3章-1
山守高校と藤平高校の野球部練習試合から、何十日かが過ぎた頃だ。
日内康平はとぼとぼとした足取りで、とあるマンションの一室に向かっていた。
そこに付いた日内は「ガチャ」と扉を開けると
「おつかれさまです」
とマンションの部屋のボスに挨拶をした。
「おう、お疲れ。ってお前大丈夫か?」
「ええ、まあなんとか。コレを手に入れるのに思ったより骨がおれただけです」
日内がボスの男に差し出したのは、大きな封筒だった。
「これは!」
「例の現場写真です」
ボスの男は日内の言葉に目を見開き、大慌てで封筒の中身を確認した。
中から出てきたのは、まぎれも無い、三島一月の交通事故直後の現場写真だった。
「よし、これだけ証拠があれば十分だ。日内、ご苦労だったな」
上機嫌に日内を労うボスに日内はこう言った。
「松田さん。すみませんが仮眠室を貸してください」
「おう。まあゆっくり休め」
ボスこと松田の許しが出ると日内はフラフラと仮眠室に入った。
部屋にはパイプベッドが並んであり、彼はその内の一つに倒れ込んだ。
「疲れた…」
そうつぶやくと日内は充電が切れたロボットの様に、身動きもせず眠りについた。
この間、日内は高校野球の全国大会の地区予選にむけての練習に加え、あることもしていた。
それが那奈が言っていた「七瀬の噂に関する黒幕」への脅し作戦に使う『証拠』探しの奔走だった。
だが那奈と日内だけでは心もとない。
なので日内が付き合いがある「阿修羅」という半グレ組織に協力をあおいだ。
そうして何とか今「黒幕」をゆすれる証拠を揃えられたのだ。
その協力してくれた「阿修羅」の中でも特に中心になって協力してくれた人物。
それがこのマンションの一室のボスである「松田直人」だった。
松田は去年まで藤平高校野球部の部長をしていた。
彼は有能な野球選手で、バッターとしての腕はプロ野球の球団も目を付けていたほどの実力者であった。
だが彼が三年生の時、山守高校との試合で大負けをしたことから、松田の野球人生が狂った。
その試合には当時まだ一年生の七瀬が投手として出ていた。
(一年坊主が、三年に勝てると思うなよ)
松田はそう思っていた。
中学校でも実力投手として名を馳せていた七瀬だったが、さすがに高校では通用しないと誰もが思っていた。
それだけ本来は、中学と高校では選手の基礎体力や実力が違うのだ。
しかし、七瀬の投手としての腕はまさに「神」そのものだった。
一ミリの差も自在に操れそうなほどのコントロール。
相手の心も読んでいると思うほどにバッターが盲点だった所に球を投げる。
藤平高校のバッターは次々にアウトを取られた。
松田もパワー打撃で球をかすめただけでもヒットを飛ばす戦略を試した。
しかし七瀬はそれを逆手に取り、スピードの強弱をつけた投球をした。
それに松田は目が慣れないままボールを逃し、すべて三振を取られてしまった。
そして藤平は試合中に一点も取れないという、未だかつて無い屈辱的な惨敗をしたのだ。
それを見た球団関係者も「松田は言うほど大した者ではないな」と酷評した。
もちろんプロ野球球団のスカウトの話は白紙になった。
お金に余裕のある家なら上の学校を目指してそこでもう一度野球の戦歴を上げることも出来た。
だが松田の家は父の仕事のリストラもあり、裕福ではなかった。
松田は企業に入社し、企業球団の中で実力をつけようとした。
だが野球漬けの松田の学業成績は良くなかった。
それをみた企業側は松田を雇う事をしなかった。
松田の野球人生は完全に閉ざされた。
失望した松田の耳に入ったのは七瀬の世間での評価だった。
「美貌の天才投手」といわれた七瀬は球団ばかりか、野球に関心の無い人々も彼の話題で持ち切りだった。
その話には「七瀬は成績も優秀で、親は中沢財閥の上層部のエリートだ」というおまけも付いていた。
この話題は松田のコンプレックスを刺激するのに十分であった。
特に中沢グループは父のリストラの原因を作り上げた会社なだけに、松田は憤りでいっぱいになった。
その日から松田は、今まで向けていた野球の情熱も七瀬への嫉妬に向けて行った。
そんな松田を拾ったのが半グレ集団である「阿修羅」であった。
彼らの中には、松田と同様な道をたどった野球部のOBもいたため、彼らを通じて松田は「阿修羅」に入団した。
松田は基盤の頭脳は明晰だったらしく、ビジネスの才能を持っていた。
「阿修羅」が見落としていた手口のスキを改良したり、誰も見向きしなかった管理費の大幅な改善など、多くの功績を出し続けた。
気がつけばわすか半年弱で小さな会社を起こすほどになっていた。
彼は部活で養った部下達の束ね方、相手と有利に交渉するする高いコミュニケーション能力、細部まで目を光らせた高い計算力、そして時には力強く豪快な押しの強さ全てを兼ね備えていた。
そんな人材はどの企業も咽から手が出るほど欲しい人材である。
しかし皮肉にもそんな逸材の松田を開花させたのは、社会の敵である半グレ集団なのだ。
そんな時に後輩の日内から、松田にとって嬉しい知らせが舞い降りた。
それが七瀬の噂と、それをダシにした『黒幕』への脅迫作戦だった。
それを聞いた松田は涎を垂らす様に喜び、証拠探しも嬉々として協力していった。
それが山守高校と藤平高校が試合をした数日後の事だった。
その時の日内は少し眉をひそめながら話をした。
理由はこうである。
「でもね松田さん。いわばこれは那奈の感みたいなモンなんですよ。オレはあまり当てにはしてないんですがね」
そういう日内に対して松田はこう言った。
「いや、その件は少しこころ辺りがある」
松田が言うには、藤平のヤクザである「正田組」の噂でそういうのがあるという。
それは山守の土着宗教の団体「霊の社」の儀式で、子どもを使ったおぞましいものが存在するというものだ。
「もしそうだとしても、その儀式の証拠を持ってる人物なんて、どうコンタクト取りゃいいんですか?」
そう日内が尋ねると、松田はあるものを机の上に出した。
それを見た日内は云った。
「これ、オレオレ詐欺の名簿リストじゃないですか」
松田は得意そうにこう云う。
「そうだ。かつて俺が作業をしていたリストだ。この中に『佐渡茂男』ていうじいさんがいるんだが、このじいさんが元「霊の社」の信者みたいだったらしく、この儀式にも深く関わっているみたいなんだ」
松田が「阿修羅」に入って最初にした仕事が、いわゆる「オレオレ詐欺」であった。
それを言い渡された松田は眉をしかめてこう思った。
(俺の声は低いデスボイスが入って特徴的だから「オレオレ詐欺」に一番向いてないと思うがなぁ)
そう思いながらも松田は仕方ないと諦め、何日かオレオレ詐欺を続けた。
そして彼の予想通り、成果は一向に上がなかった。
(今日結果が何も出なかったら、上司に部署変更を依頼しよう)
そう考えた松田は、その日の最後に、ある老人の電話番号に息子の振りをして電話を入れた。
電話に出た老人は
「はい」
とだけ返事をしたが、松田は畳み掛ける様にこう言った。
「僕だよ。今、警察に捕まりそうなんだ、助けてくれ」
松田は内心(こんな声の息子はいないと言われて、電話を切られるだろうな)とあきらめていたが、老人の反応は予想に反し、大いに慌てていた。
「東君かい!それは大変だ。警察に見つかれば、君は奴らに殺されるぞ!」
あまりの老人の話に松田は内心たまげてしまったものの、頭を切り替えた彼は老人の話に添う様に返事をした。
「そうだよ。僕は今、交通事故を起こしてしまったんだ。どうしよう…相手は警察呼ぶっていってる。嫌なら金を三百万用意しろって脅してるんだ。もうどうしたらいいのか途方にくれてしまって…」
「そうか。今でも追われているのか…。分かった、金は私が用意をしよう。今すぐに町の外れにある『平谷団地』の四百九号室に、一千万円の札束を入れたトラベルケースを置いておく。銀行は身元が割れる危険があって物騒だから、使わない方がいい」
老人はそう言い終えると「ブチッ」とすぐに電話を切った。
(一千万円だと?本当にそんな大金持って来んのかよ…)
それを聞いた松田は話が話なだけに、本当に老人がお金を置いてくるのか半信半疑であった。
「…まあ、無かったらなかったでいいか」
松田はそう思い直すと、上司の許可をもらい、平谷団地の四百九号室に出向いた。
部屋の中に入ってみるとすでにトラベルケースは置かれており、中には一千万円の札束が入っていた。
「マジか…!」
目を丸くした松田がふと目にしたのは、同じくトラベルケースに入っていた一通の手紙だった。
松田は手紙を手に取り読んでみた。
〈東君へ。
霊の社のあの忌まわしい儀式から、いくらの月日が流れたのか…
遠い昔の事だが、今でも私は昨日の事の様にあの日の悪夢を思い出します。
あの時君はどうにか逃げる事が出来たみたいで、少し安心しました。
私はあの日から霊の社の操り人形にされてしまい、沢山の人々を不幸にさせました。
今は洗脳も解けてその悪行を深く反省し、誰にも目立たぬようひっそりと余生を過ごしております。
このお金は私が悪行の果てに手に入れたお金です。
私のようなしがない老人に使われるより、君が使った方がいいと考えてお渡ししました。
君の心がかつての野球好きの純粋な少年のままでいられるよう、心から祈っております。
佐渡茂男より〉
この手紙を読んだ松田はふと考えた。
「東って誰だ?」
まいいや。と松田は思い直し、手紙を自分のズボンのポケットにしまい込んだ。
一千万円を持って「阿修羅」の事務所に帰ってきた松田は、上司や幹部達に両手を上げて歓迎された。
「でかした松田!」
そればかりか
「明日からお前はこのポジションだ!」
と空席だった上役の席を任意された。
この後松田はどんどん組織の中で出世をしていった。
彼はそのきっかけをくれた「佐渡茂男」と「東」という人物に心の中で少し感謝した。
話を聞いていた日内はこう述べた。
「世の中、不思議な事もあるもんですねぇ」
そんな日内に、松田は得意げにこういった。
「そうだろ。佐渡のじいさんは一千万円をくれたばかりか、今回の『黒幕』の正体と脅すヒントもくれるかもしれん。ここまで神がかっているんだ。俺は那奈ちゃんの作戦に乗るぜ」
松田は上機嫌にスケジュール帳を開き、那奈の作戦に費やす時間を確保した。