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2章-4

 この日の麗香は上機嫌で今日の家事をこなしていた。

 私理由は恋人だった男を彷彿とさせる、彼の弟を見たからだ。


 成長した弟の方は彼より背が高く、男らしい雰囲気が漂っていた。

 別人だとは分かったけれども、もう二度と会えない彼を一目でも見たかった麗香にとっては、変わり身の弟でも嬉しかったのだ。



 その恋人であった一月との出会いは、七瀬の小学校の三者面談のときであった。


 面談が終わった後、七瀬の担任の一月は先に七瀬を外に出し、麗香にこっそりとささやいた。

「後でお茶でもしませんか?今日の面談はこれで終わりなんで、息抜きにでもどうですか」


 麗香は一月の顔を睨みつけた。

「私を他の母親たちと同じバカな女だと思ったの?私を愚弄しないでちょうだい」


 一月は少し困惑した。


(あれ?だいたいの母親は俺に引っかかるもんだが…やっぱり中沢財閥の社員の嫁は、お高くとまるもんなのかな)


 粋り巻いた麗香だったが、ふと何かを見つけた様に驚いた表情をしたあと、恐ろしい形相で


“パシンッ”


 と一月の顔すれすれにショルダーバックを投げつけた。

 あまりの事に一月は

「何するんだこの女!」

 と怒鳴り散らしたが、麗香は一月になど目もくれず彼の横に歩み寄ると


「フンッ!」

 

 と勢い良く地面を強く踏みつけた。

 麗香が靴を上げると、そこにはぺしゃんこに踏みつぶされた大きなスズメバチの姿があった。


「私、虫が嫌いなのよ」


 冷酷に言ってのける麗香に、一月は目を丸くした。

(こんなたくましい女も世の中にはいるんだな。ん?この女のブローチ動いてないか?)


 一月は麗香の付けている胸元のブローチが気になり、少し手を伸ばした。

 そのとき


 “ブーン”


 とブローチと思っていた大きな玉虫は、大きな羽を広げて麗香の胸元から飛び去った。

「うわぁぁぁっ!」

「きゃぁぁぁっ!」

 二人は思わず大きな叫び声を上げた。


「だから私は虫が嫌いなのよ!もうイヤ!」

 涙目になりながら、麗香は必死で服をはたいた。

 それを見た一月は

「っふふっ、ハハハ。あんた大きなスズメバチを倒したのに玉虫は怖いのかよ」

 と麗香のギャップに腹を抱えて笑った。


 麗香は一月の言葉にムカッときたらしく

「あなたも男のくせに玉虫に驚いていたじゃない!」

 と毒づいた。一月はあわててこう弁解した。


「ちがう!あの玉虫が不意打ちを仕掛けたから驚いたんだ。あいつが卑怯なだけだ」


 それを聞いた麗香は彼の弁解がおかしくなり

「ふふっ」と笑った後、こういった。


「じゃあ私たち、あの玉虫の不意打ちにまんまと謀られたのね」


 それを聞いた一月は自分の弁解の滑稽さに思わず笑ってしまった。

「アハハハっ。確かにそうだな!」


 二人はしばらく笑い合った。



 そこから一月とは、彼が七瀬の担任であるのと、七瀬の友人の兄であったため、会う機会が増えていった。

 一月は夫の雅治が気がつかない、麗香のささいなところにも気がついた。


「少し手を切っているだろ。危なっかしくて見てられねぇから、オレにさせろ」

「バカ!何無理してんだ。少しはオレに頼れよ」


 一月の口調はぶっきらぼうではあったが、心から麗香を思っての言葉だった。

 そんな彼に麗香も


「あなたもよ。二人ともバカで危なっかしいのよ」


 こういい合って、二人で笑い合う日が増えていった。

 会えば会ううちに似た者同士の二人は惹かれ合い、互いに恋心を抱く様になっていた。

 最終的には一月は雅治がいない時に相生家に上がり込む様になった。

 その頃には、二人は完全な恋仲へと発展していた。


 引っ越しして間もない麗香にとって、頼れる人間は一月しかいなかった。

 いや、この世でたった一人だけの、心を許せる人物だった。


 彼女はいつの間にか一月といる事が一番の目的になってしまい、息子達の世話も義務的にしかしないようになってしまった。

 そればかりか、麗香にとって二人の息子は、雅治と離婚出来ない大きな足かせになっていた。

 その理由とは、雅治が息子を人質のように扱い、麗香との離婚を阻止していた部分もあったからだ。


「俺達が離婚なんかすれば、息子達は母のいない寂しい子になってしまう。おまえは薄情な女になって、この子達を寂しい子にさせるつもりか!」


 これは夫雅治が、離婚話にの際、必ず麗香に言って聞かす言葉であった。

 夫の雅治は世間体を気にしてたのかも知れない。

 麗香の心情なんてなにも考えていなかった。


 そういう事情もあり、一月が煌輝に暴力を振るっていたのも知ってはいたが、見てみぬ振りをした。

 多分、心のどこかでこう期待していたからだろう。

(夫が煌輝の傷を見つけてくれたら、それを止めなかった私に愛想をつかして離婚してくれる)

 と…。


 しかし、そんな曖昧な日々も長くは続かなかった。


 一月は家が信仰していた『霊の社』の儀式のために、七瀬を連れて行ってしまった。

 その帰りに一月は交通事故に遭い、帰らぬ人となった。


 麗香は一人で帰ってきた七瀬に、思いっきりか顔をひっぱたいて怒鳴りつけた。


「お前のせいだ!お前が一月を連れて行って殺したのよ!」


 それをきいた近所の子ども達がおもしろ半分に

「七瀬が一月先生を誘惑して、口封じのために殺した」

 と心ないウワサをまき散らしたのだろう。


 麗香は近所の子どもの会話から、息子を侮辱するウワサを耳にした。

 それにも関わらず、心のどこかで安心した部分があった。


「あんたは絶対に幸せになんかならない」


 麗香の母はよく彼女にこういっていた。

 その母の気持ちが彼女にもよくわかるようになっていた。

 その頃には七瀬にこう思う様になっていた。


(あんたなんか幸せにさせない)


 自分にそっくりな七瀬が自分を置いて幸せになるのを、麗香はなによりも許せなかった。

 もし七瀬が人々に認められ、幸せになってしまったら

『相生麗香が不幸なのは、彼女自身のせいなのだ』

 という現実を直視してしまうからだ。


(私がこの世にいるのは、七瀬が不幸な存在だからよ)


 そう。麗香は七瀬が幸せになっても、いなくなってもいけないのだ。


 そのためには二男の煌輝に協力させるよう、彼を自分の思い通りに動かせる「人形」のままでいてもらわないといけない。もし、煌輝が麗香の本当の気持ちに気がついて、兄と一緒にこの家を出て行ったら、麗香は自分の存在に耐えきれなくなってしまう。


 なので麗香は、七瀬と煌輝に差をつけて、煌輝を思いっきり甘やかして育てた。

 でもそうすればするほど、麗香は自分がむなしくなった。




「私って弱い女ね」


 麗香はそうつぶやいて、家事をこなしていった。





 二階の部屋に戻った煌輝はぐったりとベッドに座り込んだ。

 多分、慣れてない客人の宿泊もあるのだろうが、一番の疲れた理由を彼は知っていた。


「あの男が、あの男の弟が来たからだ」



 煌輝が幼い頃である。

 母の麗香はある男を家に上げた。

 その男を煌輝は知っていた。


「みしませんせい?」


 兄の七瀬はその男のことをこう呼んでいた。

 男はそういった煌輝を見ると、ものすごい形相で睨みつけた。

 おじけついた煌輝は大声を上げて泣いた。


 男はそのまま煌輝を無視して行ってしまったが、怯えた煌輝は泣きながら母を呼び続けた。

 だがいつもならすぐに駆けつけてくれる母が、いつまで経っても来ない。


「おかあさん、どこぉっ!」


 泣き続ける煌輝の耳に「ドンドンっ」という足音が聞こえた。

 その足音は煌輝の目の前に止まった。

 煌輝が上を見上げると、そこには怒りを露にした男の姿があった。


「うるせぇんだよ!」


 男は煌輝の頭を思いっきり殴りつけた。

 またも泣き叫ぶ煌輝に男は


「泣くな!泣いたらまた殴るぞ!」


 男はそう怒鳴ると、煌輝の口を塞いだ。

 煌輝は息が出来ず苦しくなり、その恐怖で震え上がった。

 そして助けてくれるであろう母の姿を必死に探した。


 しかし母の姿はなかった。


「お前のかあちゃんは、お前が泣くから嫌いなんだと」


 男は煌輝の目を睨みつけていった。

 そして乱暴に煌輝の口を塞いでいた手を払いのけた。


「おかあさん、ぼくのこときらいなの」

 恐る恐る問う煌輝に、男は言った。


「そうだ。泣きわめく奴は捨てるんだと」


 それを聞いた煌輝は必死に男に伝えた。

「ぼく、泣かないよ。泣かないから」

 青ざめる煌輝に男は

「そうか、じゃあ泣くんじゃないぞ」


 というと、思いっきり煌輝の体を蹴った。

 そして家のどこかに消えてしまった。


 煌輝は男に蹴られた横腹をかばいながら、母に捨てられたくない一心で、泣きわめくのを必死にこらえた。


 その日から、男は家に上がり込むたびに煌輝に暴力を振るった。

 そのたびに煌輝は恐怖に怯えながら、泣き叫ぶ事も出来ずにいた。

 そしてその日も男に殴られていた。

 耐えきれなくなった煌輝は心の中で必死に叫んだ。


(だれか助けて!)


「あぶない!」

 そういった誰かが、煌輝をかばう様に強く抱きしめていた。


 それは兄の七瀬だった。

「ごめんね煌輝。今まで気づかなくて」

 煌輝はかばってくれる兄に必死でしがみついた。

 兄は男の目をしっかり見てこういった。


「三島先生。これはいけないことです。煌輝に謝ってください!」


 しかし、男は兄を怒鳴りつけた。

「邪魔をするな七瀬!そこを退け!」


「いいえ。退きません!先生この前言っていたじゃないですか。萩彦君を殴ったこと後悔しているって。煌輝を殴っても先生は辛いはずです。二人とも辛い思いをぼくはさせません!」


 それを聞いた男は悔しそうに、けれども、どこか寂しそうな顔をして、何も言わずに家の外に出て行った。


「お兄ちゃん!」

 煌輝はそういって、今までの不安を吐き出す様にわんわんと泣き出した。

 そんな煌輝を兄の七瀬は優しく抱きしめてくれた。


 そのとき「トントン」という足音が聞こえた。

 その足音の主を知っていた煌輝は


「おかあさん!」

 と嬉しそうに母の顔を見上げた。


 だがそこにあった母の顔は、今まで見た事も無いような恐ろしい鬼の形相だった。

 煌輝は冷水を体に浴びた様に縮こまり、恐怖で震えた。


「七瀬、なんて事をしてくれたの?三島先生帰ったじゃない。本当にあなたは悪い子ね」


 兄を睨み下ろす母は煌輝を見つけると、彼にこういった。

「ねぇ。煌輝もお兄ちゃん悪い子だと思うわよね」


「母さん、煌輝を攻めないで」


 そういった兄の顔を、母は思いっきり打った。

 その姿はあの男と同じであった。


「どうなの煌輝。煌輝もお兄ちゃんをかばう悪い子なの?ねえ、いい子だから返事をしなさい!」


 煌輝に詰め寄った母は、最後には彼を責める様にわめき散らした。

 煌輝は頭の中がぐるぐる回った。


(お兄ちゃんは悪くない。僕を助けてくれたもん。でもそれを言ったら、優しいお母さんはいなくなってしまう)


 そう思った煌輝は小さく

「うん…」

 とだけうなづいた。



 煌輝は兄の七瀬を見捨てたのだ。


 しかし、幼い煌輝にとって母親に見捨てられることはある意味「死」をも意味していた。

 幼い子どもは親の助けなしでは生きて行けない。

 煌輝が親を選択するのは必然であった。


 大きくなった煌輝はそれを理屈では理解していても、あの日から背負い続けた「罪悪と無力感」は日に日に彼の心の中で膨らんでいった。


 そんな現状に耐えきれなくなった煌輝は気持ちの中で言い訳をした。

(母さんは兄さんを悪いと言っている。そう、母にこびなかった兄貴が悪いのだ)


 しかし、学校や周りの人々の対応はそうではない。

 兄の七瀬は天才的なピッチャーで、その評判は器量の良さもあり、世間に大体的に取り上げられている。それはまさに現人神そのものであった。

 煌輝はその偉大なる兄により、存在を隠されてしまい、「相生煌輝」としてではなく「相生七瀬の弟」としてしか認識されなかったのだ。その最たるものが、先日の野球部への勧誘である。


 それはまさに煌輝にとって「無力感」の再現でしかなかった。



(俺は、幼いあの日から変わってないな…)

 ぼんやりそう思いながら、煌輝は自室の窓の外を見た。


 外の庭で母は、植えられた花々に水やりをしていた。

 その花々は一見適当に配置されていた。

 だが父が持ち帰ってきた花達は日の当たらない、薄暗い場所に置かれいた。

 その花達は心なしか元気が無かった。 


 煌輝はその花々を見て、兄の七瀬を連想した。


 そのとき、彼はハッと我に返った。

 本当に自分を苦しめていた人物を理解したのだ。


「そうか…父さんと母さんだ…」


 しかし煌輝は、彼らに何を言えばいいのか分からなかった。

 そう、煌輝の心情に当たる言葉が思いつかないのだ。


 途方にくれた煌輝だったが、一つだけしなければいけない事が分かった。


(兄さんに謝らなきゃいけない)


 だがそれは、今までの煌輝の「崩壊」をかねていた。

 その事実に足がすくむ。


 思い悩む煌輝は疲れきってしまい、そのままベッドに横になり眠りについてしまった。

 その姿はまるでサナギの様であった。

 彼は現実に立ち向かう「蝶」に成るまでに、布団の中で必死に自分を取り戻していた。

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