ち上がったその時、ふいに生け垣が揺れ、令嬢ははっとして振り返る。
しかしそこにいたのは他の客ではなく、よく見知った顔だった。
「イザベラお嬢様。ご無事ですか?」
「エミリー」
エミリーと呼ばれた侍女らしき女が、さっきまでナイフを手にしていた義足の令嬢――イザベラへと歩み寄った。
「相変わらず気配を消すのが得意ね。あなたは」
「存在感がないだけですよ」
謎めいた微笑を浮かべる侍女は、今の発言が冗談だとしか思えないほど現実離れした美しさを持っていた。
両脇に植えられた薔薇の間を縫ってやってくるその姿を見ながら、イザベラは不思議な安堵を感じた。エミリーは、一見イザベラよりも数年ほど年上のように見える。けれど彼女はイザベラの母親の代から仕えてくれており、姉のように慕ってはいるけれど、実のところもっと年上だった。けれど正確な歳はイザベラも知らない。
「それよりも、お怪我は?」
「大丈夫、無事よ。無事倒した獲物ならそこに……って、もう消えちゃったわね」
エミリーは肯定も否定もせず、静かにイザベラが指さした方向へと視線を落とす。
「囮なら私をお使いください。相手を油断させるためとはいえ、お一人で相手をするのは危険です。もし怪我でもされたら……」
「私がそんなへまをすると思う?」
令嬢ならぬぞんざいな言葉使いで、イザベラは笑みを浮かべる。
その眼差しは、淑やかな令嬢のものというよりも、刃を隠し持っているようなしたたかな毒が含まれていた。
「……失礼しました。お嬢様は立派なハンターでしたものね。今夜もお母上から引き継いだ仕事を無事に全うされたようで何よりです。それで……ホールには戻られますか?」
「いいえ。この脚で踊るのはなかなか神経を使うのよ」
自分の義足を示すと、エミリーは普段イザベラが愛用している杖を取り出す。
「それでは杖をお忘れにならないように」
イザベラは、最新の技術を使用した義足を用い、ある程度身体が思い通り動かせるよう特殊な訓練を積んでいる。
よほど足元が悪い場所でなければ杖は持たずともそう支障ないが、退屈な社交の際はダンスを断る口実になる都合の良いアイテムだった。
魔物と対峙するにあたってこっそりホールに置いてきたそれを、イザベラは渋々受け取る。
「……本音を言うと、早く帰りたいの。エミリー、あなただって私がそんなものに興味がないことくらい知っているでしょう」
「そろそろ殿方に興味が出てくるお年頃なのでは?」
「残念だけどそうでもないわ。それに貴族の娘に恋は不毛よ」
イザベラの両親はとうの昔に亡くなっている。しかし後見人である叔父がそろそろ縁談を用意したがる頃だろう。
家のための結婚なら断ることもできない。貴族社会で生きるというのはそういうことだ。
それなら、恋なんて知る必要はないし、興味もない。
まして、ある呪いと使命のために魔物を狩り続けなければならない運命にある自分が、誰かと平穏な家庭を築けるとは思えなかった。
イザベラは、秘密を一人で抱え込んでいた母親のことを思い出しながら、自分の足元へと視線を落とした。
片方の脚は両親が死んだときに失くし、もう片方の脚には母親から受け継いだ茨の痣が絡みついている。
「お嬢様は相変わらずですね。現実的でいらっしゃるのは結構ですが、亡き奥様からあなたの幸せを見守るよう言われている私としては複雑な気分にならざるを得ません」
「悪いわね。でもそれを言うなら、私は今でも充分に幸せよ」
――荒唐無稽な秘密を背負いながらも、決して孤独ではないのだから。
言葉にはしなかったイザベラの思いを組んで、エミリーが諦めたように軽いため息をついた。
「……それでは帰りましょうか。門の前に馬車を待たせてあります」
「ええ、ありがとう」
イザベラは微笑み、いまだワルツが聞こえるホールの方角に背を向けて歩き出した。
けれどふと歩みを止め、はっとしたように大きな屋敷を振り返る。
バルコニーの方へと警戒するような眼差しを向けた。
「お嬢様?」
不思議そうに呼びかけられて、イザベラは緩くかぶりを振る。
「いえ……なんでもないわ。きっと気のせいね。ここにもう魔物はいないもの」
イザベラはエミリーと共に庭を出て、待たせていた馬車へと乗り込んだ。
――自分たちを見つめる視線には気づかないまま。