battle of raccoon dog
第1章 郷帰る
政務もひと段落し、隠神刑部は椅子に腰を深く掛け、ふぅと息を吐いた。窓の外には紅い月が浮かんでいる。
時計は戌の刻を回ろうとしていた。もう今日は十分働いた。隠神刑部はそう自分に言い聞かせ、仕事を上がるタイミングを測るー。
隣では政務の手伝いを頼んでいた金平狸が、頭を抱えながらそろばんを忙しく弾いている。隠神刑部は自分で仕事を頼んでおきながら、慌しくする金平狸に仕事を上がろうとはなかなか切り出せずにいた。
金平狸は同郷の出身。昔からお人よしな性格で、迷子の妖怪や年老いた妖怪を見つけると進んで助けようとする。隠神刑部も頼りにしているのだが、周りが見えなくなり突っ走ってしまうのがたまに傷だ。
『刑部様!反物が好調のようです!他国から妖怪の移住も増えて國も発展しますなぁ!』
『あはは。そ、そうか。なぁ金平狸よ、まだ明日もある、今日はもうそろそr...』
『おお〜!刑部様!輸出も黒字転換、きましたぞー!!』
全く金平狸の社畜の鏡ぶりにはほとほと参った。机に突っ伏した隠神刑部は頭の大きな丸い耳を力無く掻いた。
『あらあら、まぁまぁ。刑部様?大変お疲れになられて。ただいまお紅茶を淹れて差し上げますわ』
隠神刑部は顔を上げるとそこには色白で美しい美貌の持ち主、おさん狸がいた。余りの美しさと優しさに隠神刑部の顔がデレつく。
『うおおお〜!パチパチパチ!うおおー!おっ!おさんさん狸!僕にも紅茶を淹れておくれよ!』
『はいはい。金平狸はホント、落ち着きがないねぇ』
隠神刑部は忙しくもこの平和な妖しの堺の街と狸を守ろう、紅茶を啜りながら2人を愛おしく眺めた。
おさん狸の淹れる紅茶は絶品。疲れた身体の五臓六腑に沁み渡るようだ。
『いつもありがとうね、おさん狸、、』
『ふふっ。私は紅茶を淹れるくらいしか出来ない狸です故、、』
そんな事はないのを隠神刑部は百も承知している。彼女は自分の力や実力を必要以上に自慢したり、ひけらかす事などしないのだ。
『今宵の月もお美しいですね、少し窓を開けてみましょう』
おさん狸が政務室の窓を開けると、何やら中庭が騒がしい。隠神刑部も窓から中庭を見下ろした。
『、、、!曲者!出合え!』『捉えろ!逃がすな!』
見張りの狸達が騒いでいる。どうやら賊が侵入したようだ。
流石の金平狸もそろばんを弾く手を止め中庭を覗いた。
『ウワァ、離しやがれ!俺を誰だと、、イテテ、、!俺は隠神刑部様に文を持って来たんだよ!』
どうやら捕らえたようだが、何やら様子がおかしい。ただの賊ではないようだ。
『、、、。刑部様、中庭に降りてみましょうか?』
隠神刑部はこくりと頷くと2階の政務室の窓からフワリと飛び降りた。おさん狸も隠神刑部に続いた。金平狸はお行儀よく玄関に周り中庭に降りた。彼は文官であり、力仕事は自分の領分でない事を十分理解しているからだ。
捕らえたのは若い狸だ。元気よく暴れて警備の狸の手を振り解こうとしている。隠神刑部、金平狸、おさん狸とも見覚えがない狸だ。
『お、おい、コラ暴れるな!名前を言え!』
警護の狸が手荒く地面に押さえつけた。
『うるせえ!けっ!三下妖怪が!、、俺は松山の喜左衛門狸様からの使いで、、イテテテテ、離せよちくしょう!』
『な、何?喜左の?』
隠神刑部はハッと目を開いた。喜左衛門狸は今から約100年ほど前に松山の御家騒動で隠神刑部が四国松山を離れなければならなくなった際、松山周辺の警護と情報収集を任せていた狸の1人。松山で有事があれば知らせるようにと伝えていた。
『、、、その方、俺が隠神刑部だ。まずは名を聞こうかな?おい、離してやってくれ』
隠神刑部は警護の狸の手を離させ、屋敷に侵入した若い狸の首根っこを掴み地面に座らせてやった。
若い狸は畏まり、平伏しながら懐に手をやるとー。
『あ、貴様!暗器を、、!?』
警護の狸達は若い狸に再び組みかかろうとするが、若い狸は懐から手紙を隠神刑部の前に差し出した。隠神刑部は警護の狸達を手合図で静止させると手紙を受け取り、開いた。
紅い月の明かりを頼りに喜左衛門狸からの手紙に目を通す。辺りは静まり返っていた。
『、、、刑部様、喜左衛門狸様からは何と?』
おさん狸が、静かに口を開いた。隠神刑部は一通り目を通すと紅い月を見上げた。
『、、、松山へ帰る時が来たか』
金平狸とおさん狸は顔を合わせ目を開いた。
『いやった〜郷帰りダァ!』
金平狸は飛び上がり空中で一回転してみせ、喜んだ。ただ、おさん狸は紅い月を見上げた隠神刑部の鋭い眼光を見逃さなかった。これがただの郷帰りでない事は容易に想像出来た。